8 甘酸っぱい心地よさ
さて、こうしてあずさと忍が仕事に出掛けて行ってしまったわけなのだが、どうするべきだろうか?
今日の夜もホストクラブに出向くというのならば、もう一眠りして、回復仕切った体力を温存するべきだと思うのだが、今日明日と休みをもらってしまったので、できることならこのまま起きて、なにかしたい。
美月と話でも…と一瞬思ったが、彼女は家政婦である。これからこの広い家の掃除や買い出しなどやることがたくさんあるのではないかと思われ、思わず口から出そうとした言葉を飲み込むと美月が何かあったのかと聞いてきた。
「うん、えっと……あっ!そうだ!美月さんはお仕事が早く片付いた時って何してるんですか?」
「え?早く仕事が終わったら?」
「はい。」
「う〜ん…そうですね…。終わり次第帰っていいと言われてるので、帰宅ですけど。たぶん鼎様はそういうことを言っているのではないんですよね?そうなると本を読んでいるか、テレビを見てますね。洗濯機が動いているちょっとしたときなんかは。」
本にテレビ。それは鼎が今したいこととはなにかズレている気がした。そもそも鼎はせっかく体力が余っているのだから、それを有効活用したいのだ。
でもまあ、せっかく聞いたのだから、本のジャンルくらいは聞いておこうと思い、彼女の好みを尋ねてみる。
「へぇ、本…ですか?美月さんはどんな本を読むのです?」
「それはもちろんエロま……エッセイとかですね。」
「エッセイ?美月さんって、若いのに凄いんですね。てっきり恋愛小説とか読むんだと思いました。」
「……はい、と言っても、最近ハマっているだけで、そっちのほうが大好きなんで、ちょっと格好つけちゃいました。あはは。」
そうか!だからちょっと焦ったふうに見えたのかと納得すると、今日もなにか持ってきているのかと思い尋ねた。
「今日はなにか持ってきてるのですか?」
「えっと……(コソコソ、ジー、ダラダラ)…今日は忘れちゃいました。」
「そうなんですか。残念ですね。もし良かったら貸してもらえるかと思ってましたのに…。」
鼎がそう残念そうに言うと、美月は顔を真っ赤にして首を左右にブンブンと振る。
「か、か、貸すっ!?……無理無理無理無理です。わ、私!人にものを貸したりするのが苦手な人なんでごめんなさい!」
うん、どうやら本当にそういうのが苦手な娘らしい。
さて、こうして振り出しに戻ってしまったわけだが…。
う〜ん…じゃあ大人しくテレビでも見てようかな?お昼ご飯まで。
でもそんな生活してたら太っちゃうかな?あはは……は?
「……あっ、美月さん、スポーツドリンクとハンドタオル用意してもらってもいいですか?」
こうして今日やることが決まったわけである。
トレーニングルームで使える靴なんかがなくて諦めかけたのだが、ちょうどあずさと足のサイズが同じだったので連絡すると、貸してくれたのでまた思考が路頭に迷わずに済んだ。
明日それも買いに行こうと言ってくれたので、明日がより楽しみである。
さて、今日はランニングマシンを使って見ようと思う。
できれば、この身体の体力を見ておきたい。それからホストなのでガッチリとはならない程度の筋力をつけていきたいと思う。
正直昨日の美香を抱き起こすことができなかったのはかなりの屈辱で、静江が倒れかかって来たときも、正直ギリギリ耐えきれただけだったのだ。
前の身体も背が低く線も細かったが、それでも女の人よりは力が強く、少しは男らしさを持っていた鼎。
しかし、このままでは昔からかわれたこともあった男女という言葉にまっしぐらだ。それだけは避けたい。
甘いもの…ご飯ももっと食べたいしね。
こうして、鼎の肉体強化はこの世界でも行われることとなったのだ。
最初は軽くジョグ、徐々にスピードを上げたり下げたりしつつ、息が軽く乱れるあたりでしばらく走ってみることにした。
―
美月は今、鼎に頼まれたタオルとスポーツドリンクを手にトレーニングルームに向かっていた。
実のところ、すぐにそのままスッと渡すこともできたのだが、色々理由をつけて、後で届けるということにしたのだ。
理由は単純明快。
せっかく美少年が運動をして、汗まみれになるというのにそれを見逃す手はないからだ。
美月は正直、この世界の女性のデフォルトのような人物で、しょっちゅう男を見かけたり、軽くでも会話をするようなあずさたちとはまったく違う。
実際、鼎を見た瞬間に一生お仕えしたいと思ったし、できることなら妻の一人にでもなれればこの上ない幸せだと思った。
今はあずさに脅されたため、あまり表立って行動はできないが、機会があれば突撃あるのみと考えている。だからこそ、あずさの怒りの琴線に触れないであろうあたりをチョロチョロとしつつ、欲望をある程度満たし、爆発は避けようとしているのだ。
勉強はあまりできないが、こういう頭だけは働く。
そうこうしているうちにトレーニングルームに着いた。
さて、まずは外から……。
「ハァ、ハァ、ハァ!」
ダンダンダンという一定のリズムで走る美少年。彼は軽く汗をかき、息を乱していた。その顔は精悍で先ほどまでののんびりした雰囲気はそこにはない。
「か、カッコいい。」
欲望を満たそうとしていた女にこんな声を上げさせるくらいには、それは絵になっていた。
美月はそんな彼を欲望に染まった目で見ようとしたのを恥じると、いつの間にかぎゅっとタオルとスポーツドリンクを胸に抱え、時間が経つごとに徐々に苦渋の表情に変わっていく鼎に頑張れ頑張れと心の中で応援していた。
鼎はそれからもしばらく走り続け、マシンが止まると、ようやく美月はドアを開け、中に入る。
「お、お疲れ様です、鼎様。」
「ハァハァ、うん、ありがとうございます、美月ちゃん。」
「み、美月ちゃん!?」
「うん、僕のことも鼎でいいから、ダメでしたか?」
無邪気な笑顔浮かべる鼎。
「ううん!じゃ、じゃあ鼎くん!これどうぞ!」
ズンッと美月が片思いする相手にバレンタインチョコを渡すように頭を下げて差し出すと、鼎はありがとうとそれを受け取り、汗を拭っていく。
美月は鼎が受け取ってくれたことが物凄く嬉しく、自分の顔がパァーッと笑顔になっていくのを感じると心臓がトクンと鳴り、その甘酸っぱさをとても心地よく感じた。
鼎がタオルで身体を拭き始めると、当初はこれをガン見するために来たはずだったのだが、顔を真っ赤にして下を向いてしまう。
「あっ、ごめんなさい、美月ちゃん。見苦しかったですよね?」
「う、ううん、あの、その…は、恥ずかしくて…。」
鼎もそんな空気を感じたのか、パパッと汗を拭うと、誤魔化すようにスポーツドリンクを開け、勢いよくそれを流し込む。
ゴクゴクという音とともに、それほど出ていない喉仏が動く。
その妙なセクシーさに美月は見惚れ、うっとりとした。
「あ、あの、じゃあ私、お風呂の用意しておくから!終わったら汗流してね。」
「んくんく…ぷはっ。うん、ありがとうございます。やっぱり美月ちゃんはいい娘ですね。」
「ううん、鼎くんのためだから。」
じゃあとその場を後にした美月には先ほどまで塗れていた邪念はなく、気がつくと恋する乙女となっていた。