お布施公園前派出所
お布施を当然の如く行っている宗教、すべてを我は全否定する。
潰れかけの塔は傾斜を発生させて段々、急斜となる。
地盤が緩い「宗教」全般に当てはまることではないのか。
人間は何かを信じなくては生きていけないのか。
答えは「ノー」だ。
生きてく人々は皆、多種多様な考え方を持っているだろう。
否定や肯定と中観を持って尚、無我の流れに沿って時は流れているだけである。
お布施をした所で何か変わる訳じゃない。
宗教者側から言わせると「信じる力」らしいがそれは疑念からの逃避であるとしか思えない。
何故、自己啓発を促す宗教という枠組みに入っておきながら、啓発から逃れようとしているのか?
それは宗教という大きな物置が邪魔をして、考える力の弊害として大きな影を落としている。
どうしようもない時に藁をも掴む思いで神にすがる様、果たしてそれが神に対する行いとでも言うのだろうか。
大昔っから間違ってるんだ、宗教という誕生から。根源こそ過ち。
原始的な間違いが基盤を創っていると結論付ければ、新興宗教の腐り加減にも合点がいく。
難しいことを言ってる訳じゃない、人間が行う、ごく簡単な動作に疑問を持つことだ。
歳をとっても若くとも、地位、名誉に金に家族、社会。
振り回されるものが多く存在する。
生きているってことはこんなにも沢山のことに振り回されてる。
その中の一つとしての自分は神だと信じこむ力。
神様一日体験の研修を経験して、何もかも、ちっぽけであると体験することが大きな財産となるのだ。
お布施をただやっているだけの人は考えよう。
考える力というものは人間の特権であり、真の自由なのであるからして。
こんなこと書いていたら愚かな行為だと言われるのかも知れません。
卑下の言葉を使えば自身に返ってくることは間違いありません。
経験したことがある私だからこそ、確信を持って言えるのです。
空観の世界を持ってして読んで下さい。
無自性は貫く一筋の閃光槍です。
神は存在しません、神は死にました。
頼るのは最終的に己自身です。
団子状の階級制度の宗教にはもうウンザリされています。
団体でしか生きていけない人間に何の付加価値があるのでしょう。
助け合いはいつしか道連れ合いにならぬよう、祈るだけです。
一生を社会に捧げるなんて気が狂ってます。
なんでもいい。
一生大切にするもの一つを見つける。
一本筋に基礎を固めて信念を通せば自ずと開ける。
第一優先となるものから逃げるな。
宗教は二の次だ。
逃避すれば一生、逃避する人生だ。