コレクター 4
それから一時間後。
どうやって帰って来たのか思い出せないが、俺は自分の家にいた。
玄関の靴箱の上に置かれた銀色の灰皿の中には、恵鈴の自宅の鍵が置かれたまま。一瞬、家に帰ったんじゃないかと思って狭い2DKを探し回ったけど、勿論彼女は消えたままだ。
恵鈴の携帯端末で頻繁にメールしている相手に、自分は兄だと名乗って質問する。すぐに既読がついて、不審人物なる人のことは知らないという乾いた反応が返ってきた。相手が大学のクラスメイトなのか先輩なのか、教授なのか誰なのかわからない。リストの名前だけじゃ、恵鈴の世界の住人がわからない。
こんなことになると知っていれば、俺は同じ大学に進学したのに!
苛立ちと悔しさと、遣り切れない不安に締め付けられた俺の胸は、これ以上ないほどに苦しくなって、息も絶え絶えになりかけた。
冷静さが欠けているせいで、大事なことを忘れている気がするのに、どうやって冷静になれば良いのかわからない。すると、恵鈴の携帯端末に着信音が舞い降りた。覗き込むと、さっき問い合わせた子が心配して何か言っている様子だった。そして、添付された写真がいくつかあって、そのひとつひとつを拡大してじっくりと一人ずつの顔を確かめた。
恵鈴はまだ入って間もない内から注目を集めていたそうだ。
教授から気に入られていて、その作風はその昔この大学を卒業して間もなく病死した天才画家・田丸燿平にかなり似ているという評判が付きまとった。
僅かな数しか存在しない田丸燿平の絵は今では数千万円の価値があるという。透明感のある色彩感覚と奥行きを感じさせるセンスが、まるで同一人物のように再現できる新人。そんな肩書を与えられた東海林 恵鈴は、本人の知らないところで既に有名人になってしまっていた。
だから、大学構内にいるというだけなのに知らない人から声をかけられることが多かったらしい。そうなると、不審人物なる者はかなりの人数にカウントされてしまう。セキュリティに妙に詳しい恵鈴の友達、呉くれ 香梨奈は馴れ馴れしく恵鈴の周りに付きまとう連中の写真を頻繁に撮影していたそうだ。
「電話で話しませんか?」とメッセージが届いて、俺はすぐにリアクションした。
添付された番号に恵鈴の携帯から電話をかけると、すぐに応答してくれた呉さんの声は思ったよりも低く落ち着いていた。
「初めまして。恵鈴さんと親しくさせて貰ってます」と丁寧にあいさつをされる。
仲良くなった経緯と、恵鈴の創作中に頻繁に見学に来ていた連中の面々を動画で撮影していたという説明を受けて、その動画を見せたいというため最寄り駅の喫茶店で待ち合わせをすることにした。
家を出る時、俺の携帯端末が震えてジャケットから取り出すと、親父の名前が流れていた。
「もしもし」
「もしもし? 本当に、ほんとうに恵鈴が消えたのか?」
かなり真剣に焦りを含んだ声だ。俺はごくりと唾を飲み込んで、唇を噛み締める。
「……ご、ごめん。親父。……俺がそばにいて、あいつを見失うなんて……」
「東京駅のホームの中でだったらしいな。最後に見たのが、車窓越しで目を離したのが数十秒。そんな短い間に、大人ひとりを攫うってどんな奴だ?」
「外に飛び出て階段を降りて行く人まで見たけど、恵鈴の姿はもう……」
俺は情けないぐらい声が震えていた。電話の向こう側で、短くため息を吐く親父の言葉にならない声が聞こえるような沈黙が流れた。
「今、夏鈴が飛行機に乗ったところだ。空席が多くて、乗れるやつに飛び乗ったんだ。羽田まで迎えに行ってくれるか?」
「……わかった。でも、今から恵鈴の友達に会うんだよ。美大の友達……」
「そうか。何かわかったら連絡くれ。こっちの仕事片付けて、俺も追いかける。二十四時間経っても見つからない時は警察に行かなくちゃいけない…。そうだ、真央さんには俺から連絡しておいた。夏鈴がそっちに行けば、恵鈴の手がかりがつかめるかもしれない。やれることは全部やろう。いいな?」
警察に届けを出すことになんて、ならなければいいのに。
どうか、何かの間違いでひょっこり笑顔で戻って来てくれ!!と、心の中で何度も神頼みを繰り返す俺は、親父に気の利いたことをひとつも言えないまま電話を切った。