旅行記(1) 交易街ビンズスロウにて ~魔女に出会う~③
宿で一夜を過ごし、次の日になって僕が目を覚ますと、時刻はまだ日の出前のようだった。季節は春であったので、“あけぼの”と書けばよいのだろうか。
ベッドの上で身体を起こし、小窓越しに外の風景を眺めてみた。ヨーロッパの古い街並みを思わせる屋根が、狭い路地に並んでいる。景色は青みがかっていて、まだ陽は昇る前だけれども、空はうっすらと曇り気味だ。
そうして、僕は自分のいた世界へ思いを馳せていた。あちらは、いまどうなっているのだろうか? 実家に一人で残している母は、僕を心配しているだろうか?
ただ、ここで僕が思っていたことは全て杞憂に終わっていた。
先にも書いたとおり、ファンタジイドでの旅はこちらでは一瞬の出来事だった。階段で足を滑らせた間のことだから、行方不明者にも浦島太郎にもならずに済んだのだった。
もっとも、そのおかげで大きな時差ボケを味わうことになり、元の世界における自分の現状確認にもいささかの時間を要したのだが、それはまた別の話である。
閑話休題。
かくして、あれこれと憂い事をしていた僕であったが、そんなときに何やら声が聞こえてきた。寝ぼけた頭にも直接響くような、なんだかしゃがれている声だ。
どこかで耳にしたような……。そんなことを思っていると、また声が届いてきた。
「こら、シモムラマコト! いつまでも寝てないで、さっさと起きな!」
その言葉を頭で理解した途端、僕はベッドから起き上がっていた。服を着替えることなく立ち上がり、足早にドアのほうへと向かっていく。これは自分の意思ではない。僕の身体が勝手に動いていたのだ。
「やっとお目覚めかい。ずいぶんと寝坊助なんだねえ」
混乱したものの抗うことも出来ず、そのままドアを開けた僕を待っていたのは、この宿の主である老婆だった。昨晩出会ったときと似た服装に、また薄緑色のケープを羽織っている。どうやらお気に入りの一着らしい。
とはいえ、いまはそれどころではない。とにかく僕は、老婆に事の次第を尋ねてみることにした。
「あの、おばあさん――」
「おばあさん? 私のことは、マダムと呼びな!」
昨日からその片鱗を見せていたのかもしれないが、なんとも高慢な老婆である。まだ出会って間もないというのに、ずいぶんな態度だ。
だがしかし――いかに不服であろうとも、いまの僕はその言葉に従うしかなかった。まるで頭に命令を入力されたかのように、逆らったり、反論したりすることが出来なかったのである。
僕は老婆の気に障らぬように心を砕きつつ、どうにか話を進めてみることにした。
「おば……マダム、まだ夜明け前なのにどうしたんですか? それに、さっきから僕の身体が勝手に動くんですけど……」
「当然さ。いまのアンタは、アタシが命令したとおり動くようになってるんだからねえ」
「…………へ?」
あまりにも突拍子のない発言に僕は呆然としたものの、一方の老婆はしたり顔で、続けざまに言葉を発した。
「お座り! おまわり! それからジャンプ!」
さながら犬に芸をさせるかのような物言いだったのだが、僕の意思とは関係なく、身体は勝手に動いていた。老婆に言われたとおりに床へ腰を据えて、そのまま手を付きながらぐるりと回って、しゃがんだ姿勢からぴょんと跳ねてしまったのである。
「あ、あの……これは、いったい……?」
日頃は運動不足、かつ寝起きにはきつい一連の動作をこなした僕は、息を切らせながらも老婆にそう尋ねた。
すると、またも意地の悪い笑みを浮かべながら、老婆は答えたのだった。
「簡単なことさ。アンタはアタシに名前を教えたから逆らえなくなったのさ。なんてったって、アタシは魔女だからねえ」
「魔女……? あなたは魔女なんですか?」
信じられない。見た目はまさしくファンタジーなこの世界だけれど、まさかそんなものまで実在していたのか。
身をもってしても念を押して確認した僕に、老婆は容易に頷いてみせた。
「そうとも。かつてこの世界で畏れられた、恐ろしい魔女さ」
老婆は息を吸うようにして笑った。ヒヒヒ、というその笑い声を耳にすると、たしかに彼女は魔女そのものであるように思わされる。
何より――この老婆に対して僕が抱いた第一印象は、けして失礼でも的外れでもなかったらしい。僕の直感が冴えていたのか、はたまた老婆があからさま過ぎたのか、その点については定かではない。
でも、名前を教えただけで、どうしてこんなことが出来るのか?
僕が疑問に思っていると、ちょうど老婆が説明してくれた。
「昨日の晩、アンタは宿帳に名前を書いてくれたねえ? しかし――実のところ、あれは宿帳なんかじゃあない。目録さ」
「目録?」
「魔女の目録。そこに名前を書き込めば、それは目録の持ち主の物になる。だから、アンタもいまはアタシの所有物なのさ、シモムラマコト」
いちいちフルネームで呼ばれることに多少の苛立ちを覚えながらも、僕は目の前にいる老婆の恐ろしさに身震いした。たったひと手間でそんなことが出来るなんて、彼女はいったいどれほど高位な魔女なのだろうか?
それに――これから僕はどうなってしまうというのか。
「じゃあ、もしかして……僕は一生ここにいないといけないんですか?」
恐る恐る尋ねてみると、老婆からは予想外の答えが返ってきた。
「いやいや、そんな酷なことはしないよ。恐怖で支配するより、やりがいを与えるのがアタシの性分だからねえ。もしもアタシをその気にさせることが出来たなら、アンタのことはちゃあんと自由にしてやるとも」
「その気に、させる?」
「察しの悪いやつだねえ。要するに、アタシの機嫌を損ねるな、ってことさ。わかったら朝の洗濯を始めな。飯はその後だよ」
老婆の言葉は、またも僕の身体を勝手に動かしていた。服は昨日から着たままだけれど、靴は脱いだままなので裸足であるけれど、それでも僕の両足は独りでにどこかへ行こうとする。洗濯をどこでするのかもわからないのに。
そんな僕の嫌な予感は、見事に的中してしまった。行き先のわからなかった僕の身体は早足で歩き続けると、抵抗も虚しくそのまま二階の廊下の突き当たりに激突したのだった。
「……すいません。洗濯って、どこでするんですか?」
壁で顔面を打ち付けて、鼻血を垂らして床に倒れながらも、僕は機嫌を損ねないように老婆へそう尋ねてみた。
「――案内するから、とりあえず身支度しな」
そんな僕を見た老婆は、機嫌を損ねるどころか、すっかり肩を落としているようであった。