20時、三日月の浮かぶ西の夜空 後編 Crescent moon and sun
彼との付き合いはたまにお互いの家に泊る感じで進んだ。
あいつはあいつで忙しいし、私だって同様。仕事の合間に飲んでお互いに気が乗ったら泊る。そんな関係。
それを変えないかと言い出したのは奴の方だった。
「なあ、三日月さん。結婚前提に付き合ってくれないか?」
そういう話はいつか出るかなと思ったけど思ったよりは早かった。
まだ3ヶ月ぐらいだもんな。
そして考えないわけじゃなかったけど、そう簡単じゃないよなあとも思っていた。
「こんな事を思った相手っていないし、そう思えたからこうなった訳で。三日月さんは俺じゃ嫌かい?」
「別に嫌じゃないけど、許可取れるかな。あんた、うちの会社に敵が多すぎるのよ」
警察官の結婚は上司への報告と許可がいるのだ。
「アンフェアな事はやってない。検事相手に法廷上の駆け引きではないとは言わないけどね。警察官にはどちらかというと俺の方が騙された方が多いと思うんだけどな」
「分かってるって。うちはどうせ絵図描いてそれに従ってやるのが流儀だからね。あなたにとっては嫌な組織だろうなって思うわ」
「別にそれが嫌な訳じゃない。変わっては欲しいけどね。絵図に合わない事を無視したがる人が嫌なだけ。君はそれはしないからね。そこは尊敬してる」
「DMZ」バーでの出会いを思えばちょっと恥ずかしい話ではあった。ただ私が捜査主任だったら、あれはなかった。私が刑事になった時の師匠もそういう人だった。
「えーとね。考えてみたら恋人って事かどうかも言葉にした事なかったから、そこから始めましょうね。まずは恋人から。んで結婚については上司に探り入れるわ」
「仕事はなんなら、うちの事務所の調査員って仕事もあるよ。面倒な事件の依頼が増えていて俺じゃ手がまわりきれなくて困ってた。君なら歓迎だ」
「そりゃあ、あなたの所ならそういう仕事もあるでしょうよ。でも私もノンキャリとは言え定年前には警視正で署長になるぐらいまでは狙ってんだからさ。簡単には諦めたくないわ」
「あ、今のは不躾だったな。すまん。でも一緒にいて欲しいと思ってるのは本気だよ。三日月さん」
結論から言えば私から付き合っている相手の名前を聞いた上司は「三日月、そりゃダメだ。別れろ」と言った。
この瞬間、辞めるしかないなと思った。
彼は一人だと危うい。誰か一緒にいる必要があった。
どういう星の巡りか知らないけど、その役割は私に当ってしまったらしい。
そして、もうそれでいいと思っている私がいた。
「じゃあ、辞めますけど」と言ったら上司は引き留めもなかった。
一番むかついたのはその事かも知れない。優秀なつもりだったけど捜査官としての優秀さと公務員としての優秀さはイコールではない。多分私は前者に心が傾きすぎているとその上司には見られたのだろう。
最初に刑事となった時に面倒を見てくれた師匠がふらりとやって来た。
人目を避けるためか近くの喫茶店に呼び出された。
今は県警本部詰めの10歳年上のノンキャリ出世組だ。
「三日月、三重弁護士と付き合ってるって話、本当なんだな?」
肯いたら目を丸くした。
「そりゃ、凄いな。会社での評判は最悪だけど腕は良いし、彼のやり方は文句も言えないな。任官して検事の側にいたら出世間違いなしだったろうに」
「先輩の言うとおりの人だと思います。彼は彼なりに正義の側に立ってはいます。検察側だけじゃ裁判は成り立たないからって言ってました」
「何か個人的な思いはあるんだろうね。刑事弁護人なんて100弁護して100有罪で運があれば1つぐらい無罪が取れれば凄腕な世界だし。それが検察が長年掛けて作り出した数字だからね。彼はその中で我々の間違いを見つけて、ほんの少しかも知れないけど数字を変えている。そんな彼と一緒になって何をするんだい?」
「そうですね。専業主婦だけって事にはならないですね。彼の仕事の手伝いとかやる事を考えてます」
「多分、表だってお祝いする会社関係者はいないと思うけどおめでとう。何をできるか約束は出来ないが、相談したい事があったら連絡をくれたらいい。私は君に対して問答無用で窓を閉めたりはしない。話を聞いてアドバイスするぐらいは出来るだろう。悪いけどダメって言う事の方が多そうだけどな」
そういうと彼は右手を差し出してきたので力強く握り返した。
「ありがとうございます」
彼は伝票を持って立つと「三日月、幸せになれよ」と言って喫茶店を出て行った。
こうして私の神奈川県警でのキャリアは巡査部長で終止符を打った。
退職するとさっさと彼と婚姻届を出して三重三日月になった。
実はちょっとうれしかった。姓が薩摩って女性としてはすごく苦手。小さな頃は変なあだ名を付けられる原因になってたし警察に入ったら入ったで下の名前で呼ばれる方が多くなっていたし、その警察も辞めた訳で拘る必要はどこにもなかった。
そして彼が言っていた弁護士の調査員の仕事を始めた。
彼が刑事裁判専門で捜査の穴を見つけてきたのは、ちょっとした追加調査にある事を知った。
彼は人々の間に入り正体を消すのが上手い。
才能と言って良い凡庸な風貌。
覚えられにくい人なのだ。
それでもって彼の見かけによらない頭脳が必要な情報を探し出して引き出す。
私もその手伝いをするようになり、他の弁護士からの依頼による調査も請け負った。もう一人助手を雇って彼を半人前程度に出来た頃に子どもが出来たので産休に入った。
もう彼の慌てぶりは見ていて微笑ましいなんてレベルは超えていた。
「仕事も忙しいんだし、家の事は私が出来るからパパは仕事をやって」
と何回言ったやら。調査員第2号となった防府くんもあきれていた。
彼が夕食後洗い物をしてくれている時、ふと彼に一つの約束を提案した。
「私達、子どもが生まれたら絶対に名前では呼び合わない。パパ、ママがいいわ」
「なんで?」
彼は怪訝そうに問い返してきた。
「私の名前って正直お父さんがその夜の月を見て決めてくれちゃってさ。恥ずかしいのよね。それにお互いの名前を言うと前の会社思い出すことが多いから」
彼は苦笑した。
「真の名前じゃ昔の血が騒ぐのかな。あの頃、言葉遣いきつかったものなあ。……イテッ。ごめん。もう言わないから。じゃあ、これからはママって言えばいいのかな?」
「そう。そうして。お願いだから。パパ」
2000年1月31日、娘が生まれた。
パパは私達のお父さん、お母さんたちの希望は一切却下した。
「俺と三日月さんの子どもだから俺たちで決めます。女の子なら陽子にします。もう決めてましたから」
パパの名前から一文字。
そして私の「月」に対する因果から選んだ。
だから陽子。いい名前よね。
陽子はうちが「パパ」「ママ」と言い合っているのを見て小学生ぐらいの時分に不思議に思ったみたいだけど、二人がそう言っているなら少なくとも家ではそういわないといけないんだと思ってくれて守ってくれていた。
ただ小学校で学年が上がって行くにつれて外じゃ「お父さん」「お母さん」って言っていたらしい事には気付いた。
このせいで家にあまり友達を連れてこなくなったのは誤算だったな。
その点は「ごめんね」と思わない事もない。
パパもママも家でパパの言う『真の名』を言い出したらあの頃に戻ってどこまでヒートアップするか正直自信ないからね。
家じゃあなたのパパとママでいたいから。辛抱して欲しいな。
まあ、陽子が母親になる時、どう子どもに呼ばれるかは自由にしたらいいのよ。
それまでは私達の事は「パパ」「ママ」って呼びなさいね。