32 凛の手
星空凛は高級お菓子工房【スターリースカイ】の跡取りとして生まれた。幼少の頃から遊ぶ暇もなく、母親に洋菓子、和菓子に関わらず様々な技術を仕込まれ、今は最終試験として自分で店を切り盛りしろと言われて、【凛とした星空】という店を開いた。
親友である美月には見栄を張ってしまったが、本当のところは試験のため、店舗自体の支度金はかなり貰ったことにより、外装、内装ともに自身の憧れを形にでき、美月にも褒められるほどのものができあがって、いい店にお菓子と両方が整い、最高の出だしとなるはずだと凛は疑ってすらいなかった。
しかし、なんと言えばいいのだろうか?世間は厳しい。
流石最終試験にされるだけのことはあるというか、如何せん知名度というものがないせいで、実のところ、今は利益というやつが出ていない。実は前回お祝いのケーキを頼まれたときも、美月に心配かけないように忙しいと言っていたが、本当のところは暇をしていたのだ。
日に来る客は十人にも満たない。リピートしてくれる人もいるが、メインがケーキのため、そんなに毎日食べに来るというわけにもいかないので、必然なにか珍しいなどの目立つようなことがなければ、このまま潰れてしまうのは時間の問題と言えた。
正直、試験に受からないのは、お菓子作りを投げ出してしまった姉はともかく優秀な妹がいるので、凛自身としては別に構わないことなのだが、この自らの理想とも言うべき可愛いケーキ屋さんが潰れてしまうのは、とても悲しい。
味はあの冷血女、氷の女、雪女、鉄の乙女と言われる母親からも「まあ合格ね。」と言われるほどのものができているので、おそらく問題はないはずなのだ。
なにか話題、目玉商品…そんなことを考えながら、う〜んう〜んと唸っていると、ふと聴き慣れた男装アイドルアサヒの曲の着信音が鳴った。
今忙しいんだから邪魔するなよと凛がやる気のない感じで「は〜い。」と答えると、それはすぐには気がつかなかったが、知り合いの声だった。
「あっ、出てくれた。凛ちゃん、ちょっといい?」
「えっ?……美月か?」
「うん、そうだけど…今忙しい?」
凛はオホンオホン咳払いをすると、絶対に美月には悟られてはならんと目の前にいるわけでもないのに思わず身支度を整えると、気取った風にそれに返す。
「まあな。でも仕方がない。親友の頼みだからな。またなにか必要なのか?」
「うん、ちょっとね…贈り物として…うん、前にお店で見たあの焼き菓子がいくつか入っているやつがいいかな?それを50セットくらい。明後日までに。」
「ご、50セットっ!?」
予想外に多かったが、正直助かる。個人経営のこの店に大口のそれは結構大きい。
「あっ、ごめん。多かったかな。それじゃあちょっと聞いてみるね。」
「いやいやいや!問題ない!問題ないぞ!!」
絶対に受けたい仕事だったので、慌てて返事を返した凛としただったが、この後、続きを聞いて、さらに驚くことになる。
「そう…よかった。ならそれで…あと…。」
そこからの記憶は曖昧だ。
ただ追加注文がないことを確認すると、生返事を返していたのだと思う。
そして、電話が切れると、ぼーっとしばらく。
どれほど時間が経ったのだろう?気がつくと外はオレンジ色に染まっていた。
覚醒した凛は立ち上がると、店の戸締まりをして、すぐさま家に帰る。玄関に入ると靴を脱ぎ捨て、事実に入り、2段底の机の引き出しを開けて、とあるブツを取り出し、それを広げた。
それは何かというと、いずれ必要だと思い買っておいた新品のサラシだ。
この世界では胸がスマートの方が男にモテるので、サイズを小さく見せるようなブラが人気で、ほとんどの人間ができるだけ過小にサイズを報告することが一般的、今の凛のようにサラシに頼る人物もザラだ。まあ、男子に巨乳バレして騙したなと嫌われるやつもいるが…。
学生時代から、「なんでそんなことをするんだ!そんなことをして愛して貰って嬉しいのか!」と、あるがままの自分を愛してもらってこそだろうと力説していた凛だったが、今おそらく世界で一番の男で、凛自身ファンでもあるその人物との縁が生まれるかもしれないとなれば、そんなかつて邪道と誹っていたものにも頼ってしまうのも仕方のないことだろうと思う。
凛は最終確認のためにすぐさま上半身裸になると、苦しいのかハァハァと息を荒らげながらもなんとかそれをぎゅうぎゅうに蒔きつけ、鏡の前に立った。
「ハァハァ…か、かなりキツいが、まあなんとかなるだろう!女は根性だ!」
凛の大きな胸が小さくなったのを確認すると、気に入ったのか、よし!と腕を組んで何度も頷き、自分の姿に満足し、その顔つきは徐々に緩んでいく。
「しかし…生カナ様か…。」
と口からその名前が漏れ、ドラマや美月に貰ったネタ(えっちい意味で)個別撮影動画のことを思い出し、にへらとだらしのない笑顔になってしまうと、いかんいかんと首を振り、キリッとした顔を作った。
「これで私も顔が中性的で、背が低く、胸が小さい落ち着いたモテ女だな!カナ様見ていろよ!絶対好きにしてみせるんだからな!!それでピーしてピーして、ズッコンバッコンだ!」
そう放送禁止用語を臆することなく、薄い壁のアパート内で上げる痴女。
なにせあの女のバイブル【モテ期到来の予感〜春近し恋せよ乙女〜】にも書いてあったのだからこれで完璧だと、その時の凛はまったく疑っていなかった。
―
茜が「カナきゅん」呼びに変わってから一週間ほど経ち、鼎は【ヘタレクールOLは甘えん坊弟に手を出せない】の最後の撮影に向かうことになっていた。
鼎は今回、これまでの撮影で役者やスタッフの方々にだいぶお世話になっていたので、御礼も兼ねて何かを贈りたいと思っていた。すると、ふと歓迎会の時のケーキのことを思い出し、美月にそれを作ったパティシエの友人への取り次ぎを頼んだのだ。
美月は物凄く渋い顔をしたものの、自分も同行することを条件に、そこへと案内をしてくれることになり、今はそのお菓子工房【凛とした星空】というピンクの外装をしたファンシーな雰囲気のお菓子店の前にいる。
美月が入ろうと扉に手を掛けるたびに、それをやめ、「大丈夫だよね…凛ちゃん、変なことしないよね…。」と小声で呟くので、ここの店主に対する不安が込み上げてくる鼎だったが、中に入って、出迎えてくれた人物を見た瞬間、そんなことは杞憂だったと理解した。
「いらっしゃい、よく来たな、美月。」
出迎えてくれたのは、綺麗な黒髪の小柄で慎ましやかな胸の美少女。服装は割烹着とお菓子店では見かけたことのない装いだったが、大和撫子風の彼女の雰囲気にはよく似合っているのだと思う。
「り、凛ちゃんっ!?」と美月が掠れたような声で驚いているのには気になったが、彼女は美月の他に人がいることに気がつくと、あどけなさの残る顔立ちで可愛らしく笑った。
「おや?いらっしゃい。カナ様も来たのか?てっきり美月がお菓子を取りに来るだけだと思ったのだが…。」
「はい、美月ちゃんもそう言っていたんですが、あんなに美味しいケーキを作れる人に会ってみたくて、少しおねだりしてしまいました。はじめまして、凛さん。僕は美馬鼎です。一応新参ながら俳優をやらせていただいてまして、今日は共演していただいた役者さんやスタッフの方々に御礼として、凛さんの作る美味しいお菓子を贈りたいと思いまして…。」
「おっふ…尊い……いや、おお、そうかそうか、気に入ってくれてなによりだ。私は星空凛。凛ちゃんと呼んでくれ。私はカナ様のファンなんだ。握手をしてくれると嬉しい。」
「よろこんで。こちらこそ凛ちゃんのファンですから。」
「ありがとう。じゃあ…っ!?」
凛はそう手を差し出したのだが、鼎がそれに応じようとする前に自分の手を見ると、それを引っ込めて、自分の小さな身体で隠すように胸の中にしまってしまった。
その手を見て、鼎は驚愕に目を見開くと、それを見た凛は悲しそうに表情を歪めながら、鼎に謝ってくる。
「はははっ…す、すまなかったな。気持ちの悪いものを見せて。握手はやっぱりいい。触りたくもないだろう?」
「そんなことは…。」ない、そう鼎が付け加える前に、凛は最後まで聞きたくないとばかりに鼎の言葉を遮ってしまう。
「いや、いいんだ!女だってこの手を見ると、正直あんまりいい顔はしない。普段、店に出るときは手袋をしているんだが、つい君が来ると浮かれて忘れてしまった。もしこんな手で作ったお菓子が気持ち悪いというなら…。」
凛が続きの言葉を言おうとした瞬間、鼎は怒った。
「違います!!僕が驚いたのは、凄くいい手だからです!!」
「えっ…?」
鼎は首を振ると、無理矢理、抵抗する凛のその手を取った。
「な、何をするんだ!は、離してくれ!こんな…こんな手で君に触れるなんて…。」
「そんなこと言わないでください!!本当に素晴らしい手なんですから!」
「そんなわけ…っ!?」
そんなわけないだろ!そう言葉にする直前、凛は鼎の瞳を見た。すると、彼の瞳は真剣で、そこには情熱すら感じられた。確かに凛の手は硬く火傷の痕なんかがあり、うら若き女性のそれのような印象はない。爪の先が丁寧に整えられていると言ってもだ。しかしそれは、おそらく高温の飴細工なんかもやることもあるからであり、幾度となく幼い頃から繰り返された修練の証だった。
鼎は甘いものが大好きで色々な店を巡り、お気に入りの店に通った結果、ときたま有名な菓子職人にも会うことがあり、そういう手をしている人間も沢山見てきていたのだ。だからこそそれを知っていて、この年齢でここまでの手を見せてくれた彼女には驚愕し、ここまで色々なお菓子を愛しているのかと内心賛美した。それは本当に尊いことなので、鼎は彼女自身にそれを否定してほしくなかったのだ。だから…。
「何度も言いますが、僕は凛ちゃんみたいな可愛い女の子で、こんなに綺麗な手を持っている人は見たことがありません。だから…。」
小さい頃から学校には行っていたものの、家では厳しい修行に耐えてきた凛は今度は違う意味でその言葉の続きを聞きたくなかった。聞いたら自分が自分でなくなる気がして耳を塞ぎたかったが、それは鼎に両手を取られてしまっているのでできない。
だからもう諦めて…今度は忘れないように記憶の中にその言葉を留めるようにと鼎の目をしっかりと見た。その綺麗な黒い瞳を。
「だから、これからも凛ちゃんのお菓子を僕に食べさせてください。一目惚れならぬ、一口惚れです。」
その瞬間、憧れと性欲の狭間で揺れていた、菓子職人になる修行に耐えるほどお菓子が大好きな凛の恋心は完墜ちした。
まあ、無理ない。なにせ好みの男に自身の今までの努力までも認められてしまったのだから…。
「うん♪カナくんのために作る…だからもしまずくても、残したりしたら許さないんだからな♪」
「大丈夫ですよ。凛ちゃんのなら…。」
こうして、鼎は目的のお菓子をゲットし、スタジオへと向かうため車に乗ったのだが、ふと歩いて帰るため外にいる美月の携帯の画面が見えてしまい、首を傾げた。
そこにはたった一文字【胸】という文字が載っていた。
はて胸ってなんのことだろう?
送信ボタンが押された瞬間、凛の店の方から、叫び声が上がり、それを合図にしたかのように車は発進した。




