コレクター 7
細長い小学校の校舎みたいな古い建物の前を通るとき、お袋が懐かしそうにそれを見上げた。
「ここ、晴馬が昔住んでいた学生寮よ。建て直すみたいね」
言われて見ると、黄色と黒色のフェンスで入り口を閉鎖されていて、小さな看板に建て替え工事の予定表が貼られていた。
「……ようちゃん。ここを見て何か感じない?」
言われてみれば、何となくだけど。ここにこうして立っているだけなのに、ずっと前から知っているような気分になる。廊下もランドリーも部屋の造りも見てない筈なのにイメージできた。
「懐かしい場所巡りみたいね」と、クスリと笑っていやがる。なんでそんなに余裕なのか、俺には理解不能だ。
「今はそれどころじゃないだろ?」
「うん、そうだね。でも、こういうことがなかったら、こうしてここに居ないわ。壊される前に来れて良かったわね」
―――もう、本当にいちいち驚かされる。そんな風に考えたら、どんな些細なことにも実はちゃんと意味があったんだって思い知らされる気がしてくる。
「今度は、恵鈴も一緒にゆっくり校内を案内してもらいたいわ」
お袋は落ち着いた表情でそうつぶやくと、歩き出した。
* * * * *
頭が痛い……。
首が……、肩の後ろが痛い…………。
バウンドする体。静かだけど感じる振動音に、僅かながらガソリンの匂いがして、ゆっくりと目を開けた。車に乗っているなんて、どこに向かっているんだろう?
最後の記憶を思い出そうとするけど、揺れが激しくなってきてそのたびに体のあちこちが痛んだ。
「目を覚ましたか?」と、耳慣れない男の声がして、ハッと我に返る。
やっと持ち上げた頭を振って、周りを見まわすと知らない車の後部座席で、シートベルトに抑えられていた。それだけじゃない。
右手に銀色の手錠が嵌められ、反対側は車の窓の上の手摺りに括りつけられていた。
異常な状況が飲み込まず、夢じゃないかと思って手錠から手を引き抜こうとしたら、手首に金属の角が食い込んで痛かった。
「安心した。初めて使ったから、君が目覚めなかったらどうしようかと心配だった」
はっきりしてきた頭で、その声を聞いてまず最初に思い浮かべたのは、画商を名乗る男の顔だった。豪華な食事に誘ってきたり、私が良く好んで使う銘柄の群青色の絵の具を一ダースもプレゼントされたりして、しつこく勧誘してきた男だ。私は自分の絵を高く売りたいとは思ったことはない。描きたいから描くだけ。見たい人が気楽に見れるような、そんな環境に展示されたい。だから、個人のコレクター相手に商売をする画商と話すことなんてないと思っていた。
運転席からバックミラーでこちらを見ている男性の目元は、正にその人だ。驚きの余り、私は思わず叫んだ。
「私に何をしたの?!」
彼は冷たい視線を投げてくるだけで無言だった。言葉を選んでいるのかもしれない。
窓の外に目をやると、舗装もされていないような雑木林の林道を走っていた。かなりの山奥だということは間違いない。それに、鬱蒼とする森林の向こうから西日が差し込んできて、時々目に刺さってくる。ということは、西に向かって走っているんだ。
日の傾き加減からして、あれから五時間程は経っているのだろう。
「……あなた、白鷺さんでしょ? こんなことして、犯罪ですよ!!」
状況が視えてくると、今度はこれから何が起こるのか悪い予測しか視えて来なくなる。不安と込み上げてくる恐怖に胸の奥が焼けるようにヒリヒリとしていた。嫌な汗が噴き出して、意味もなく唇を噛んでしまう。
私の質問には答えたくないのか、男は寡黙に運転していた。
あなぼこだらけの悪路を進むセダン。手錠さえなかったらドアを開けて飛び降りて逃げ出すことも出来そうだけど、どんなに引っ張っても抜けられないところまでしっかりと締め上げられていた為、手首に食い込んだ場所が既に赤く腫れていた。それに、地味に痛い。
「何が目的?」
出来るだけ落ち着いた声で問いかけると、男はやっと反応を示した。
「目的地に行けば、わかる」
短い回答に、絶望しか感じられない―――。
性的な執着心は感じない。
彼の心は驚く程静かだ。
波立つ風もない湖はそのまま美しい自然の風景を映し出す。
それと同じように、彼は私に反応するだけで自分の情報を見せようとしていない。
かなりの精神的強さ、のように見受けられた。
辿り着いた場所は、山の中腹程の広くなった敷地に建つ三角屋根の大きな施設。
緑芽吹く季節の山間部において、白い三角はかなり目立った。
車が他にも二台停まっていた。
「着きました。降りて下さい。大人しくしてくれさえすれば、痛いことはしません」
丁寧だけど恐ろしいことを言われて、私は身構えた。
後部席のドアが開いて、手摺り側だけ外された手錠を自分の左手首に嵌めた男の顔は、やはり見覚えがある顔だった。
「画商なんですよね?」
男は黙ったまま、私を手錠で引っ張って車から引きずり降ろされた。実際は自分で降りたけれど、金属の食い込む痛みさえなければ言うことを聞くのは理不尽な気がした。