第164話「突然でも広島に行きたい!」
新年度が始まって、つまり4年生になってからしばらくが経った。
去年とほぼ同じように新年度ガイダンスを終え、履修登録も済ませた。4年生ということで履修する科目は1・2年の頃と比べて大幅に減ったが、その反面卒論や就活、それに就活絡みのガイダンスやセミナーが一気に増えるので、忙しさは去年以上だ。実際俺も今月に入ってから2社面接を受けた。
そんなある日、ゼミの授業が終わった後の事。
「斎藤君、黒藤さん。」
俺と黒藤さんは、突然ゼミの井伊教授から呼ばれた。
井伊教授が授業後に人を直接呼ぶこと自体珍しいことなのに、俺と黒藤さんがセットで呼ばれるなんてなおさら珍しい。
(たまたまとは思えないな…)
なんてことを思いながら、黒藤さんと一緒に教授の側まで行く。
紘深「先生。」
井伊「ああ。最初に聞くけど、2人とも今度の金曜日、授業とか面接とか、あと取ってる授業とかある?」
教授は単刀直入にそんなことを聞いてきた。この上半期、俺は金曜日は取っている授業は全くないし、今度の金曜日も特に面接とかの用事は無い。
良哉「はい。特にありませんが…」
紘深「私も、面接等の用事はありません。」
俺たちがそう答えると、
井伊「そうか。じゃあ、2人に頼みたいことがあるんだけど…」
と教授は言った。
良哉「頼みたいこと、ですか?」
井伊「ああ。学会発表の手伝いなんだけどね…」
紘深「学会発表の手伝いって、あの資料を準備して持ってきたりとかするあれですか?前にテレビとかで見たことがあって。」
井伊「まあそのようなものですね。それを2人にやって欲しいんだ。金曜日に現地に入って学会発表して、土曜日に帰ってくる感じだな。」
良哉「泊まりがけですか?」
井伊「ああ。場所はね―」
泊まりがけで行くという事になるわけだから、行く場所は首都圏ではないことはなんとなく察せる。
その俺たちが手伝うことになりそうな学会発表の場所を、教授は今言おうとしている。
井伊「広島だ。交通費宿泊費は私経由で学会が出してくれるから、2人は特に新幹線のチケットとかホテルの予約とかしなくていいから安心して欲しいんだけど、大丈夫かな?」
その場所はなんと広島だった。広島なんて京都や神戸以上に遠いところだし、俺もまだ行ったことのない場所だ。
まあしかし今度の金曜土曜はいずれも予定がない以上、断るわけにはいかないと俺は思った。
紘深「大丈夫です。行けます。」
良哉「ああ… 私も大丈夫です。」
井伊「それはよかった。じゃあ、朝7時に東京駅に集合で。」
紘深「承知しました。」
良哉「分かりました。」
そんな訳で、ひょんなことから俺と黒藤さんの広島行きが決まった。朝7時に東京駅。教室を出てスマホで調べたところ、朝6時少し前に家に出る必要がある。
(またまた早起きか…)
なんてことを思っていると、ふと黒藤さんの方から嬉しそうな空気を感じた。
俺は黒藤さんの方をふと見る。
(嬉しそうなオーラを隠せていない雰囲気の紘深)
その黒藤さんは、とても嬉しそうな雰囲気だった。
良哉「黒藤さん、なんかすごく嬉しそうだね…」」
紘深「そう?分かっちゃった?」
良哉「分かるよ。すごく嬉しそうなオーラ出てたからさ。全然隠せてなかったよ。」
紘深「そう?でも、初めて広島に行けるなんて嬉しいから!」
良哉「黒藤さんも広島行ったことないの?」
紘深「うん。だから、プロ野球開幕したら一度行ってみたかったんだ。」
良哉「広島だよ!?今度の金曜日差し替えナイターあるんだよ!?それが見られるって訳だよ!?」
紘深「黒藤さん、もしかしてそれ目当て?」
良哉「うん!広島って聞いて即OKしちゃった!」
いかにも黒藤さんらしい理由に、俺は良くも悪くも返す言葉が見つからなかった。そう思いながらスマホに入れてある番組表アプリで今度の金曜日の広島のテレビ番組表を見ると、確かにテレビ○広島というテレビ局がプロ野球ナイター中継をすると書いてある。他の地域のフ○系列局を見てみると、いつも通りの番組だ。
いわゆる「差し替えナイター」。俺のいた東海地方もそうだったが、東京ドームからのナイター中継や、場合によってはいつものバラエティー番組を週末に回した上で独自にナイター中継を行うことがある。プロ野球の球団がある地域ではよくあることだと黒藤さんは言っていたし、去年の夏には黒藤さんが俺の実家に遊びに行った時に、丹羽さんとその話をしたこともあったほどだ。
~回想~
陽菜乃「夜の番組がたまにローカルのプロ野球中継で週末に移動することがあるんだよね… V○○がちょっと前まで再放送やってた土曜午前に移動したこともたまにあったよ。」
紘深「あーそれ私も知ってます。どうですか?それ(振替放送)見逃したりしたことってありますか?」
陽菜乃「前はたまにあったなあ… なんでも前はスマホとか見逃し配信とかなかったから…(苦笑)今はそっち(見逃し配信)で地上波より先に見たりとか、振替放送?の時間忘れないようにスケジュール登録するとかできるからいいんだけどね…」
紘深「そうですよね(苦笑)ローカルの野球中継もそれはそれでいい気もするんですけど。」
陽菜乃「そうかもしれないしうちはお父さんが野球好きだからいいんだけど、でも野球さほど興味ない人からしたら厄介なものだよ(苦笑)予告ほとんどなしに急に時間変わるようなものだし、今はSNSでネタバレ食らうしで。」
紘深「そうですよね… なんかすいません(苦笑)」
陽菜乃「黒藤さんは悪くないよ(苦笑)関東じゃ絶対ないからね。差し替えの野球中継。」
紘深「はい…(苦笑)」
~回想終わり~
(これもし福岡や北海道だったとしても黒藤さんは同じように即OKしてたんじゃないのか?)なんてことを俺は思った。
てなわけで、帰った後は早速行く準備だ。姉ちゃんも大学の頃に研究やらで急遽遠出することが何度かあって、姉ちゃん自身も急な準備で大変そうにしていたし、俺もその様子を見て「大変だなぁ…」と思ったことがあったが、その時の姉ちゃんの気持ちが改めて分かった気がすると俺は思った。
そして迎えた金曜日。服装はスーツだが、会場に入るまでは私服でいいと教授も言っていたから、スーツは荷物に入れてある。「就活用に買ったスーツがこんなところでも役に立つ時が来るとはな…」と俺は思っている。
(じゃあ行くか…)
朝6時少し前、俺は家を出る。黒藤さんと合流したのは赤羽の駅前だった。
紘深「おはよう斎藤君。」
良哉「おはよう。」
紘深「じゃあ、早速行こう。」
JR京浜東北線に乗って東京駅へ。東京駅に着いたのは6時40分頃のことだった。
紘深「おはようございます。」
良哉「おはようございます。」
井伊「おはよう2人とも。」
教授からもらった切符を改札口に通し、新幹線のホームに入る俺たち。
(発車メロディーの音)
「18番線、のぞみ、9号、博多行きが、発車いたします。」
新幹線は東京駅を出た。ここから俺たちは約4時間、新幹線に揺られることになる。俺と黒藤さんは隣同士の席に座っている。彼女と隣同士の席に座るっていうのは、いつもなぜか緊張する。
そして時間は経ち朝10時前、新幹線は新神戸を出た。合宿からわずか1カ月と少しにか経っていないのに、また俺たちは東海道・山陽新幹線に乗って神戸より遠いところに行くなんて、なんだか不思議な気分だ。
車窓から姫路城を見ながら姫路駅を通過し、さらに相生駅も通過し、新幹線はついに岡山県に入った。俺も黒藤さんも、初めて中国地方に足を踏み入れた瞬間だ。隣から黒藤さんのテンションが高まっている雰囲気が伝わってくる。
良哉「黒藤さん。」
紘深「ん?なに?」
良哉「いつものラジオ持ってきてたんだ。」
紘深「うん!だって、初めて広島県どころか中国地方行くから、持ってきちゃった。」
良哉「ラジオは… 一旦ホテルに置いておくやつ?」
紘深「うん。」
良哉「まあ大体そうかなあと思ったよ。でさ、今黒藤さんはどの局聴いてるの?」
紘深「R○Kラジオ。R○Kラジオは凄いんだよ。県内どこでも同じ周波数だから、移動中でも周波数変えなくて済むんだよ。便利だよね。」
良哉「そうだね。現に俺たち今新幹線で岡山県内横断中だしな。」
紘深「うん。あとR○Kといえば、バラ園行ってみたいな~。」
良哉「バラ園って、あのR○Kとかいう局のテレビのオープニングに出てきた?」
紘深「そうそこ。バラだけじゃなくてたくさんの種類の綺麗な花咲いてるから。」
良哉「黒藤さんがそう言うなら、ホントに行けちゃうかもしれないな(笑)」
紘深「そうかな?(苦笑)まあでも楽しみだね。」
黒藤さんはその後もラジオを楽しんだ。そして新幹線は新倉敷駅を通過した後、ついに広島県に入った。
良哉「ねえ黒藤さん。」
紘深「なに?」
良哉「今やっぱり、R○Cラジオ聴いてるやつ?」
紘深「当たり!」
良哉「ところでさ黒藤さん、黒藤さんは今日の野球の試合テレビとラジオどっちで見る?予定?試合ある
ってことはラジオでも中継ある訳だけど。」
紘深「やっぱりテレビかな。せっかくの差し替えナイターだもん。」
良哉「やっぱりそうか。黒藤さんこの間本当に『差し替えナイター楽しみ』みたいなこと言ってたもんね。」
紘深「うん!」
そして、新幹線はついに広島駅に着いた。俺たちが泊まるホテルは広島駅の近くにあるホテルで、学会発表はそのホテルの大きな会議場でやるという。
泊まるホテルの別の場所で仕事をする。初めての経験であるからか、なんだかちょっと不思議だ。
井伊「では、ホテルに荷物を預けたらスーツに着替えてまたこのロビーに来て下さい。」
良哉・紘深「はい。」
俺たちはホテルの客室に荷物を置き、そこでスーツに着替えた後、ロビーに戻る。
良哉「お待たせしました。」
ロビーに戻った俺。黒藤さんの方が先に戻ってきていた。黒藤さんの方がロビーから近い部屋であることが分かる。
黒藤さんの前にスーツで出ることなんて、藤堂に誘われて黒藤さんのバイト先に初めて行った時以来だし、就活用スーツでは初めてだ。また黒藤さんのスーツ姿を見るのも初めてだ。
井伊「じゃあ、会議場に行こう。」
良哉・紘深「はい。」
学会発表が行われる会議場は、ホテルの上の方の階にある。
ホテルの会議場に入るのなんて、20年以上生きてきて初めてだ。はっきり言って一生入ることもないだろうとも思っていたが。
その会議場には、同じく学会に出席するであろう教授や、その手伝いらしき学生がいっぱいいる。
井伊「じゃあ2人とも、準備を始めますよ。」
2人「はい。」
発表する壇の近くにあるスペースには、大きな資料を置いておく場所がある。井伊教授の場合は、学会発表のプレゼン資料は教授のパソコンとUSBメモリーに二重に保存されていて、それを補完する紙の資料がある。俺はそれを確認して、資料置き場に置いておく。壇上にもパソコンを持ってきていない人か、持ってきたパソコンが急に動かなくなった時用のパソコンがあるが。
係員「では、タグをつけて下さい。」
資料をしまってあるケースに、教授の名前を書いたタグをつける俺。取り違えがあってはいけない、とても大切な作業だ。
作業を終え教授のもとに戻る俺。黒藤さんと教授がパソコン相手に何かしている。
良哉「先生。タグ付け作業終わりました。」
井伊「ああありがとう斎藤君。」
どうやら黒藤さんは、プレゼン資料の動作確認をしているようだ。
それから12時過ぎに簡単に食事を済ませ、発表直前にトイレも済ませておき、13時から学会発表が始まった。17時まで4時間に渡る学会発表。俺たちの出番は16時過ぎだ。
学会発表の内容は、中世・近世史のもので、内容は様々だ。伊賀忍者についての研究発表をしている三重の方の大学の教授や、宇和島の伊達家についての研究発表をしている、言葉が愛媛訛りの教授もいた。
時間は経ち、俺たちが待機場に行く番になった。
(えーと井伊教授のやつはと…)
さっき俺がタグ付けした、井伊教授の紙の資料が入ったケースを探す俺。
良哉「あった。」
ケースを持ってきて、中に入っている資料を取り出す俺。パソコンの準備もバッチリだ。
そして、井伊教授の研究発表が始まった。内容は水戸城跡についての研究発表だ。井伊という名字の人が水戸藩をテーマにする。因縁らしきものを俺は感じた。
発表の持ち時間は最大20分。スライドが進んでいく。
井伊「―こちらに補完資料があります。お願いします。」
井伊教授が呼びかけるかのような一言を合図に、資料を破かないよう、黒藤さんと一緒にゆっくりと紙の資料を開く。
井伊「えーこちらにあります通り―」
資料が極力多くの人に見えるようにする。その資料を提示は5分ほど続いた。はっきり言って腕が疲れる。
資料を引っ込めたしばらく後に研究発表は終わった。教授はその後の質疑応答で、茨城出身の別の大学教授から、江戸時代の水戸城の城下町の絵図についての質問をされていたが、それにも淀みなく答えた。
それからさらに時間は経ち、17時過ぎに終わった。
井伊「いやあ2人ともお疲れ。」
良哉・紘深「お疲れ様です。」
井伊「いやあ2人ともいい働きぶりだったよ。」
良哉(タグ付けとか資料提示とかしたくらいだけどね俺は…)「ありがとうございます。」
紘深「ありがとうございます。」
井伊「私の考えだったらこの後は食事会とかするだろうけど、時代だもんな。この後は明日の帰りまで自由にしてていいよ。」
良哉・紘深「分かりました。」
これで俺たちは解散だ。ホテルの部屋に入って私服に着替えた後、俺は黒藤さんとホテル近くのファミレスでちょっと早めの食事だ。
紘深「お疲れー斎藤君!」
良哉「黒藤さんもお疲れ。」
食事を終えてそして迎えた夜7時。俺はテレビをつける。
(おっ。始まったな。)
野球中継が始まった。黒藤さんからのLINEが来たのは、夜8時過ぎのことだった。
紘深「斎藤君斎藤君!ここからが差し替えゾーンだよ!」
良哉「いやあ黒藤さん細かいねえ。」
紘深「えへへ。」
良哉「だって俺知ってるもん。フ○系の金曜夜7時台はローカルセールス枠だってこと。東海地方も随分前まではその時間ローカル番組やってたし。」
紘深「あーご○ですだよね?私も知ってるよ。」
各局でスポンサーが異なり、番組を差し替えることも認められている「ローカルセールス枠」。地方局の基礎知識として、「この系列はこの曜日のこの時間がローカルセールス枠」だなんてことを、俺は黒藤さんに教えられていたっけ。
そういえば井伊教授、去年黒藤さんと昔の宮崎県のテレビの話で盛り上がっていた伊東教授と仲が良いという噂を聞いたことがある。もしかしたら井伊教授は黒藤さんが野球中継を見たがっているのを分かっていたのではないかと、俺は思っていた。黒藤さんが楽しみにしている「差し替えナイター」というものまでは、まださすがに知らない可能性が高いが。
そして一夜が明け土曜日。俺たちは朝9時過ぎの新幹線で東京に帰る。
井伊「今後卒論やら就活やらいろいろ大変だろうとは思うけど、機会があったらまた頼むよ。」
良哉「はい。」
紘深「その時はまたよろしくお願いいたします。」
突然行くことになった初めての広島。教授の学会発表の手伝い故に(俺的には)観光要素は皆無だったが、教授の元でしっかり働けたと俺は思う。一方初めての「差し替えナイター」なるものを楽しんだ黒藤さん。彼女からしたらそれが一番の「観光」だったに違いないと、帰りの新幹線の中で俺は思った。




