逢魔奇譚 人中鬼門録
皆さん、鬼門というのをご存知でありやしょうか。
一般的にゃあ、北東が鬼門、南西が裏鬼門と言われえてやすが、実際にはそんなことは関係ないですよ、これが。
えっ、それじゃあ何なんだって? そこで話を焦っちゃいけやせん。これから話しやすんでじっくりと聞いてくなんせい。
鬼門というのは方位や場所で決まる物じゃございやせん。けどそれだと鬼門が何処にあるのか分からなくなりやしょう。
それが違うんでやんすよ。鬼門というのは目には見えねえがちゃんとあるんですよ。一人一人の心の内に。
これから語るのは、その心の内にある鬼門の話でございやす。
場所は大江戸八百屋町、その中に清水屋という反物屋がありあやしてね。
何があったかは知らねえが、その日は今朝からひっきりなしに人の出入りがしてやして、慌しくてしょうがねえ様子でありやした。
だがその清水屋にとっては一大事でござりやしたのでしょう。だから千坪もある広大な屋敷に客が来ても分かりやしなかったんです。
「あの、少しよろしいでしょうか」
「なんだい、今日は休みだよ」
客に対応したのは清水屋の下働きの男でやして、最初は丹念に見せの出入り口を掃除してやしたんですけどね。男が客を見るなり急に態度を変えやした。
そりゃあしかたございやせん。下働きといえども男は男、客が美しい女だったら態度ぐらい変わるもんですよ。
「あんた、誰だい?」
「見てのとおりの渡り巫女でございます」
その女は確かに巫女装束を着ており背中には引き出しの付いた木箱を背負ってやした。
だが清水屋は反物やとても巫女と関係があるとは思えやしない、だから男は一応聞いてみやした。
「この清水屋になにかご縁でも?」
「いいえ、まったくございません」
それを聞くなり男は仕事に戻りやした。
まあ、そりゃあそうでしょう。その日は清水屋にとっては一大事、何の縁も無い者にかまってる時間は無かったんですよ。
それに女にかまけて仕事をサボっていたら清水屋の旦那に大目玉だ。だから美しくとも素性の分からない渡り巫女にかまわずに掃除を続けたんでございます。
だがその渡り巫女は男が仕事に戻ったにも関わらずに尋ねてきやした。
「今朝から騒がしいようですが、なにかあったのですか?」
「ああっ、婿入りだよ、婿入り」
「婿入り?」
「そうだよ。この清水屋の旦那には一人娘がいるだけで跡継ぎがいやしねえ。だから他から婿を取って跡継ぎにしようとしてるんだよ。そして今日が婿入りの日、だからあんたにかまってる暇はありゃしなにんだよ」
「そうでしたか……」
「分かったならさっさと帰った、かえ……」
男が振り向いた時にはすでに巫女は姿を消しておりやした。
男は巫女が帰ったものだと思い仕事を続けやしたが、その渡り巫女、今度は裏にある勝手口に姿を現したのでございます。
「失礼します」
「なんだい、あんたは」
「渡り巫女でございます」
勝手口から台所に入ってきた巫女はそう告げるが、誰一人としてかまうものはいやせんでした。
そりゃそうでしょう。なんてったて婿様を迎える大事な日だ、それに清水屋ほどの大店になりゃあ来る客も数え切れないときたもんだ。
だから台所は戦場のような騒がしさで巫女にかまってる者など誰一人としていないのでさあ。
それでも巫女は帰らずにそこに突っ立てると、奥から清水屋の奥方が出てきやして、最初はいろいろと指示を出してたんだけど、巫女の姿を見つけるなりそちらに足を運びやした。
「あんたは誰だい?」
その日、何度目かの質問に巫女は嫌な顔を一つせず、丁寧に頭を下げやした。
「渡り巫女でございます」
「巫女? あぁ、それなら間に合ってるよ」
「いえ、違います」
「はぁ、何が違うんだい?」
「はい、私を花嫁様に会わせて下さい」
「あんた、お菊の知り合いかい?」
お菊っていうのは清水屋の娘でしてね、今回の花嫁様だ。
「いえ、始めてお顔を伺います」
「じゃあ、いったい何なんだい?」
「はい、これを花嫁様の懐に……」
巫女は背中の荷物を降ろすと引き出しから札を一枚取り出しやした。それを見ていた奥方はやっぱりかという顔をしやして、うんざりしながら答えるのでやした。
「悪いけど、行商なら他行ってやってくれ。家は今忙しいんだよ」
「いえ、お金は要りません。ただ、これを花嫁様の懐に入れて置いてください」
「はぁ、なんでそんなことをしないといけないんだい?」
「そうしないと花婿様が殺されてしまいますよ」
その言葉に慌しかった台所が一気に静まり返りやした。
そりゃあ、そうでしょう。今日は清水屋にとってこれ以上無い吉日。そんな日に不吉な事を言う巫女が現れたんですから、台所にいたやつらは皆冷水をぶっかけられたみていに震えあがってやした。
そして予想通りに奥方は烈火の如く怒りやした。
「あんたね! いきなり人の家に上がってなんて事を言うんだい。今日がどんな日か知らないのかい!」
「よく存じております。ですから、大事な吉日を血で汚さぬよう。この札を……」
「まだ言うかい、お前達、塩持ってきな、塩!」
「なんだ。何の騒ぎだ」
そこに現れたのが清水屋の旦那でやした。
清水屋の旦那は出てきてすぐに巫女の姿を見つけて見とれてやしたが、奥方から事情を聞くと同じく怒り出しやした。
「帰れ、帰れ! こんな日にお前みたいなやつを置いておくと不吉でならない! さっさと帰れ!」
「……分かりました」
さすがに清水屋の旦那にそこまで言われては、巫女も引き下がれずにはいられなかったのでしょうや。巫女は荷物をまとめると一礼だけして去っていきやいた。
去っていった巫女の後を台所の使用人達が不思議そうに見詰めていると、奥方がはっぱをかけやす。
「ほらほら! あんた達。さっさと用意するんだよ。早くしないと婿殿が着いちまうじゃないかい!」
「へっ、へい」
また台所に先程の忙しさが戻りやした。
なんとも不思議な巫女でしたが、清水屋には他にも不思議な人間がいやしてね。それが番頭の佐吉というやつでしてね。佐吉は若くして清水屋の番頭を務めるやり手でやしてね。
その佐吉はこの忙しい中で何も仕事をせずに、広大な屋敷の中庭で一人、ボーっと一本の木を眺めてるだけでやした。
「何をなさっているのですか」
佐吉は突然声をかけられても驚きもせず、ただ声をかけてきた人に振り向くだけでやした。
「……あなたは?」
「見てのとおりの渡り巫女でございます」
どこから入ったのか、今度は佐吉の前に現れやした渡り巫女。だが佐吉は巫女に興味を示さずに、また木を眺めるだけでやした。
巫女はおもむろに背中の木箱を下ろしやすと、その中から札を一枚どり出しやして、それを佐吉に差出やした。
「……これは?」
佐吉は差し出された札を手に取りやした。札は鳥居が描かれているだけで他には何もありやせんでした。
「この札を、今日一日手放さずに懐に入れて置いてください」
「何故?」
「そうしないとこの清水屋は潰れますよ」
さすがにその言葉に佐吉は目玉が飛び出るぐらい驚きやしたが、巫女は荷物を背負うと佐吉に背を向けやす。
「あっ、あの、何故、清水屋がそんなことに?」
「それはあんたの胸の内がよくご存知でしょう」
巫女はそれだけ言うと一礼して去って行きやした。巫女の背を見送った佐吉は札を懐に仕舞うと、また木に目を戻しやす。
なんとも不思議な二人ですが、この二人が出会っていなければ清水屋はどうなっていた事かわかったもんじゃありやせん。
そうこうしているうちに、清水屋に婿様が到着しやした。
その婿様を盛大に迎える清水屋。普通ならそこまで盛大にしなくてもいいでやすが、この縁談は清水屋にとっても大事な縁談でやんしたから、ここまで盛大に出迎えたのでありやしょう。
それもこれも全ては清水屋をもっと繁栄させるためでありやす。
そもそも今回の婿様、池屋の次男坊でしてね、仙太郎といいやす。その池屋っていうのは長崎の出島で商いをしておりやして、江戸を始め、京、大阪でも有名な貿易商でございやす。
そんな池屋と縁が持てるだけでも清水屋にとっては手広く商売が出来るというもでやして、だからここまで盛大に婿様を出迎えたのでありやしょう。
こうして婿様を始め、池屋一行は清水屋に入る事になりやしたが、ここで不思議な事が一つ。
池屋もこの縁談には力を入れてるみたいでやして、婿入りの荷物持ちやら付き人やらでかなりの人数が清水屋に入ったのですが、その中に何故か先程の渡り巫女の姿があり、清水屋の旦那を始め、奥方も巫女には気付かなかったのでありやす。
まあ清水屋にとって不吉な事を言った巫女の事などすでに忘れても不思議はありやせんが、それでも先程会った巫女に気付かなかったんですよ。
えっ、確かに、清水屋にはかなりの人数が入りやしたから巫女に気付かなくても不思議はありやせんが、それでも巫女が何故池屋一行に紛れ込んでいたのか、そいつは不思議でございやしょう。
けど巫女の事は一時こっちに置いておきやす。えっ、なら最初から言うな。お客さん、そこに触れるのはヤボというものでさ。
さて、婿殿も到着した事でございやすし、清水屋では婚礼が始まりやした。
といってもこの時代の婚礼は至って簡単でやして、やる事といやせいぜい三々九度だけでやしてね。それ以外は宴会でやした。
ですが起こっちゃならねえ事は、この三々九度の時に起きやした。
婿様が三々九度を終えて次は花嫁様の番になりやす。
仲人がお神酒を持って花嫁様に神酒を注いでる時、突然花嫁様の手が震えだして杯を落としやした。
だが異変はそれだけに済まず、花嫁様の震えは手だけに収まらずにとうとう全身が震えだしやした。
突然の事に清水屋の旦那と奥方は花嫁に駆け寄ろうとしやすが、突然凛とした声が響いて二人を止めやした。
「それ以上近づいてはなりません!」
そして末席の障子が勢い良く開きやして、あの渡り巫女が姿を現すなり、花嫁に向かって走り出しやした。
だが時すでに遅し、花嫁に現れた異変もその姿を現しやした。
花嫁は苦しがるように仰向けに仰け反ると胸の前が光出しやして、突如門が現れやした。現れた門はギギッと重い音を立てながら開きやして、完全に開き終わると門から黒い影が婿様に襲い掛かりやす。
隣にいた婿様は突然の事に腰を抜かしやして、とてもじゃないけどどうする事も出来やせんでした。そんな婿様に影が迫ると突然、婿様の懐が光りだして見えない壁が影を阻みやした。
そして影が壁に当たった事によりやして、影の動きが止まりその姿をはっきりと見ることが出来やした。
それは太い腕でやした。門から飛び出してきたのは丸太ほどの太い腕、そして巨大な手に鋭く伸びた爪が婿様を守っている壁を引っかきやす。
巫女は走りながら袂から札を取り出すと印を組やす。
「恐み恐みも白す、大直日神、その力を持って穢れを払いたまえ」
札が光りだすと巫女は太い腕に向かって札を放ちやした。
札は一直線に腕に向かって飛ぶとそのまま張り付くいて、腕は苦しむように天を掻き、門の内側からは人のものとは思えない叫び声が聞こえやした。
「み、巫女殿、これは!」
池屋の旦那は腰を抜かしながらも巫女に聞きやした。
「はい、どうやら先程言った通りになったようです」
「いっ、池屋さん、あんた、この巫女と知り合いなんですかい」
清水屋の旦那が怒鳴るように池屋に尋ねやしたが、池屋の旦那は首を横に振りやす。
「いや、清水屋さん、私共もここに来る途中に巫女殿とお会いしまして、何でもこのまま婿入りすると悪い事が起きるっていいますもんで、それでご同行いただいたわけでして」
「お、お前さっきの巫女だろう! 何の恨みがあってウチにこんなことするんだ!」
「これは私がやっているのではありません。花嫁様がやっている事です」
「お菊が!」
「嘘付くでないよ。あんたがお菊になんかしたんだろ!」
「そう思いたければ思っていただいて結構です。ですが、このままでは花嫁様が開けた鬼門は閉じる事が無いですよ」
「鬼門?」
「はい、人は誰しも己の内に鬼を飼っております。鬼門とは己の鬼を封じる門なのです。そして花嫁様は自ら鬼門を開けました」
「お菊さんが、なんで?」
「分かりません。ですが、このままでは花婿様が殺される事だけは確かです」
「仙太郎!」
池屋の女将さんが花婿様に近寄ろうとしやすが、巫女はそれを止めやす。
「巫女殿、このままでは仙太郎が!」
「分かってます。ですが今飛び出してはあなたも危険です。ここは私に任せてください」
「巫女殿! 仙太郎を、仙太郎を助けてください」
「はい」
巫女はまた札を取り出しやすと再び印を組やす。
「恐み恐みも白す、建御雷之男神、そのお力を札に宿したまえ」
すると札は一瞬にして剣へと変わり、巫女は剣を手に鬼の腕に向かって剣を突き立てやす。
剣は鬼の手の平に突き刺さると巫女はそのまま押し出しやして、剣を柱深くに突き立てやして、鬼の手を柱に繋ぎ止めやした。
「仙太郎様、今のうちに」
婿様は何度も頷くと四つん這いになりながらも、その場から離れようとしやすが、門からもう一方の腕が出てきやして婿様に襲いかかろうとしやした。
ですが再び見えない壁に阻まれやして、鬼の爪は壁を引っかくだけでやした。その間に巫女はもう一度剣を出しやすと、今度は鬼の手を床に繋ぎ止めやす。
「皆さん! 今のうちに別な部屋へ。この部屋は一旦封します!」
その言葉に、その場にいた清水屋と池屋の親類は一斉に部屋を飛び出しやして、池屋は腰を抜かした婿様と一緒に、そして清水屋は娘を心配する奥方を引っ張りながら部屋を後にしやす。
そして巫女と花嫁様だけが部屋に残ると、巫女は手で印を組むと開いた障子が一斉に閉まりやした。
それから巫女は無数の札をばら撒きやす。ひらひらと宙を舞っていた札でやしたが、巫女が別の印を組むと一斉に部屋中に張り付いて、部屋全面を札で覆いやす。
最後に巫女は一つだけ開いてる障子から部屋の外に飛び出しやすと、自らの手で最後の障子を閉めやした。けど、閉める際に巫女はしっかりと見やした。花嫁様の鬼門から鬼が顔を覗かせるのを。
最後の障子を閉めた巫女は再び印を組やす。
「恐み恐みも白す、櫛石窓命、その力を持って間を封じたまえ」
すると障子の下から門が一気にせり上がって来やして、障子が全て門へと変わり、門の全て硬く閉じられていやした。
「これで大丈夫ですが、この結界は時間稼ぎ、いつ壊れても不思議はありません。なので、これからの事を話す為に別の部屋に行きましょう」
巫女はそれだけ言うとさっさと別な部屋に行ってしやいやした。しかたなく巫女の後を追う清水屋と池屋の一行。
「こちらでいいでしょう」
巫女がそう言って着いた場所は、封印された部屋から程近い、清水屋と池屋が入って丁度いい、角の部屋でやした。
巫女に誘われるように部屋に入る清水屋と池屋。巫女が最後に部屋へと入り、一同に座るように仕草をしやした。それでやっと落ち着いたようで、清水屋はさっそく巫女に噛み付きやす。
「一体どうなってるんだ。おい、お前、知ってるなら早く話せ!」
「そうだよ、一体お菊がなんであんな目に遭ってるんだい!」
「まあまあ、清水屋さん」
「池屋さん、あんたは黙っておいてくれ!」
さすがにそこまで言われたら池屋の旦那も嫌な顔をしやしたが、清水屋の方が事態が深刻なのを察しやしてぐっと堪えやした。
一方の清水屋は大事な一人娘があんな事態になっちやったんだ、そりゃあもう気が気じゃないでやしょ。
だから清水屋は巫女に詰め寄ったんでやすが、肝心の巫女は何かを考えてるように黙んまりだ。そんな巫女に清水屋の怒りは溜まるばっかりでやした。
そして巫女が黙り込んでいるもんだから、怒りの矛先はとうとう巫女を連れ込んだ池屋に向けられやした。
「だいたい池屋さん、なんでこんな得体の知れない巫女を連れ込んだんですか! おかげでお菊があんな目に遭ってしまったじゃないですか!」
これには池屋の旦那も黙ってはおられやせんでした。
「何言ってるんだ清水屋さん! 巫女殿にご同行頂いたから仙太郎が無事で済んだんじゃないですか。もし巫女殿を遠ざけていたら、今頃仙太郎はお菊さんに殺されてますよ!」
「いいや違う、あんたがこんな巫女を連れてきたから、こんなことになったんじゃないですか!」
「何言ってるんですか。巫女殿は先程言ったじゃないですか、これはお菊さんがやっているって!」
「この巫女を信じるんですか!」
「ええ、そうですとも。なにしろ仙太郎を救ってくれた命の恩人ですからね」
「あんたはこの巫女に騙されてんだよ! そんな事も分からないでよく今まで商売が出来ましたね」
「いいや、私の目は確かだ。巫女殿は充分に信頼が置けるお人だ。そんな事も分からないようでは清水屋も終わりですね」
「なんだと!」
「なんですか!」
こうなって来てはもう商売も何もあったもんじゃございやせん。ただそこにあるのは、人同士の醜い争いごとだけでやす。
清水屋と池屋の旦那方は取っ組み合いの喧嘩を始めやして、清水屋の奥方はただ泣くばかり、池屋の女将さんは婿様が無事に安心して泣くばかり。
こうなって来ては収拾がつきやせん。
と、そんな時、鬼の咆哮が鳴り響き、それは地震でも来たかのように屋敷を揺らしやした。
さすがに鬼の咆哮には旦那方の喧嘩は止まり、奥方達は震えるばかりでやした。
そしてやっと、巫女が口を開きやす。
「どうやら、あまり時間が無いようですね」
やっと口をきいた巫女に池屋はすがりやす。
「み、巫女殿、早くあの化け物を退治してください」
「そ、そうだな。まずはあの化け物を退治することが優先だ」
少しは落ち着きを取り戻したようで清水屋の旦那も同じ事を言いやすが、巫女は頭を横に振りやした。
「それは出来ません」
「な、何故ですか巫女殿」
「花嫁様の鬼門から出現した鬼は花嫁様の心と深く繋がっております。ですから、あの鬼を退治するということは花嫁様の心を壊す事と同じ、壊れた心はもう二度と治る事は無いでしょう」
「じゃあなんだい、あの鬼を退治しちまったらお菊は……」
「廃人と化すでしょう」
「そんな……」
絶望に沈む清水屋の奥方、清水屋の旦那はそんな奥方をそっと支えながら巫女に懇願しやす。
「分かった。金なら言うだけ出す、だからお菊を助けてくれ」
「先程も申しましたが、お金は一切結構です」
ここまではっきりと言われちゃあ清水屋の旦那は言葉に詰まりやした。
まあ金というのは商人にとって最大の武器で切り札でやしたが、それが通じないともうどうにもする事はございやせん。と、そんな時に清水屋の旦那はあることに気付きやした。
「そうだ。札、さっきお菊の渡そうとした札でなんとかならないか」
「あれは鬼門を封じるお札です。鬼門が閉じている時なら開かないように封じることも出来ましたが、鬼門が開いてる今ではまったく役に立ちません」
「ならどうしろというんだ」
「……待ちましょう。花嫁様の鬼門を閉じる事が出来る、最後の一石を」
「最後の一石?」
「はい、それしかありません。花嫁様の心を静める、最後の一石を……」
それから巫女は再び黙んまりに戻っちやいやして、部屋に居る一同も黙り込みやして静寂が部屋を包みやした。
「清水屋さん」
静寂が包む中でそれを破ったのは池屋の旦那でやした。
「なんですか」
清水屋の旦那はぶっきらぼうに答えやす。
「今更こんな事を言うのもなんですが、もしかしてお菊さんはこの縁談を快く思ってなかったのでは?」
「何故、そう思うのです」
「いやね、あの化け物がお菊さんの心なら、もしかしたらこの縁談を壊そうとしてたんじゃありませんか」
「……そんなことはない。この縁談はお菊も承知していた事、今更文句が出ようも」
「いや、そうでしょうが、もし心の奥底に別に想ってる人がいたら、それが原因でこんな事になったと思いませんか」
「……」
「確かに、この縁談を持ち込んだのは私らですが、もしそうならきっぱりと断ってくれてもよかったのですが」
「そんなことはない!」
「清水屋さん?」
清水屋の旦那は明らかに動揺してやした。どうやら心当たりがあるようで、それからの清水屋の旦那は落ち着きが無くなりやして、そわそわとし始めたんでやすよ。
そして清水屋の旦那は急に立ち上がると、部屋を後にしようとしやす。
「どちらに行かれるのですか?」
巫女が聞くと清水屋の旦那は怒鳴るように答えやした。
「厠だ!」
「それなら封印された部屋は通らないようにお願いします。下手に刺激を与えればあの結界は簡単に崩壊しますので」
「分かってる!」
部屋を出た清水屋の旦那の足音が遠ざかるのを確認しやした巫女は、袂からおふたを取り出しやすと、それを部屋に居る全員に配りやした。
「巫女殿、これは?」
「決して手放さないようにお願いします。それを持っている限り、鬼の攻撃は防げますので」
「何故私達も?」
「どうやら動き出したようです。最後の一石が……」
部屋に居る全員がワケが分からないって顔をしやしたがね、とりあえずお札を持っていれば安心な事は確かだってことで、全員お札を懐に仕舞いやした。
それからまた静かになりやしたが、その静けさは突然の鬼の咆哮で打ち砕かれやした。
そして次に門を打ち破る怒号がしやして、部屋にいた全員は鬼の脅威に震え上がりやした。
「皆様はここを離れないよう」
巫女はそれだけ言いやすと、一気に障子を開けて廊下に飛び出していきやした。
一方、清水屋の旦那はと言いやすと、命の危機に瀕してやした。
なんせ目の前には花嫁様が仰向けに横たわりながら宙に浮いてやして、胸の上に開かれた鬼門からは鬼の上半身が出ておりやす。そして赤い鬼の瞳が清水屋の旦那を見ているもんだから、清水屋の旦那は腰を抜かして座りながらずるずると後ろに下がりやす。
「お、お菊、儂だ。分からんのか」
ですが鬼には清水屋の旦那の言葉が届かないようでやして、咆哮を上げやすと清水屋の旦那に爪を振り下ろしやす。
「ひっぃ!」
情けない悲鳴を上げて目を瞑り、目の前の恐怖を見ないようにする清水屋の旦那でやしたが、そんな清水屋の旦那を庇うように一人の人影が覆いやす。
普通なら人一人ぐらいなら、鬼はいとも簡単に殺す事が出来やしょうが。何故か清水屋の旦那を庇った人は婿様と同じように、見えない壁に助けられやした。
そして後ろを振り返り清水屋の旦那の無事を確認しやす。
「旦那様、大丈夫ですか」
「おおっ、佐吉か、助かった」
「お怪我は?」
「大丈夫だ。それより佐吉、お前巫女から何か貰ったか?」
「えっ、もしかしてこれでございますか」
佐吉が懐から取り出したのは、間違いなく先程巫女が使った札と一緒の物でやした。
「そうか、それで……」
「旦那様、とにかくお嬢様から離れないと」
ですが清水屋の旦那はそこから動こうとはしやせんでした。それどころか佐吉の腕を掴んで泣いてらあな。
「佐吉、すまねえ、儂は、儂はこの清水屋をもっと、大きくしたかったんだ」
他人が聞いたら何を言ってるか分からねえが、佐吉には何のことだかしっかりと分かってるようだ。
「旦那様……分かっております。ですから今は」
「違うんだ佐吉、お菊が、お菊がこうなったのは全部儂の所為なんだ」
「旦那……様」
そして清水屋の旦那は花嫁様に向かって泣きながら口を開きやす。
「お菊、お菊にもすまねえことをした。さっき池屋さんに言われてやっと気付いたんだ。すまねえ、儂は、儂は」
だが鬼には清水屋の旦那の言葉は届かねえようで、腕を振り上げてまた清水屋の旦那に爪を振りかざそうとしやす。
と、その時でやした。
「りゃあぁぁぁ───!」
掛け声と共に何枚もの札が鬼の腕に張り付きやして、それが一斉に爆発したんですよ。
「大丈夫ですか?」
そして巫女が佐吉の前に踊り出やす。
「あなたは、さっきの」
「佐吉さんですね」
「あっ、はい」
「手伝ってください。鬼を鬼門の内に戻します」
「えっ……」
「それから清水屋さん、あなたも手伝ってください」
「今更、儂に出来る事なんか」
「あります。あなたが今思っている事を花嫁様に伝えてあげてください。そうすれば花嫁様のお心は乱れて鬼を戻す事が出来ます」
「お前……」
清水屋の旦那が巫女を見やすと、巫女は初めて笑みを浮かべて頷きやした。それを見た清水屋の旦那も、なんだかどうにか出来る様な気がしやして力強く頷きやす。
「では、これを」
巫女は取り出した札を清水屋の旦那に渡しやす。
「鬼の相手は私がします。佐吉さんは鬼の力が弱まったら自分の想いを花嫁様に言ってあげて下さい。そうすれば鬼を戻す事が出来るはずです」
「あの、自分の想いって何ですか?」
「先程会った時にも申し上げました。全てはあなたの胸の内にあると」
「えっ?」
「来ます! 下がってください!」
鬼の爪が巫女に迫り、巫女は鬼の爪をかわすのと同時に札を放って鬼の気を自分に持って行きやす。
鬼は完全に巫女を敵と見なしたようでやして、巫女に向かって両の爪を振るいやすが、巫女は鬼の爪を身軽な動きで避け続けやす。
それからは電光石火の攻防を繰り返す巫女と鬼。そして清水屋の旦那が頃合を見て花嫁様に大声で語りかけやす。
「お菊―! すまねえ、儂は、この清水屋を大きくしたいばっかりに、お前と佐吉が惚れあってる仲だと知りながら、お前達を引き裂いっちってしまった」
「旦那様……」
「許してくれ、許してくれお菊、お前がそこまで佐吉に惚れてるたあ知らなかったんだ。この縁談はきっぱりとお断りする。池屋さんもそれでいいと言ってくれた。だからお菊、許してくれ、許してくれ」
そして清水屋の旦那は佐吉の手を取りやす。
「佐吉、お前にもすまねえ事をした。儂はお前に店を任せてもいいと思っていた。いや、お前達の仲を知ってからはそのつもりでお前にいろいろと仕込んできた。それを、この縁談がもたらす利益に目が眩んで、儂は全てをぶち壊してしまった。許してくれ佐吉」
「旦那様、いや、旦那様、商人なら店を大きくする事は当然です。私は清水屋のためなら身を引く覚悟でした。それが、お嬢様の気持ちをしっかりと私が受け止めていれば、こんな事にはならなかったでしょう。全ての責任は私にあります」
「佐吉……すまねえ」
「では旦那様、この清水屋、全て私に任せてもらえましょうか」
「ああ、頼めるかい、佐吉」
「はい」
佐吉は頭を下げやすと、立ち上がって花嫁様の元へ向かおうとしやす。
「佐吉?」
「では旦那様、お嬢様を迎えに行ってきます」
「佐吉!」
佐吉は駆け出すと激戦を繰り返している巫女と鬼の中に突っ込んで行きやす。
途中で空振りをしやした鬼の手が佐吉に直撃しやすが、佐吉はそんなことでめげる事はなく、もう一度花嫁様に向かって走り出しやす。
そして今度は無事に花嫁様の元へ辿り着き、花嫁様の手を取って抱き寄せやす。
「お嬢様、聞いてのとおり旦那様の許可を貰いました。これからは私がお嬢様のお傍にいます。この清水屋を守っていきます。もう二度と、離したりなんかしません」
佐吉が更に花嫁様を抱き締めやすと、鬼の動きが急に鈍りやして巫女は一気に攻撃に出やす。
「はぁっ!」
巫女は大量の札をばら撒きやすと、それが全て鬼の頭に張り付きやして爆発しやす。その爆発の勢いで鬼が少しずつ鬼門の中に押し込められて行きやした。
そして巫女は一気に決めにかかりやす。
「恐み恐みも白す、櫛石窓命、そのお力を持って鬼を鬼門の内に戻し、硬く封じたまえ」
巫女の手にした札が強く光り出しやすと、鬼は苦しみの声を上げなら鬼門の内にその姿を隠して行きやす。
最後に鬼の手が苦しみながら鬼門の内に戻りやすと、鬼門は勢いよく閉じやして札が貼り付けられやした。
そして鬼門が消えやすと、宙に浮いてた花嫁様は佐吉の腕へとその身を沈めて安らかな寝息を立ててやす。
「お嬢様……」
佐吉は腰が砕けたように座り込んで、そこに清水屋の旦那も駆け寄ってきやす。
「お菊、お菊」
「旦那様、大丈夫です。今は安らかに眠っておられるようです」
「そうか、佐吉、すまなかった」
「旦那様、お気になさらないでください。全ては丸く収まったのですから」
「ああ、そうだな」
「巫女殿も、あり……」
佐吉が巫女に例を言おうとしたら、すでに巫女の姿はその場にありやせんでした。
それからしばらくして、清水屋から出てくる巫女に町人が店の様子を聞いてきやした。
「なっなっ、ちょっといいかい。清水屋は婿入りだろ、なんか騒がしかったけど、どうなったんだい?」
「婿入りは取り止めになったそうですよ」
「そうなのかい! なんでここに来てまた?」
「大事なものに気付いたからですよ」
「はぁ! それってどう、ちょちょ、どこいくんだい?」
「私に役目は終わりましたから」
「へっ?」
その後、清水屋の旦那となった佐吉は巫女を探しやしたが、巫女が見つかる事はありやせんでした。
いかかがございやしたでしょうか。えっ、その巫女は一体なんだったんだ? そんなことは私は知りやせんよ。
私に言えることはただ一つ、その巫女が清水屋を救ったということでありやすよ。
ではご静聴、ありがとうございました。
そんな訳でお送りした人中鬼門録ですが、実はこれはお題小説であり、中にはこんな条件がありました。一万文字以内、……一万字超えてるーーー! でも、まあ、いっか、ということですでに諦めています。……ごめんなさい、本当に。
一応謝った事ですし、ちょっと本文について触れておこうと思います。
まず、本文に多く出た櫛石窓命、これは新道の門の神様です。したがって鬼門を封じる事が出来るわけです。
次に建御雷之男神、これは雷の神様として有名ですが、剣の神様の一面も持っています。ですから、本文で巫女が札を剣に変えることが出来ます。
最後に大直日神、これは穢れを払う神様です。鬼は人の心の穢れであるため、大直日神の力が宿った札を貼られると鬼が苦しみます。
さて、こんなもんですね。
ではでは、ここまで読んでくださりありがとうございました。そして他の作品もよろしくお願いします。
以上、全て語り口調という新しい事に挑戦したが、失敗したかなと思ってる葵夢幻でした。