柔らかなカオスで、君と待ち合わせ
柔らかなカオスで、私は君と待ち合わせていた。それは花火と真夏の夜の匂いと、子供たちのいない、陰の射したあの公園のすぐ近くで渦巻いていた。
今夜、私たちは焼き鳥屋でデートするつもりだった。私たちが歩いている途中で、君は近所の花火大会へ行こうと提案した。
「もしかしたら、今日で夏が終わってしまうかもしれないし」私もその提案に乗った。
しかし私たちは花火大会の会場からすぐに立ち去った。
そこにあった夏草の匂いも、町内会長が振る舞うバーベキューの炭火の匂いも、打ち上がったばかりの花火とそれを喜ぶ子供たちの声も、柔らかなカオスに巻き込まれて、消えた。不安が期待を押しつぶしていった。
あのときと同じように、私たちは走ってその場から逃げた。私たちは、過去がまだ生きていると実感した。それは最初に私たちが出会った日であると同時に、私たちが不安の治療を待ち望んでいるときでもあった。
「枝豆とうふなんて、頼まないでよね」焼き鳥屋で、澤月さんはそう言った。それは私が好きなメニューだった。しぼんだ期待をもう一度膨らませようと、彼女はその名前をメニュー表から読み上げた。
でもそれは彼女の嫌いな食べ物だった。私が枝豆とうふを食べたあと、キスでもしたら、君は何て思うだろう?
「それとこれとは別ね。まずキスなんかさせない」彼女が冗談ぽくそう言うと、やっと私たちは笑いあった。
本当にあの瞬間が何かの冗談だって思えればよかった。これがただの幸せなら、都合の悪いところなんて、編集して、ここから今日が始まればいい。
たとえば明日がそうじゃなかったら?
そのとても悪い瞬間を、君が現場検証し、遺体になった私のゾンビみたいに青ざめた顔にショックを受け、食べ物も受け付けずにやせ細って、君が死んだ私にとてもよく似てきたら、それが愛していたって証拠になるって囁いた悪魔に、つばを吐きかけて、ぶん殴ってほしい。
そして、深夜のマンション、私は、自分の部屋で死んだ。
いや、死んだというのは語弊がある。
正確には、いまやっているゲームの中で、私が死んだ話だ。澤月さんが私の誕生日プレゼントに買ってきたゾンビを殺すゲームの話だ。
そのゲーム内で使う私のアカウントが死んだのだ。澤月さんは即死した私を笑った。
「下手くそすぎやしませんか」そういう彼女のアカウントは、生存していた。
「仕方がないじゃないか。まだ手が温まっていないんだよ」スコアがなんにせよ、私の言い訳はいつの日か自分でも驚くべきほど上達していた。
「手が温まっていないと、ショットガンのトリガーを弾くとき、装備を変えるときに、コンマ一秒未満だけど、遅れが生じる。それだけが敗因とは言えないけど、この世界が常在戦場である以上は、この遅れは憤死に直結する」
「だから死んだんじゃない」澤月さんはゾンビ化した街を銃火器で浄化していく。
私はこのゲームはおろか、他のどんなゲームで彼女に勝ったことがない。
澤月さんが全てを、プレイングセンスも知識も、他のオンラインプレイヤーとの連携も仕切っている。人々は彼女を、FPSゲーム界における聖女ジャンヌダルクと崇められている。
彼女は実況プレイ動画をほとんど挙げないこともあるから、それを知らないプレイヤーもたくさんいる。しかしその正確無比なヘッドショットが、ひとたびオンライン対戦で発見されると、誰かがこいつはやばい、うますぎだろ、ジャンヌとか知らないけど、この子すごくね、と口々に言う。
それは私のちょっとした自慢だが、彼女の意向で喋らないようにしている。
待機中の私はというと、自分の手をマッサージして柔らかくしていた。
「次は大丈夫だよ。きっと生き延びてみせる。君を守ってみせる」
「愛しているなら、死なないでよ」そう彼女は言って、街の人間を外に逃がすミッションを難なくクリアした。彼女は、リザルト画面でもらった報酬で、私を生き返らせる。私はそれに対する感謝の言葉を口にした。
「ありがてぇ」
しかしその次のステージも、私は即死した。彼女は、遺言代わりに残された私の身体がゾンビに食われているところを爆撃した。
でも私は何だか幸せだ。
「死んだのに、幸福とはこれいかに」彼女はそう突っ込んだ。いや、でもこれでいいのだ。
焼き鳥屋から出た私たちは、その足で、ゲーセンに向かった。ハイボールと焼き鳥と、彼女のシャンプーの匂いが風に舞っていた。私はその匂いを犬みたいに嗅いだ。話が聞こえない振りをして、顔を近づけた私を、彼女は叱った。でも不思議と楽しそうで、怒ってはいない。
「私、あれ欲しいな」澤月さんは、UFOキャッチャーの中にあるぬいぐるみを指さした。ぬいぐるみは飼い主を求めるような瞳でこちらを見つめていたと彼女は言う。
「取るしかないじゃん」
「やってみようか」私はそう口にしたが、上手くいかないようにわざと外した。当然、キャッチャーは、ぬいぐるみの端にかすりもせず、元の位置に戻って来た。
「ちょっと酔っ払っているからかな。ポジションは悪くなかったけど、この数センチ、間取り、そう、空間把握能力だよね、いまの自分に足りないのは」またしても私は言い訳をした。
でもそれは全て彼女のためだった。そう言うといつも彼女が楽しんでくれるからだ。
「次、私ね」澤月さんは、スマホ決済で課金して、スタートを待った。
「ちゃんと学ぶんだよ。ボタンを押すタイミングとか、キャッチャーの間とかをね」
たしかにそれを真似すれば、ほんとに直接手を伸ばしたんじゃないかってぐらい、ちゃんと届くのだ。実際に彼女は一回で、ぬいぐるみを取った。
私はそんな彼女を写真に撮ってあげた。
「Nさん、写真は超うまいよね。動画とかもジャストタイミングだし、編集いらずに仕上げるし」
「才能があるんだよ、きっと」
「えっ、もう一回言ってみて」私は聞き返した。
「才能があるんだよ、きっと。二回も言わせないでくれよ。恥ずかしいな」
「ばーか」ぬいぐるみもそう言って、私に手を振った。
私は、柔らかなカオスで別の誰かと待ち合わせていた。
この部屋に、ぬいぐるみも、たくさんのゲームも、澤月さんもいなかったときの話だ。もしその頃、彼女に出会わなかったら、私は死んでいた。彼女は何度も私を助けていた。
ゲームをあまりやらない私がどうしてその当時、ゲーセンにいたのだろう。少なくとも、私にその理由はなかった。
Hは、かつての私のネット上での知り合いだった。だが私は彼と会って、後悔した。
Hは、その仕事を上手くやれば、きっと人生が幸福に感じるだろう、君はかつての僕に似ている、絶対成功するってわけじゃないけど、君が上手くいくように僕がバックアップすると言った。それからHは言葉を続けた。
「君はきっと僕よりも上位になれるし、みんな君のその優しさを買っているんだ」
「しかしその対価が十二万円って高くないですか」その声はゲーセンにある、どんな音よりも、Hの言葉よりも、まっとうに私に広がっていった。
Hは笑っていたが、目はそうではなかった。誰だって自分の幸福を語る瞬間を妨げられたら、イヤでもそうなるだろう。
彼女は、Hが何かを口にする前に、私をゲーセンから連れ出した。走って、左に曲がって、またずっと走って。もしかしたらもっと危険な目に遭うかもしれないのに、私たちはずっと走った。道に倒れそうになるくらいの速さで。
そのあと私たちは駅近のマクドナルドに入った。私は事情を手短に、簡潔に話した。澤月さんは、私の話に頷き、その度に何か質問をした。
「あなたは騙されていたの」
「かもしれない。もし会わなかったら、仕事をこなしてそれで終わっていた」
「ふうん。もし私が通らなかったら?」
「断ったよ。でももっと失望してからだ」彼女はコーラを飲んで、その言葉に頷いた。
「昔ね、私の友達もやっていたの」
「昔からあるからね、そういう話は」
「その子は借金抱えて、死んじゃってさ。私は彼女とずっと親友だった」
「君はダメージが大きかった」
「そうね。けど、いつまでもそうしているわけにはいかないから」
「すぐにそっちにいけると思うよ。ずっと嘆いているわけにはいかないから」
「それ訊けて、ほっとした」澤月さんはそう言って、私の頬をつねった。なんか、ぬいぐるみみたいに柔らかいねと言って、彼女は笑った。
柔らかなカオスが、たとえば土砂降り雨みたいにずっと君の部屋に降り注いでいるかもしれない。その雨が、彼女がいなくなる一ヶ月前から止まなかったのは、どうしてかはわからない。
「何かに絶望したんだろうね」私からはそう言うしかない。
「もがかなければ、上手く浮かんで、その命は助かったかもしれない」
澤月さんの死んだ友達の部屋は、最初はとても明るい部屋だった。そこにはぬいぐるみもあったし、ゲーム機もあったし、大切にしているマンガや写真だってあった。でもそれらは全部水浸しになって、何もかもがダメになった。
だからいまここに残っているものは、一つだってないはずだ。でも私には、そこにあった風景が思い出せるのだ。
「あの子が好きだったもの、一つくらい覚えていてもいいけどね。でも、あんまり覚えていないの。記憶が薄れていくの。言葉も、心もね」
私にはそれがウソだとわかっていた。この部屋が、いまじゃ、あの子の未来かもしれないんだってことを言ってあげたかった。でも私は言わない。言わなくても、そうだってことは澤月さんにだってわかっているのだ。
それぐらい、彼女の目を見ればわかる。
柔らかなカオスで、私は君と待ち合わせていた。澤月さんがぬいぐるみを抱いて、ゾンビやホラーゲームに熱狂し、銃を撃ちまくって私を助けようとしている。そんな未来で待ち合わせしている。
「おやすみ」私が寝静まっても、きっと彼女はコントローラーを離さないだろう。でも私たちはその未来に向かって、まっとうに進んでいる。