看板娘の裏アカウント 10
「申し訳ありませんがお客さま、まだ開店には早すぎますよ」
翔琉は、カフェ・リブレの前で中を伺っていた人影の襟首を掴んだ。思っていたよりも低い声が出たことには構わずに続ける。
「まぁ開店したとしても、ストーカーは入店拒否させていただきますが」
肩も掴んで腕をぐい、と引いて、力任せに男をドアから引き剥がす。首根っこを掴んで振り回すようにされた男は、道に倒れ込んで転がった。
理解が追いつかないように目を見張ったり歪めたりするその顔は、翔琉も何度も見た顔だ。
「おかしいと思ったんですよ、あなたと帰り道で会ったときのことが、なりすましの投稿で全く触れられないから。簡単なことですよね。犯人はあなただったんだから」
一瞬凪のように減った人通りは復活していて、道の往来で突然始まった揉め事のような光景に、通行人の視線が集まる。
夏美も慌てた様子で店から出てきて、尻餅をついている人物を見て声を上げた。
「え……木戸さん!?」
「あ、夏美……」
男が彼女の名前を呼ぶと、夏美は眉を顰めて翔琉の後ろに隠れた。木戸はそれを見て、顔を歪めて立ち上がる。
「夏美! なにやってんだよ、こっちおいで!」
「ええ、なんでですか……て言うかいきなり呼び捨て?」
「はあ? 恋人同士が呼び捨てするのは当たり前だろ」
「恋人!? 誰と誰が!?」
「俺と夏美だろ? お互い好き同士なんだからそういうことになるだろ」
「な、なにわけ分からないこと言ってるんですか」
夏美は翔琉のシャツを掴んで、ぎゅうと握った。一歩踏み出して来る木戸に、「来ないで」と震える声で言う。
完全に翔琉に頼りきった夏美の姿を見て、木戸は翔琉を睨み付けた。
「お前、夏美になにしたんだよ」
「は、なにとは」
「とぼけるなよ、夏美に付きまとって無理矢理手出したんだろ」
「まさか。僕と夏美さんはただの同僚ですよ」
「ただの同僚がなんで部屋に上がり込んで朝まで出てこないんだよ!」
木戸が大声で喚く。ビルの立ち並ぶ通りに、裏返った怒鳴り声が響いた。通行人のうち何人かは立ち止まって、こちらの様子を伺っている。
「申し遅れましたが、僕は夏美さんからストーカー被害の相談を受けて、身辺警護をしてたんですよ。あなたから守るためにね」
「俺がストーカーなわけないだろ!」
「じゃあどうして僕が彼女の部屋にお邪魔していたことを知ってるんですか?」
「そ、それは」
「ちなみにあなたが心配しているようなことは一切ありませんよ。映画見て猫と遊んでただけですので」
「信じられるわけないだろ! 部屋の電気だって」
「電気がなんですか?」
どう聞いても自白としかとれない言葉をぺらぺらと吐いた木戸は、顔を青くして、それでも口を閉じることはしなかった。あくまでもストーカーではないと言い張る気のようだ。
「俺はその、ちがう、夏美がメールの返事してこなかったから心配になって」
「その件ですが、夏美さんのご友人があなたに教えたメールアドレス、間違って事務連絡用のフリーメールのものを渡してしまったらしいんです」
「は?」
「しかも夏美さんは大学卒業以来使っていなかったそのメールアプリのパスワードを忘れてしまって、メールが来ていること自体気付いていなかったそうなんですよ。昨日まで」
実際にはあまりにもしつこく夏美の連絡先を聞く木戸に嫌な予感を感じた友人が、夏美に害の及ばなそうなものをあえて送ったらしいと、昨夜のうちに確認が取れている。かえってそれが木戸のストーカー化のきっかけになってしまったわけだが。
夏美のことだからきっと、友人が気に病むからと言わずにおくのだろう。
パスワードも、夏美に片っ端から心当たりを思い出させて、すでにログインに成功している。そしてそこには、決定的な証拠が大量に残されていた。
「夏美さんと知り合ってからストーカーを始めるまでの一ヶ月で、八十通もメール送ったんですね。不思議なことに、今朝ポストに入っていた何十通もの手紙と文面や書き方が酷似していて、素人目には同一人物の書いたものに見えるんですよね」
木戸は口をはくはくと開閉させながら、きょどきょどと視線をさまよわせ、やがて翔琉の後ろから顔を出す夏美を見た。さっきの口振りでは、木戸の中では夏美と彼はお互いに想い合っていて、横恋慕した翔琉が邪魔をしている、ということになっているらしい。
この期に及んでまだ夏美とコミュニケーションがとれると思っているのだ。
「メールの返事がないのが気になって勤め先まで来ることは、百歩譲って理解しましょう。でもそこから尾行して家を突き止め、向かいのアパートに引っ越して窓を監視し、そうして得たプライベートな情報をSNSで公開していることは、どう言い訳するつもりです?」
「いや、だから……ちがう、俺じゃない」
「否定しますか? ちなみにですが、手紙に書かれていたとある個人情報なんですが」
翔琉は夏美をちら、と振り返る。
「夏美さん、合コンで下ネタに困らされたと言ってましたね」
ずっと口を挟むこともなく後ろに佇んでいた夏美が、突然話をふられて「はいっ?」と裏返った声を上げた。それからうんうんと頷く。
「スリーサイズをあまりにもしつこく聞かれるので、教えて会話を終わらせてしまったと。その相手が」
「その……木戸さんです、ね」
遠慮がちに言う。最初に入っていた手紙のひとつに書かれていた情報だ。夏美のカップ数まで把握しているのは翔琉にも気づかれないように部屋に侵入しているか、ベランダに干した洗濯物をなんとかして盗み見たのかと考えたが。なんのことはない、夏美の口から言わせていたのだ。
「女友達にも言ったことはないらしいその情報、木戸さんからのメールにもしっかり書いてありましたよ。どう説明します? まさか勘とか言いませんよね」
木戸はむぐむぐと口の中でなにか言ったあと、歯切れの悪い言葉を並べた。
「でも……だから、それは、そうじゃなく」
「なんですか? “俺じゃない”って言ったの、手紙のことじゃないんですか?」
「いや、そう、違うのはなりすましで」
「へえ、なりすまし」
翔琉がそう呟いた瞬間に、木戸は「あぁ……」と情けない声をあげて、地面に膝をついた。姿を表さずにいた時には手がかりの少なさに悩まされたというのに、対面した途端、口を開くたびこんなにもボロを出すとは。詰め寄るのも馬鹿馬鹿しい気分になるが、今回のこれは、どうしても必要な儀式なのだ。
「僕はなりすましなんて一言も言ってないんですが。それ、自白ととってもいいんですよね?」
「いや……」
「SNSであなたが露木夏美さんになりすまして行った根も葉もない投稿の数々、ストーカー行為、それから手紙とメールのいくつかは脅迫にあたります。認めていただけますね」
捜査礼状を読み上げるときのような、はっきりとした語調で翔琉は言った。周囲に集まりはじめていた野次馬にも、確実に聞こえていただろう。頭の上から覗き込むように木戸を見下ろすが、彼は黙ったままなにも言わない。ここまで白状しておいてだんまりとは。いいだろう、と翔琉は木戸の前に屈み込んだ。
「まあ、別に認めてもらわなくても、手紙に残った指紋とさっきドアノブについた指紋を照合すれば済む話なんですけどね」
軽い口調で言うと木戸はばっと顔を上げ、カフェ・リブレのドアと目の前の男を見比べてから、夏美をちらりと見て、視線を落とす。いっそ哀れっぽいほど血の気をなくし、肩を落とし、深い溜め息をつく彼に、だが翔琉は感情移入をする気はまるでなかった。夏美が感じた恐怖も不安も不快感も、木戸がどうにかなったところでこの先もずっと残ったままなのだ。
しかし声色だけは同情的を装い、「ご存知かとは思いますが」と口にする。
「彼女、この辺りのおっかない刑事さんたちに大人気ですから。取り調べ大変でしょうね……ま、自業自得ですけど」
それから近所の交番の地域警察官を呼び、連行されていく間も、木戸はずっとぶつぶつとなにか言っていた。なにかと思ってよく聞けば、「俺の言う通りにしないから」「せっかく助けてやろうと思ったのに」「お前が邪魔しなければ」と恨み言を呟いているのだ。救いようもない。
翔琉は口を開いて、結局なにも声をかけることなく閉じた。特に言葉もないし、彼が勝手に恋敵だと思っている翔琉からなにか言っても、余計に拗れるだけだと考えたのだ。
しかし翔琉が引いた瞬間にすっと前に出て、木戸に近寄った人物がいた。「夏美さ……」と、翔琉はその人の名前を呼びかける。彼女は木戸の前に立つと、真っ直ぐに顔を見て、言った。
「届いてたメール、見ました。気づかなくてごめんなさい。最初にデート誘ってくれてたんですね」
フリーメールの未読ボックスに大量に溜まっていたメールは、翔琉の確認を経てから、はじめの頃のものだけを夏美にも読ませた。彼女の言う通り、一番最初のメールは合コン直後、一月半も前のもので、二人で食事にいかないか、という誘いだったのだ。
そのメールを無視していなければ、木戸の異常性にその頃気付いていれば、こんな事件にはならなかったのだろうか。木戸は顔をあげて、夏美を見た。
「もしあのメールに気付いて、返事してたら……」
言葉を切る。夏美は少し目をそらしたが、木戸はなにかを期待するように、彼女を見つめ続けたままだ。夏美は改めて木戸の目を見た。
「……してたとしても、私、断ってました。下ネタ言う人すきじゃないし、私の仕事のこと『喫茶店なんか』って言ったし、初めて会ったときからちょっと……いえ、絶対ないなって思ってました」
ばっさり。木戸はぽかんと口をあけたまま二の句を継げず、翔琉でさえ黙ったまま顔を強張らせた。木戸の腕を掴んだ警察官だけがやれやれとばかりに溜め息をついて、呆けたままの男を連行して行く。それを見送りながら、翔琉は口を開く。
「夏美さん、結構言いますね」
「ん? そう?」
「正直、ちょっと驚きました」
そう言うと、夏美は少し首を傾げて、翔琉を見上げた。
「私もともと、嫌なことは嫌って言うほうですよ」
そうなんですかと軽く言葉を返しながら、確かに雇い主の店長や目上の常連客である深山にも、笑顔のままはっきり抗議する場面なんかを見たことがあると思い返す。
しかしすぐに頭をよぎったのは、昨晩の記憶、耳まで赤くして困りうろたえる夏美の表情だった。待って、だめ、こわいと言いながらも、振り払われない手。大声も出さずに、か細くあげる囁き声。押し返してくる力のひ弱さ。あの抵抗の曖昧さに含まれたものを想像してしまって、翔琉は一瞬思考を止めた。
「翔琉さん、ねぇちょっと、そんなことより」
脇腹を夏美がつついてくる。はっとして振り向くと、夏美が眉を寄せて難しい顔をしていた。その顔のまま辺りを見渡す。
「なんでカフェ・リブレの前でこんな騒ぎ起こしたんですか? 中に入るとかしてもよかったじゃない、こんなに人集まっちゃって」
そう言われて、翔琉も周囲をぐるりと見渡した。ちょうど中高生の登校や勤め人の出勤に被る時間帯だ。カフェ・リブレの周りには人集りができ、ガードレールの外にまではみ出して、向かいの歩道にまで野次馬が集まっている。
木戸を連れに来た警察官が多少散らしてはくれたものの、犯人が連行された後でもこの騒ぎ。手前にいる女子高生の集団は全員がスマートフォンを手にしている。朝っぱらから通学路で起きた事件を、早速友人に拡散しているのだろう。
学校へ行けば教室でもその話をするし、家に帰れば家族にも言うかもしれない。ここに集まった見物人のうち、何十人もがそうして同じように動くはずだ。
カフェ・リブレの前の路上はそのための舞台だった。大勢に聞かせるための、無差別な推理ショーの。
「ずいぶん炎上してましたからね。火消しは多いほうがいいでしょう?」
にこり、笑ってみせると、夏美は訝しげに首を傾けた。




