看板娘の裏アカウント 1
なりすましやストーカーの気持ち悪さを出すため、全編通してあまり濁さず書いている箇所が多いので、苦手な方はご注意ください。
風呂上がりの夏美は、髪を乾かすのも億劫なくらいへとへとに疲れていて、服を着るのもうんざりなくらい暑くて、下着とオーバーサイズのTシャツだけ身につけてミニテーブルの前に座り込んだ。
レモンチューハイの缶を片手に足を伸ばすと、すかさず毛むくじゃらに足首を枕にされる。すぐに暑苦しくはなるのだが、愛猫ムギは太り気味なせいか毛先は案外ひんやりしていて、火照った体には気持ちよかったりするのだ。
クーラーの風速を弱めて、スマートフォンを手に取る。近頃毎晩の日課になっている、SNSのチェックをしようとしてだった。
といっても、友人と交流したりよそのペットの写真を眺めたりという、元々していた使い方のためではない。検索ボックスには『カフェ・リブレ』『店員』と打ち込んだ。
これは自衛の一環だ。翔琉という美青年が同僚として働きはじめたのは、数ヶ月前のこと。
彼の存在が口コミで広まりはじめてからというもの、インターネットに関連した苦労が絶えないのだ。
店内で普通の会話をしているだけなのに、ただの同僚にしては距離が近い、付き合っているからだ、いや露木夏美が言い寄っているのだと、伝言ゲームのようにどんどん事実を曲げて拡散されていく。
エプロンを外して二人で買い出し業務に出れば、一緒に買い物をして同じ家に帰る仲なのだと噂される。
情報元は主に近所の主婦たちだった。
スーパーで二人を見かけたことを家で話して、それを聞いた翔琉ファンの高校生の娘が憤慨して友だちに伝える、といった具合のようだ。
人の口に戸は立てられないとは言うが、人の噂も七十五日とも言う。
口頭で噂されるだけならまだいいのだ、すぐに飽きるだろうし、そこまで気にすることはない。
だが一部の女子高生たちには、プライベートな世間話をなぜかSNSでしてしまうという、少し考えの足りない習性があった。
おまけに地名や店名を出すことにも一切の躊躇がない。
何町のどこのスーパーでカフェ・リブレの店員二人で買い物してたって、というやり取りを、全世界の誰もが自由に見られるということに、考えが及ばないのだ。
おかげで『女店員が翔琉さんに言い寄っている』という噂は、カフェ・リブレに来る女子高校生の間にあっという間に広がった。
彼女らの大半は夏美を目の敵にし、残りは夏美の味方とどちらにも興味がないのと半々、当人たちを置いてけぼりにしてSNS上で喧嘩をはじめる始末。
面白がって火に油を注ぐ外野のせいで状況はどんどん加熱し、夏美は取り残された気分のまま炎上の渦中の人になってしまった、というわけだ。
なんにせよ、針のむしろとはこのことだ。
このご時世、ネット上でのレッテルは現実にまで持ち越されてしまうのだということを、実は意外と年上のあの同僚はわかっていない。「気にしなければいいんですよ」なんて爽やかに笑う顔を思い浮かべ、液晶画面に表示された検索結果を眺めて、夏美は溜め息をついた。
『カフェ・リブレの店員距離感おかしくない? ウゼェ』
『どうせ先輩権限で無理矢理彼女になったんでしょ?』
『なにそれ、かけるさんかわいそう……デコ消えてほしい』
『カフェ・リブレの店員のにおわせほんとウザすぎるんだけど』
ざっと見ただけでもこの言い様だ。先輩権限なんてあるわけないでしょ、というかデコって、と夏美は溜め息をつく。
個人で愚痴を呟いているだけならまだよくて、ゴールデンウィークの近付いた春先のある時、まるで大衆にでも訴えるかのような抗議文が投稿された時の騒ぎといったら、酷いものだった。
『カフェ・リブレの女店員、イケメンの新人店員にベタベタして言い寄ってます。セクハラじゃありませんか? イケメン店員さんは女性客に大人気の素敵な人です。同僚だからって職権乱用ですよね?』
この全くの事実無根のツイートが近隣の女子高生コミュニティ内で拡散され、まるで事実のように広められて、ついには夏美が担当していたカフェ・リブレの宣伝用アカウントに批判が殺到するまでになってしまったのだ。
そのせいでカフェ・リブレのアカウントは鍵をかけて更新を停止する羽目になった。
噂が立つのが怖くて買い出しの時も周囲の視線が気になって落ち着かないし、どこでもつい意識的に距離を取ってしまう。
翔琉にもずいぶん失礼を働いてしまっているし、夏美はまるっきり理不尽な自然災害に遭っているような気分なのだ。
そんな理由で、災害情報でも見るような感覚で、夏美はSNSのチェックを習慣にするようになった。
悪口をわざわざ見に行くのだから精神の健康に良くない気はするが、人の気に障る言動なんて自分ではわからないのだから仕方がない。
取れる対策があるならば取っておきたい。
『露木のツイートどう見ても嘘でしょ? そんなに構ってほしいのか』
『みんな言うから見に行ったけどやばくない? あの女』
『てか自撮りすご、真面目そうな顔してビッチじゃん。ほんと翔琉さんに近づかないでほしい』
違和感に気付いたのは、とあるツイートにこんな返信が連なっていたからだった。検索結果に戻って注意して探すと、似たような投稿がいくつか見られる。
どれも同じ、『カフェ・リブレのウェイトレスのSNS』と『自撮り画像』に反応しているようだった。
夏美はカフェ・リブレの広報用はともかく、個人的なものは話題にされているSNS以外のアカウントしか作っていない。
カフェ・リブレのウェイトレスの露木、という女性が他にもいるのかとも思ったが、さすがにこのタイミングでは考えにくい。
検索結果のうち一つが件のアカウントにリプライを送っているものだと気付いて、アルファベットの羅列をタップした。
「な、なにこれ」
開いた瞬間、体中の血がざあ、と引いていくような感覚に襲われた。
カフェ・リブレの看板の写真がアイコンにされている。ヘッダーの写真はテーブルに置かれたコーヒーとトースト。そこまでは普通だ。
アカウント名は『夏美♡』。プロフィールに羅列されているのは、趣味嗜好だろうか。ハートマークが乱用されたそこには、コーヒー、料理と並んで、『えっちなことが好き♡』と書かれている。下へスクロールした夏美は、思わずスマホを取り落としそうになった。
なんでもないような日常の出来事を綴ったツイートに、谷間や太腿をあられもなく晒した写真や、下着姿の写真が添付されているのだ。
わけがわからなくなってさらにスクロールすると、画像のついていないツイートも出てくる。
『今日の夏美の服見てくれました? ハイネックのノースリニットお気に入りなんですけど、実はいつもノーブラなんです♡ K君にはバレちゃったみたい……休憩のとき後ろから抱き締められてハァハァされた♡』
吐き気がする。指先もぴりぴりと感覚を失っていくなか、夏美は電話をかけていた。
一人では到底考えを処理できそうになかった。
「もしもし!? 翔琉さんっ……!」
◇ ◇ ◇
翌日、開店前のカフェ・リブレには、難しい顔をした翔琉と夏美がいた。
夏美のスマートフォンを翔琉がじっと眺めている。
「これは……うわ」
「ねえ、なんなんでしょうこれ、私こんなの知らないです」
「ハイネックのニットって、あの水色の? 三日前って、夏美さんが着てた日と日付も合ってますよね」
「そうです! の、ノーブラじゃないですからね!?」
「わかってますから、落ち着いて」
ほとんど泣きそうな顔をした夏美に、翔琉が言う。
メディア欄を見た途端眉を顰めたのは、夏美も見たように、グラビア雑誌も顔負けなほどの際どい自撮り写真ばかりが並んでいるからだ。
写っているのは顎から下、特に胸元や内腿を強調したものが多い。
「悪質ななりすましですね……写真の顔がトリミングされてるのは、全て別人だからでしょう」
「え? そうなんですか?」
「夏美さんに髪の長さや体格の似た人の画像を、ネットで拾ってきてるんですよ。ほら、この写真の鎖骨にあるホクロが、こっちにはありません」
「ほんとだ……」
夏美は写真を見て翔琉の言うことに納得したあと、彼の顔を見上げた。
惜しげもなく色っぽい肢体が晒された写真を、顔色一つ変えることなく平然と検分している。大人の男の余裕だろうか、と考えて、もう一度写真に目をやった。自分の胴に手をやる。
「似た体格って……私こんなにアンダー細くないと思うけどな」
「え」
隣から漏れた声に再び顔を向けると、翔琉もぱ、と顔を上げたところだった。
「と、ともかく」
と顎に手をやる。考え事をする時によくやる、彼の癖だ。
「ここを見ている人にはこれが夏美さん本人だと思われてるのが問題です」
「え、そうか、やだ……気持ち悪い」
「リプライも批判とセクハラコメントでひどいことになってますね」
「わ、私見ないでおきますね」
画面から顔をそらして目を覆った夏美に
「そうしてください」
と翔琉が言う。夏美が見たくないものは翔琉が見てくれるらしい。
自分へのセクハラを見られることも恥ずかしいが、知らない分には危険度も推し量れないので致し方ない。
ひと通り目を通し終わった翔琉が声をかける。
「まず、このアカウントが開設されたのは二週間前みたいです」
「二週間!? そんなに前から」
「内容は服装のことと……バイト仲間に熱烈に言い寄られている、というような話が多いですね。このK君って僕のことですよね?」
「名前は出してないけど、そう思いますよね? 私の言ってた女子高生からの中傷がひどくなったのも二週間くらい前な気がするんです……そっか、このアカウント見てたんだ」
「はじめは料理やコーヒーの写真も載せてますが、閲覧者が増えないせいか、すぐに自撮りと称したエロ画像の投稿にシフトしてますね。……夏美さん?」
低い声で咎められても、夏美は笑いを噛み殺しきれていなかった。翔琉の真剣な顔がかえって冗談みたいに見える。
「す、すいません、翔琉さんがエロ画像って言うの、なんかおもしろ」
「笑ってる場合じゃありませんよ、本当に。これ見てください」
はい、と翔琉の示した画面を素直に覗き込む。添付された画像も服を脱ぎかけて下着と肌を露出させるという相変わらずの際どさだが、内容も内容で衝撃的なものだった。
眉を寄せた夏美に、翔琉は液晶を操作して違うツイートを見せる。
「ニットの件もですけど、この日の閉店が八時半まで伸びたこと、こっちの特製パスタの売れ行きがよくて昼過ぎで終わってしまったことなんかは、カフェ・リブレに来ていて状況を知らないと書けないことです」
「え、じゃあ、なりすましの犯人はカフェ・リブレのお客さんなんですか……?」
「それなりの頻度で来ている常連客でしょうね。まだ絞り込めるほど判断材料は足りませんが……それから、これ」
指を二、三回動かして表示したのは、また違うツイートの画面だった。夏美の口から「え」という声が漏れる。
『今日は花火大会だったので、家の前の公園で見ました! K君のリクエストで浴衣も着たよ♡ 脱がせたいとか言ってきてどうしようかと思った(笑)』
二の句を告げずに固まっている夏美に、翔琉が遠慮がちに声をかける。
「この日花火大会があったのは、この町の住人なら誰でも知っているとは思いますが……夏美さんの家の前、確かに公園がありますよね」
「あ……あります、ね」
「なりすまし犯がそれを知っているということは、その」
勢いよく翔琉の顔を見上げた。視線が合うと、眉尻を下げて困ったような表情を浮かべる。
「わ、わたしの家、知ってるってことですか? どうして……?」
情けなく震えた夏美の声を聞いた翔琉は、浅く頷いてから一度目をそらして、唇をきゅっと引き結び、また目を合わせて、言った。
「……夏美さん、これはストーカーです。必ずなんとかしてみせますから、僕に任せてくれませんか」