真っ赤な絵
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「高校最後のコンクールだぞ、お前は良い絵が描けるんだから今回ばかりはちゃんと作品を出すようにな」
昼休みに職員室に呼び出されて何かと思えば、耳にタコが出来るほど聞いた台詞を顧問に繰り返されるだけ。こんなことなら先に購買に行けば良かった。
僕は美術部に所属している。一年生の時、最初のコンクールで最優秀賞をもらった。
僕からすれば七十点ほどの出来の絵だった。これだと思って描いた絵と期限を決められて描かされた絵では雲泥の差が出る。少なくとも僕はそう思っている。
満足のいく出来ではなかったが、同じ一年生の美術部員の絵を見て僕は最優秀賞とは言わないまでも賞は取れるだろうと思っていた。心がこもっていると思えるような絵も上手いと思えるような絵も見当たらなかったからだ。
幸か不幸か他校にも僕の七十点の絵を超える絵を描ける一年生はいなかったようで僕の絵は最優秀賞を取ってしまった。嬉しいとは思わなかった。
僕は学校の集会で表彰を受けることになったが、自分で取った賞をなぜ全校生徒の前でわざわざ時間を取ってまでして校長先生から改めて受け取らなくてはならないのか。当人である僕もそれを見させられる全校生徒たちも誰一人そんなこと望んでいやしないのに。
「表彰、タダカズヤ君」
「……オオタです」
僕はこの瞬間、もうコンクールに出品するのはやめようと思った。何が嫌だったのかははっきりとはわからない。期限に迫られて自分でも満足のいってない絵を出品することなのか、満足のいってない絵で最優秀賞を取れてしまうことなのか、誰も望んでいない時間を過ごさなくてはいけなくなることなのか、名前を間違えられたことなのか。全部が嫌だったが、全部それほど嫌でもなかった。ただこの瞬間、もうやめようと思ったのだ。
それから今まで、僕は部活動として描きたいときに描きたいものだけを描いて過ごしてきた。僕の絵を見た部員や顧問は大層褒めてはくれるが、僕は自分の絵を上手いと思ったことは一度もなかった。それどころか僕には絵の才能が無いということをひしひしと感じていた。
僕と同じ一年生だった美術部員は経験を積み、絵を描く知識を得てみんな上手い絵を描くようになっていった。構図や配色をきちんと考えて描かれる絵は確かに上手い絵だった。
僕はそんな絵を描こうとは思えなかったし、きっと思っても描けないだろう。ニーズに応えるような絵の描き方も出来ず、期限内に力を出し切れるとも限らない僕は画家として生計を立てるような絵の才能は無いと確信していた。
僕は基本的に風景画しか描かなかった。学校の中を散歩して、描きたいと思った風景を見つけたら、その場所と美術室を何回も往復して椅子と道具を運んでくる。椅子に座ってしばらくぼーっとその風景を眺めてから、目を瞑って肺一杯に息を吸い込む、そして二、三秒息を止めてフゥとゆっくりと吐き出す。そうしたらもう絵の配色はすべて決まっているのだった。
それは実際の風景と異なる配色であることが多々ある。具体的には僕の絵には赤は出てこない。実際の風景に赤い屋根があったとしても僕の絵ではそれは別の色の屋根として描かれる。それが何故かは僕にも分からない。たとえ実際と異なっていたとしてもその場の空気に含まれていない赤は僕にとっては嘘の色だった。そして僕にはこれ以外の描き方が出来なかった。
度々、部員が僕の絵を見て「赤を使わないのか」と聞いてきた。
「赤は僕には上手く使えない」と答えると「多田の絵は色がすごく綺麗だから勿体ない」と言った。部員の誰もが似たようなことを僕に言うが、僕は未だに赤を使ったことが無い。
風景には見るだけで感情が湧いてくるようなものがたまにある。無性に不安になる風景やわくわくしてくる風景。僕はそんな感情を含めてその風景を絵に閉じ込めたいと思って描くのだ。僕の絵を見た人がもし同じ感情を感じてくれたのならば僕にはそれで大成功だった。それは簡単なことではない。だけどその時の感情の一部でも伝わったのなら僕には十分だと思えるのだ。
僕の絵は理にかなっていない。構図など考えずに、感情が湧いてくる風景をそのまま描くし、配色はその場の空気が教えてくれるものだった。
だから僕は上手い絵が描けないし、描こうとも思わない。誰に褒められても自分の絵が上手いと思ったことはない。だけど僕の絵が少なくともこの学校の美術部員の中では一番感情や心がこもっているとは思っている。
最後のコンクールの締め切りは九月末。一年生のころとは違って全学年が参加するコンクールだ。上手い絵はたくさん出品されるだろう。賞は取れないかもしれない。それでも僕は今回ばかりは出品しようと思っていた。
夏休みが明けた今、もう残された時間は多くは無い。しかし、描きたいと思えるような風景に出会わないことにはどうしようもない。中途半端な出来の絵なら出品するつもりはなかった。僕は日曜日も学校に行って行内を散策した。
南向きに面した窓がない人のいない廊下。外は確かに晴れているのに少し薄暗い。悪くない、なんとも言えない寂しさというものがある。だが、最後のコンクールに出す作品にするにしては感情の強度が足りない。
僕はあてもなく残暑の厳しい日曜日の行内を歩き回る。クーラーはもちろんついていない。
校舎に囲まれ陽の入らない寂れた中庭。机や椅子で通れないようにしてある屋上への階段。春になると見事な花を咲かせる桜のある駐輪場。どれも悪くないが最後のコンクールに出すにしてはどうも足りない。
その日はたまたまグラウンドを使っている部活が一つもなかった。空は快晴。ただ、校舎側からグラウンドを見るとその方向には大きな積乱雲。他には雲一つ無いというのに。いや、だからこそ、その積乱雲は青空に映えた。「まだ夏は終わってない」と確かにその雲は訴えている。対して汗を流し、切磋琢磨するべき快晴のグラウンドには誰もいない。これこそが今の季節だと僕は感じた。まだ清々しい夏の装いを残しつつ、運動部は一区切り、世代交代の時期だ。活気のないグラウンドは確かに秋の到来を象徴している。
まだ夏が見えているからこそ感じる名残惜しさ、もの悲しさよ。僕はこれを描きたい。この感情を、この感傷を閉じ込めたいと思った。高校三年生だからこそ余計に強く感情を込められると。
雲が移動してしまってはかなわない。僕は大急ぎで椅子と道具を運んだ。
ぼーっとなんて眺めてはいられない。僕は空間に穴が開くんじゃないかというほどその風景を凝視し、いつも以上に肺だけでなく体いっぱいに空気を吸い込み目を瞑った。そして一分以上息を止めた。この風景の色を一切の彩度を損なうことなく自分の中に取り込んで出し尽くしたかった。
目を開けて息を吐く。そして息を整えることもせずにすぐに描き始めた。今取り込んだ色や感情の鮮度が落ちる前に全てを目の前の紙に表現したかった。
描き切ったころには汗だくで喉がカラカラに乾いていたが、自然と笑ってしまいそうなくらい達成感に満ちていた。フラフラと蛇口まで歩いて水を貪るように飲む。そしてまた絵の前まで戻ってくると、やはり自然と笑みがこぼれた。相変わらず、構図も配色も考えられたものでは無いが、確かに自分の描いた絵の中で一番の傑作だった。
僕は大いに満足して絵を美術室に保管して帰った。
翌日の放課後、僕が美術室で自分の絵を眺めていると、部員が近づいてきて僕に声を掛けた。
「多田の新しい絵、いつも以上に綺麗だね、コンクール出すの?」
僕の絵を見て少し驚いたような表情で彼は言った。
「ありがとう、最後だから出そうかなって」
僕もこの絵にはいつも以上に自信があったので褒められて上機嫌に答えた。
「この絵は……すごいよ。なんか上手く言えないけど、見ていてざわざわする」
彼は自分が感じているものを言葉にしようとしたが上手く言葉にならなかったようで首を傾げつつ言った。
僕は絵に感情が乗せられたことを彼が証明してくれて一層嬉しくなった。
「でもやっぱり赤は使わないんだな。せっかくの青空だし絵のどこかに赤を入れたらもっと青空が引き立つんじゃないか?」
確かに、それが上手い配色なのだろう。だが、その場の空気にやはり赤は無い色だったのだ。それを入れるということに僕はやはり抵抗があった。
「上手く赤を使える自信が無いんだけど……考えてみるよ」
僕は今回ばかりは本当に検討するつもりで答えた。
その後も何人かの部員が僕の絵を見て肯定的な感想をくれた。だが、やはりそのうちの多くが赤を使うことを僕に提案してきた。
僕はその日から部活の時間を自分の絵とにらめっこすることに費やした。
赤を入れるべきかどうか、入れるのならばどこにどの程度入れるべきなのか。
そうして悩んでいるうちに締め切りの九月三十日になってしまった。
その日は顧問が美術室にやってきて部員全員に聞こえるように少し声を張って「コンクールに出す作品を美術準備室にいる俺の元に部活が終わるまでに持ってくるように、今日は提出したら帰っていいぞ」と言った。
顧問はそれだけで出ていかずに、相変わらず自分の絵と見つめあっている僕の元にやって来て僕の絵を見ると「良い絵だが最後くらい赤を使うことに挑戦してみてもいいんじゃないか?」と言って腕時計を見ると「まだ描き足す時間はあるぞ」と言い残して美術室から出ていった。
僕は意を決して赤い絵の具を水で溶いてみたが、どのくらいの水を加えてどのくらいの色の濃さにすればいいのかてんでわからない。水を足して、絵の具を足して、それを繰り返しては多くなりすぎた絵の具を一度捨てて。何度も何度も無意味な行動を繰り返した。
そうしているうちに部活が終わる時間が近づいてきた。他の部員はみんなもう提出して帰ってしまい、美術室にはもう僕一人だった。
差し込む西日も相まって余計に手元の絵の具がどの程度の赤さなのかわからない。
本当は赤なんて使いたくない。でも、だけど……誰もが使うべきだというから。
僕は意を決して赤い絵の具をほぼ色が出ないくらいに大量の水で薄めて、それを絵の全体に上から塗った。鮮やかな青空にも、力強い積乱雲にも、無人のグラウンドにも、すべてに塗って提出した。
僕には絵の才能が無い。