30 茜、あずさの根城へ
西堂茜は東院あずさの根城たる高層ビルに来ていた。
そっと手に汗を握る。今日の仕事は絶対に失敗できない。なにせ社運が掛かっているだけでなく、娘たちへの信頼も掛かっているのだから。なぜそんなことになったのかというと、それは茜のミスであった。鼎と偶然出会ったことを亜梨沙に伝えた時、つい娘たちにお母さんは凄いんだぞ!というところを見せたくなってしまって、話を聞いてもらえるだけの約束を取りつけてもらっただけなのに、もう鼎がドラマに出ることは決定的で、金曜日に打ち合わせに行ってくるとのみ、伝えてしまったのだ。
これでもし上手くいかなかったら…そんなことは考えたくない。娘たちを溺愛している茜にとって、娘に嫌われること、それ即ち、茜にとっての世界の終わりである。
上手くいきさえすれば、茜だけでなく娘たちも鼎に会う機会も増え、茜もハッピー。
要するに、公私ともにチャンスであり、ピンチであった。
茜は無意識に速さの上がっていく脚を意識的にゆっくりと落ち着けながら、自身が鳴らすカツンカツンというヒールの音を聞きながら、その中へと入っていく。
これだけ緊張し、なんなら嫌な汗までかいていた茜。
しかし、彼女のそんな不安は予想外にもあっさりと解決された。
なにせビル内に入るなり、あずさの仕事部屋に案内され、半刻と経たずにカナに出演依頼してほしい作品について説明が終わり、了承されてしまったのだ。
あっさりもあっさり。拍子抜けもいいところ。
てっきりこれから本命の話し合いが始まるのだと、茜はさらに気合を入れようとしたのだが、それすら無駄になってしまった。
「さて、ではそのように…。特には問題がないから、私との話はこれで終わりよ。鼎くんがあなたのところでドラマに出ることを了承します。」
「え?」
茜の口から出たそんな間抜けな声にあずさは若干目を細めた。
「なに?なにか不満でも?」
「い、いえいえ!…その…不満ではないのですが……。」
「そう、なら下で鼎くんと打ち合わせしてきなさい。私はこれからまだ仕事があるの。」
シッシッとはやらないが、これで終わりとばかりに机から書類を取り出すあずさ。
しかし、納得がいかなかった茜は、本当はなにか企んでいるのではないかと警戒し、あずさからの言葉の続きを望んだ。
「……。」
そう無言で待っていると、あずさはひと睨みの後、ため息を吐くと、ようやく口を開いた。
「はあ…仕方がないわね…今日あなたがここに来たことに意味があると言えばわかるかしら?」
「?………あっ…。」
最初こそ意味がわからなかったが、ここイコール東院あずさの根城ということが頭に浮かび、それは氷解した。つまりは西堂が東院にお願いして、カナをお借りするという図式が大切なのだと…。茜は途中、政財界の重鎮とされる人物と何人かとすれ違っていた。おそらくそれも見越して時間の調節もしていたのだろう。
そして、それはホストクラブに行くことで完成する。四方位院の当主たちやその傘下の家の者ですら入らないお店に入れば……。
でも、わからない。どうしてあずさはマウントを取ったり、貶めたりしないのだろうか?先代の東院、南院の当主は笑い者にしていたのに……。
「あなた馬鹿なの?これから長い付き合いになるんでしょ?」
どうやらその心の声は外に漏れていたらしく、あずさは本当に呆れたという表情でそう言った。
それから2、3言ほど交わすと、それに納得した茜。
しかし、それは喜ぶべきことではなかったのかもしれない。あのまま素知らぬ顔で部屋を出ていけばよかった。そうすれば、東院はともかく、天才東院あずさは絶対に敵に回してはいけないとわからなかっただろうから…。
なにせ、今回の件、西堂は飛んで火に入る夏の虫だったことをたった今、理解させられたのだから…。
―
「やれやれ…やっと出ていったわね…。これで定時に上がれるわ…。」
「サラリーマンみたいな言葉ですね、主。」
「だって仕方がないじゃない。私だって本当はこんなことしたくないし、できることならのんびりと鼎くんとお酒でも飲みながら、遊んでいたいわよ。」
ならそうすれば?と先日抜け駆けしてきた従者が首を傾げると、テイと頭にチョップを振り下ろした。
ガツン……痛〜〜っ!!!
普通なら痛がるのは忍のはず、しかし、この女は超合金ででもできているのか、なにかしら攻撃を加えると、むしろこっちが怪我をする。
今も綺麗な白魚のような手が真っ赤になってしまっている。
なにがしたいんだろうと首を傾げる忍に恨みがましい視線を送りつつ、説明をしてやることにする。
「そうは言っても、そんなわけにはいかないのよ。姉さんは普通に当主業務はできるけれども、それだけで精一杯だし、他の連中も似たような感じとなると、私くらいしか先代やれ、先々代の後始末を請け負えるのがいないのよ。まったくこっちだって、皇様から請け負った仕事があるってのに……。」
「大変ですね。」
「そう!大変なの!それなのに鼎くんが予想外の人気になっちゃったでしょ?それでテレビ局やその親会社の力関係が大きく様変わり。もしこれで他の会社が潰れてでもみなさい。四方位院のバランスは崩壊。東院でこの国の全てを掌握は現状不可能と私の頭では判断している以上、最悪国の終わりよ。だから、今回はバランサー的な動き方をせざるを得なかったというわけ。他の四方位院に鼎くんを貸すのは論外。南は当主血統はともかくお局ババアがクズ。北のアマゾネスは…本当にヤバい。…ホント、あの業界で一番目端の利く、優秀な西堂のお姉さんには助かったわ。もう少し遅ければ、こっちから働き掛けなければならなかったかもしれないんだから。」
あずさの頭は正直、イカレている。子供の頃から、天才として名を馳せ、大学は飛び級で10歳のころに卒業。それから東院の裏側で当主となるべき笑顔の素敵な姉のために奔走。当然、誰もがその異常さに恐怖し、近くにいれば疑心暗鬼になったり、頭がおかしくなる者もいた。
しかし、こんなふうに頭のおかしな変態みたいなことを言っても、忍は変わらない。なにを言っても、夢物語のようなそれが現実になっても、変わらずただ優しく、マイペースにそこにいてくれる。それが心地よく、あずさの心の拠り所にもなっているのは、あずさも自覚している。だからあの日鼎の検査に立ち会わせたのだ。もし万が一でも忍なら…と…。
…しかし、この忍にも決定的な弱点があった。
「…でも、これで鼎になんでも一つお願いができますね。」
気を許した者限定でマイペースゆえ、物凄く空気が読めない時があるのだ。
確かにね!確かにね!私も忍が、困っている人を助けたそうな鼎くんに、私が言うことを聞いてあげるために、そんな条件を引き出してくれたのは事実よ。あの時は主従の友情を再確認したわ。一瞬、あのうらやまけしからん一件も頭からどこかに飛んでいったんだから…。
…でもね…でもね……それ…今言うことじゃないでしょ……。
今は真面目な話をしていましたよね?
えっちいことなんて、話題に出てませんよね?
慣れたこととはいえ、身体から物凄く力が抜けたことに、やれやれと額に手を当てるあずさ。
すると、再び忍が素っ頓狂なことを言い始めた。
「ん?どうやら主は要らない様子。それなら私がもう一度、あのアガルタへ…。」
「そんなことをしたら、ぶっ飛ばすわよ!!」
ぺちん。
痛みを嫌がった非力なあずさの平手が忍の頭を襲う音。
そんな音を聞くと、ぶっ飛ばすなんてできないだろうな〜と自分でも思うあずさだった。
あずさの弱点、それは普通の女性より力が弱い。