コレクター 6
「慌てて出てきたから、歯ブラシも化粧品も置いてきちゃった」
リュックひとつにショルダーバッグというかなり最小限の荷物で来たことは、一目瞭然だ。
お袋は去年、保育園を辞めて爺ちゃんが残した土地で家族菜園という新しいビジネスを始めていた。親父の設計でリフォームされていた波戸崎家を少しばかり内装工事をしなおして、とれたて野菜をつかった素朴な料理を作る教室を開いたり、夏にはじゃがいもの収穫で地元や近郊の幼稚園児や保育園児相手にイベントをしたり。本来なら今は畑を耕して種イモを撒く時期の準備期間なのに、仕事そっちのけで駆けつけてくれた。
少し日焼けした顔のお袋の印象はわずか一年で変わっていた。上手くいけないけど、あの張り付いたような朗らかな笑顔の時間が短くなって、目付きが鋭くなった気がする。
「お昼食べた? 食欲ないだろうけど、栄養入れないといざという時に動けなくなるのは困るわ」
そう言って、俺達はお袋が選んだレストランに入って昼ご飯を食べながら、呉さんが与えてくれた情報を書き記したメモをテーブルに置いた。
「お袋。電話くれる前、何が起きたの?」
「ビジョンが視えたの。ご近所さんが農耕用のトラクターで畑を耕してくれていたときに、おにぎりと浅漬けを用意しててキッチンに居たんだけどね。突然、恵鈴の左手を掴まえる人物の目線になって……」
「……え?」
俺はお袋のことを知っているようで、何も知らされていなかったことを知る。お袋はかなり小さい頃から、誰かの見ているものが視えることがあったり、想像していることを映像で視ることがあったらしくて、驚かずにはいられなかった。
「その人物の手は男性で、色白。カジュアルな生地のジャケットの袖が視えたわ。色は黄土色で、その下に来ていたシャツは薄いブルーのストライプだった。
腕を掴まれた恵鈴が振り向きかけた時に、肩に小さな注射器を突き立てた。そこで映像は終わり。かなり生々しいビジョンだったから、ものすごく気になって電話したのよ。でも、一歩遅かった……」
そう言いながら、お袋は目を細めて考え始めた。こんなに真剣な彼女を見るのは生まれて初めてかもしれない。癒し系のマスコットみたいなのほほんとした印象しか持ち合わせてなかったから、俺は知らない人を見るような気分でじっとしていた。
お袋は俺のメモを睨むように見つめ、そして。
「確かに、恵鈴なら色欲や嫉妬の感情を感じたら自分から距離をとる子だと思う。あなたもそうだけど、昔から極力他人とは深くかかわろうとしないのは、感受性が強すぎるせいで周りの人間の感情に巻き込まれやすくて、無意識に自分を守っているのよ。
恵鈴が気付かなかったのは、自分が知らない感情を持っているせいかもしれない。相手は相当年上か、同年代だとしてもよっぽど特殊な生い立ちがある可能性は高いわ」
これしきのメモでそこまで推理するお袋は、やっぱり俺の知らないお袋だった。
「だから、自分を責めないで良いからね。わからないものはわからないんだから、責めても時間の無駄だわ。今は一刻も早く恵鈴を救い出すことに専念しましょう」
丁度、ウエイターが運んできたBLTサンドイッチをお袋は大きな口を開けて食べ始めた。俺もつられて今日初めての食事にありつく。せっかく買った駅弁のこともやっと思い出したが、家に放置してきてしまった。恵鈴を連れて自宅に帰りたいと強く思いながら、美味しいはずのサンドイッチを胃に流し込んだ。
食事を済ませてすぐに電車に乗って、まずは恵鈴の学校に向かった。校内の敷地は広く、埋め込まれた植物の多さに俺は何度足を運んでも慣れない。東京という街は大都会のコンクリートジャングルかと言えば、案外大昔から育ってきた大木の密集地でもあって不思議な環境だとつくづく感じる。
「パパに以前、連れて来てもらったことがあるわ。時の流れが少し違うのよね」
お袋のつぶやきはまともに聞いていると、不思議なワードだらけだ。
「恵鈴のアトリエに行くんだよな?」
「そうよ。そのようちゃんが視た映像の場所に良く足を運んでいた人の中に、『彼』がいるのなら手掛かりが見つかるかもしれないわ。ようちゃん知ってる?」
「知ってるけど、恵鈴の携帯端末はここにあるから」と、俺は大学オフィシャルアプリを開いてスケジュールや校内地図を閲覧した。そこには当たり前のように学生番号やら生協購買部の場所、食事処の営業時間や本日の定食内容に至るまでの映像と文字情報がスライドするだけで確認できた。
「恵鈴はE棟の二階にアトリエを持ってる。E棟一階にはカフェがあるから、すぐわかる」
地図を確認しながら校内の道を歩いていくと、芸術大学だけあって音楽科の生徒が広い場所で生演奏をしていたり、なぜかパントマイムの練習をする者や、ドローンを操縦している人なんかも見かけた。春休み期間中なのに、思った以上に学生がいる。俺の大学とは全然違う。