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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

竜に喰われた心

作者: 河辺 螢

 柔らかに重ねた唇を離す。

 しかし妻エリンは目を閉じることもなく、いつものように少しはにかんだ笑顔で上目遣いで見ることもなかった。

 家の中に舞い込んできた蝶を見ても、動くものを目で追いはするが、そこには何の感情もない。

 西の国の騎士団長ラーシュは、妻であり、部下でもあるエリンの姿を見て、うなだれるしかなかった。


 二日前、久々に同じ日に休暇がとれ、国の西側にある湖の近くで余暇を過ごしていた。

 その時、頭上を横切った黒竜が湖の南の街に向かい、大暴れを始めた。

 休暇中ではあったが、王都の騎士団の二人である。すぐさま剣を手に馬にまたがると、街へと向かった。

 最近、近隣の国でも話題になっていた、荒ぶる黒竜だった。

 上空から野太いうなり声を上げ、逃げ惑う人々を追いかける。何に怒っているかも判らなかった。

 とにかく、止めなければ。

 人の何倍もある竜に向かい、おびき寄せるように竜に剣を振る。

 やがて竜はエリンに標的を定めた。

 ラーシュの剣が竜に届いても、硬い鱗に守られ、さほどの痛みも感じなかったようだった。

 エリンがもうすぐ森の中に逃げ込む、その寸前に竜は馬上のエリンをわしづかみすると、胸の辺りに喰らいつき、そのまま首を振り回して放り投げた。

 弧を描いて飛んでいく妻を、ラーシュは懸命に追いかけたが、到底届く距離ではなかった。

 幸い、落ちた先にあった木の枝がクッションになったが、地面に横たわった妻は、意識がなかった。さほど傷は深くなく、竜が噛みついたと思われたあたりにも裂かれた傷も、歯形さえもついてはいなかった。

 間もなくして、目が覚めたエリンは、夫であるラーシュをぼんやりと見つめたが、何も言わなかった。

 頭を打ったのかも知れない。

 竜が去った街でエリンを医者に見せると、

「これは医師では無理だ。魔法医の元へ行くといい」

と言われた。

 急ぎ、街の魔法医の元へ向かった。

 両手を広げ、魔力を当ててエリンを診察した魔法医は、ゆっくりと首を振った。

「この者は、竜に心を喰われてしまっている」

 エリンの体には落下時のわずかな傷を残すだけだったが、その中身である心が竜に喰われ、失われてしまっていたのだった。

 ラーシュはエリンと共に王都に戻り、ここでも高名な魔法医の診察を受けたが、答えは同じだった。そして、心を戻すことはできない、と告げられた。


 エリンは生きてはいたが、開いた目は何も見てはいなかった。

 口元にスプーンをやると口を開くので、食事を与えることはできたが、味わう様子さえない。

 目の前の景色もただ瞳に映っているだけ。夫であるラーシュを見ても、世話をするメイドを見ても反応することなく、時々ふらりと屋敷の中を歩きはするが、突然階段に座り込み、壁にもたれて眠ってしまう有様だった。


 ラーシュは、王に黒竜討伐のための兵を出すよう嘆願したが、王の周りの者達は以前から黒竜を何とかしなければいけないと言っていたにも関わらず、騎士団員一人のために王の兵を動かすことはできん、と強い調子で却下し、王もそれを覆すことはなかった。

 仕方がないので、ラーシュは暫定一週間の休みを取り、妻を連れて二人で竜を追うことにした。そして一週間経っても戻ってこない場合は、職を辞するので、次の騎士団長を選ぶよう言い残した。

 さすがに騎士団長の不在は王国にとっても不利益となる。そう考えた上での発言だった。

 ラーシュは近隣でも猛者として知られており、戦う時は勇敢だが、普段は穏やかで、あっさりとした性格から、多くの団員から信頼を得ていた。

 王は、無事に戻ることを願い、人をやることはできないが、ラーシュに自身が所有する翼竜を貸与した。

「これは貸与である。必ず返しに戻るように…」

 それは、王からのラーシュとエリンに対するせめてもの餞別だった。


 竜を見つけ、心を取り戻せた場合、すぐそばにエリンがいなければいけない。

 心をなくし、何もできない状態ではあったが、エリンも共に連れて行った。

 翼竜にまたがり、エリンを前に座らせ、黒竜探しの旅に出かけた。翼竜を使うことで、移動はずいぶんと早くなった。翼竜は他の竜の気配を感じ取ることができ、その方向に向かってくれた。

 黒竜は、騎士団員が十名はいないとまともに討伐できる相手ではない。

 だが、今回必要なのは、討伐ではない。

 可能であれば恨みを込めて痛めつけてやりたいところだが、喰らったエリンの心を取り返すことが最優先だ。


 はじめに翼竜がたどり着いた所にいたのは、緑竜だった。

 草を食べる竜は、黒竜はここよりもっと北の山にいる、と教えてくれた。

 北の山に近づくと、より北の方へと飛んでいく黒竜の後ろ姿があった。

 飛び立った付近には、竜が好みそうな洞窟があり、黒竜を追うよりもまずその洞窟へと降り立った。

 翼竜は二人を降ろすと、次の合図があるまで森の中で過ごす、と言って飛び去った。

 そこは荒々しい岩がむき出しになり、所々に水晶と思われる結晶があったが、どれも先をかじられていた。

 洞窟の奥には、少しばかりの水が流れ、岩の間に溜まっていた。

 山から染み出た湧き水のようだった。

 一口飲み、その甘露に目を見開いた。

 エリンにも飲ませた。表情はなかったが、味覚は生きているようで、いつになくこく、こく、と喉を動かし、あっという間にコップの水を飲みきった。

 近くには、竜のものと思われる鱗が落ちていた。

 黒い鱗。やはり、ここはあの黒竜の巣なのだ。

 ラーシュはその水たまりに、持ってきた手のひら大の丸い玉を放り入れた。

 すると、玉は泡を立てながらさらりと水に溶け、あっという間に消え去った。

 

 ラーシュは口笛を吹いて翼竜を呼ぶと、エリンを乗せ、自分もまたがり、黒竜の巣を離れた。そして、森の一角で野宿をした。

 魔法医は、竜の消化は遅い、と言っていた。とは言え、もう四日が過ぎようとしている。エリンの心は、無事に取り返すことができるのか。ただただ、不安だけがよぎる。

 携帯食をエリンに持たせるが、自ら囓ることはない。

 小さくちぎり、唇に当てると、食料だと認識したらしく、口に含んだ。

 飲み込んだ姿を見て、まだ生きようとしている。心を失っただけで、死んだわけではないのだ、そう思い、両腕の中に取り込んだ。

 しかし、いつものように自分の背中に腕が回されることはなかった。


 翌日、地面を揺るがすような咆哮が森を揺るがせた。

 時々、ドシン、ドシンと何かがぶつかる音がし、その合間に苦しげな咆哮が響く。

 ラーシュは翼竜を呼び寄せた。

 翼竜は少し怖がってはいたが、ラーシュとエリンを乗せて昨日の洞窟まで行くことを拒みはしなかった。

 二人を降ろすと、いつも以上の速さでその場を離れ、飛び去っていく。竜の本能で、危険を察知しているのだろう。

「グオオオオオオオオ」

 洞窟の奥から、声が聞こえた。叫んでは止まり、ドタドタと踏みしめる音がして、また声が上がる。

 いよいよか。

 ラーシュはエリンの手を引いて、洞窟の中に入った。

 洞窟の中では、竜がのたうち回り、苦しげにゼイゼイと息を荒げ、痛みを伴うのか、体の向きを変えては、うめき声を上げていた。

 その動きがピタリと止まり、ブルブルと震え出すと、ラーシュは竜に悟られることを恐れもせず、竜の近くに歩み寄った。

 竜はラーシュの相手をしている場合ではなかった。黒い鱗のせいで顔色をうかがうことはできないが、恐らく人で言うなら青ざめているだろう。全身が小刻みに震え、そして、空気がはじけるブォンという音と共に、黒竜の尻から石の混じった砂が次々と噴き出してきた。

 まるで海岸のように、穏やかな川岸のように、細かな砂に混じって、岩が、石が、輝石が、金属が、いろいろなものが吹き出し、どんどんと堆積していく。

 その中に感じる、異質なもの。

 赤い光を発しながら、形を留めない半透明なもの。

 ラーシュはエリンの手を引き、そのふわふわとした何かに、エリンを触れさせた。

 すると、そのふわふわしたものはエリンが触れた部分からエリンの全身に広がり、体をすっかり包み込むと、そのままゆっくりと溶けて、見えなくなった。

 五分も待っただろうか。

 周りでは、まだ砂や石、岩が流れ、洞窟が塞がってしまうのではないかと思われるほどだった。

 それでも恐れることなく、ラーシュは待った。

 すると、ゆっくりとまばたきをしたエリンが次に目を開いた時、そこには強い意志を秘めながらも優しく微笑む妻の姿があった。

 視線の先にラーシュを見つけたエリンは、ゆっくりと歩み寄る。

 ラーシュは手を広げて、エリンが来るのを待った。

 エリンはゆっくりと手を伸ばしたが、その手はいつもより低い。と、エリンはラーシュの腰につけていた剣を引き抜くと、苦しむ黒竜に走り寄り、手の付け根の柔らかい部分に思いっきり剣を突き刺した。

「このくそ竜がっ!」

 竜が新たな痛みにのたうち回っても、容赦なく斬りつけ、その尾が当たらないようひらりとよけると、今度は頬に、そして眉間にも剣を突き刺し、あの硬い竜の鱗に亀裂が入った。

「こんな辱め…、このっ、このっ!」

 容赦なく何度も、何度も、柔らかい部分を狙って竜を刺し、竜からすればそれは針を突き刺されたようなものであって、こらえることができない痛みだった。

「私をおまえの汚物にするなんて、もうっ」

 黒竜は泡を吹きながら、わ、悪かった、とエリンにわびたが、エリンの気は済まなかった。

「私はおまえのおならじゃない! ばかっ!」

 爪の先、耳、竜に剣が通じるところをことごとく痛めつけられ、やがて竜は泣いて謝った。

 しばらく時間が過ぎ、岩を喰う黒竜の腹痛と下痢が治まると、竜はゼイゼイと息を荒げながら体を洞窟の壁面にもたれかけた。

 今まで見た中で一番激しい妻の怒りに、さすがのラーシュもかける言葉がなかった。

「よりによって…。私の心を、よりによって下剤で出すなんて!」

 矛先がラーシュに向いたが、ラーシュは怯えることなくエリンに近づくと、妻をその両手で包み込み、その背中をポンポンと軽く叩き、やがて腕の輪を小さくしていった。

「君が戻るならどんな手だって使う」

 ラーシュは妻の髪に顔をうずめた。

「例え肉食でも、迷いなく俺はこの糞便の中に君と共に入っただろう。…しかし岩を喰う竜で良かった」

 なにがいいものか!

 息を荒げながら、一つのピークを乗り越えた竜が言った。

 妻の肩越しに竜を見たラーシュは

「一人だったから、下剤を使ったが、騎士団員を連れて来られたなら、おまえの腹をかっさばいていたところだ。命拾いしたな。ありがたく思え」

 竜は人間の心を喰ってしまったことを後悔した。

 そして、三十分後に第二のピークが来て、またうなり声と共に尻から砂が吹き出してきた。

 それを見て、また剣を構え直そうとするエリンを行かさないよう、腕に力を込め、半ば無理矢理に唇を重ねた。

 怒りで一瞬押しのけそうになりながらも、柔らかく優しく触れる唇に、愛しい夫からの愛を思い出し、いつものように腕をラーシュの背に回してその思いをゆっくりと受け止めた。

 目の前でのいちゃつきに黒竜は腹立たしさを覚えたが、腹痛に追加される痛みがないだけましか、と、うめきながら妥協というものを覚えた。


 黒竜はしばらく人間には会わない、悪さもしないことを誓った。

 竜の飲み水は、一日もすれば入れ替わるだろう。ラーシュは今溜まっている水は汲み出しておいた。

 薬で無理矢理出された糞便は熟成していなかったが、幾分かの金や竜鉄と呼ばれる特殊な鉄を含んでいた。

 竜はそれを少し持ち帰ることを許し、詫びとした。


 こうして二人は無事、翼竜に乗って王都に戻ったが、どうやって助けだされたのかは、例え王が相手であっても、妻の名誉のため、決して語られることはなかった。


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