2.秋
ブッキのオヤジは動物づきあいが嫌いだった。
「ほかの動物とつきあうのは、めんどうだからな。ブタとだって!」とよく言っていた。だから、オヤジはタカンダ町の中心地、店の集まっている所には家を作らなかったのかもしれない。
そしてそれはブッキにとっても良かったのかもしれない。ブッキも動物づきあいは苦手だったし、今、ボウボウにあるたった一軒の家にたった一人で住んでいるけれど、それでちっとも不自由は感じたことはなかった。
秋になると、マチカネ坂とブッキの店のあたりは、紅葉の木々で真っ赤になる。キタヤマはタカンダ町よりも一月も先に秋を迎えるのだ。キタヤマのある所は真っ黄色。オレンジ色、茶色にもなる。でも、ブッキの作るぶたまんじゅうの湯気の色は、いつもかわらぬ白のモクモクだ。
タカンダ町のほうから、キタヤマに上るマチカネ坂は一本道で、ひょろひょろしている。ある夜強い風がゴーゴーと吹き荒れて、その次の日にそのひょろひょろ道が落ち葉で埋まって見えなくなった。
その日、店を閉めると、ブッキは店に続く道を、裸足で踏み分けていた。
紅葉した葉が落ち、それがクッションのように道に積もっている。それをがさごそを踏み分ける。意味もなく、わけもない。
「こんなことやって、何になる? でも、がさごそ音がするとやめられねえ」
葉っぱにまじっていろいろな形の木の実が落ちている。いろいろな木のどんぐりたち。
ブッキの足は二つに割れていて、その蹄にドングリが刺さるとたいそう痛い。
「ちぇっ! こいつめ!」
と、ブッキはそのどんぐりをつまんでじっと見る。それはしいの木の少し細い形だった。
ブッキはピンとひらめいた。
これを使わない手はないだろう。
「こんなにどこから落ちるんだ。毎年毎年、変わることなく、ただ落としてなにになるんだ」
ブッキは厨房から、豚まんの粉を入れる大きい布袋を二枚引っ張り出した。
クヌギのちょっと丸いドングリやら、コナラ、ミズナラ、カシワ、カシの仲間、シイの仲間…。いろいろな木があるから、いろいろな形のドングリがある。小さい山栗も山のように落ちている。ブッキは足を傷つけないように、イガから器用に実を取り出した。
そういう木の実をどんどん布袋に入れて、ズルズル引きずりながら、ぶつくさ文句をいいながら、どんどん行くと、落ち葉がきれいに片づいた、まっすぐな道がにたどりついた。
ふと顔を上げるとそこはタカンダ町への入り口で、そんな所まで下りて来てしまっていた。そのあたりの木々はまだ緑が生き生きとしている。
「ったく、この山を登るのはまた一苦労だ。おまけに重たいこのドングリの袋! ああ、まったくついてないや、オレは…」
タカンダ町の入り口には、甘くなんともいえない香りが漂っていた。それはキタヤマあたりではあまりなじみのない匂いだった。
大きな屋敷に沿って、オレンジ色の小さい花をつけた木が並んでいて、それがぐるりと屋敷を囲んで塀のようになっていた。タカンダ町ではまだ紅葉は始まっていなくて、木の緑が濃く重なっている。匂いはその木の花から漂っている。
「あら、ブッキめずらしいわね。こんな所まで来るなんて」
やぎのメイ子が道を掃除しており、道に落ちたオレンジ色の小さい花が集められていた。マチカネ坂までのきれいな道は、メイ子が掃除したらしい。
「ここ、おまえんち?」
と聞くと、メイ子はこくんとうなずいた。
「これなに?」
と、ブッキはオレンジ色の花を指さして聞いた。
「キンモクセイ。じいちゃんのじいちゃんがね、どこかから枝をもらってきて育てたって話」
「ふうん」
メイ子は、ブッキの引っ張っている大きな布袋を見て、不思議そうに首を傾げた。
「それなに?」
「道に落ちてたごみさ」
「ふうん。ブッキも掃除してたのね」
それには答えず、ブッキは集まった花をじっと見つめていた。
「そのゴミもオレ、持っていってやるよ。よこしな」
メイ子はぽかんと口を開けた。
「ほら」
ブッキはもう一つ、白衣のポケットにつっこんであった布袋をメイ子の目の前に差し出した。
「え?」
ぽかんと立ちつくしているメイ子を尻目に、ブッキは花びらのくずを袋に詰め始めた。
「こんどまんじゅうが欲しかったらな。この花持って来な。換えてやるよ」
ブッキはこの花の匂いでぴんときた。そしてこれを使って試してみたくてたまらなくなっていた。メイ子がぽかんとしているまま、くるりと背を向けると、ずるずると大きい袋を二つ引きずって、さっさとマチカネ坂を上り始めた。
「ねえ! ブッキ! 手伝おうか!」
メイ子が後ろから呼びかけても振り向きもせず、ブッキはどんどん坂を上って行った。
「ちぇっ! まったく、こんな花見つけなけりゃ、袋は一つですんだのに! オレはまったくどうしようもない! 自分でやっかいを拾って来る。そんなブタさ!」
一歩一歩に恨みを込めて、ブッキは店に急いだ。まだ明るいけれど、昼ほどの陽の強さはない。
「これじゃ、日に干せねえな」
ブッキはブツブツと言いながらも、あれこれ考えに考えていたのだ。キンモクセイの花はもうしおれて落ちたものだから、日に干してパリパリにしようかと。
「まったく…。すぐにやってみたくてたまんねえ。明日まで待てねえ! まったくオレはついてないよ」
厨房の広い調理台の上に、ブッキは花をぶちまけた。甘い良い香りがぷーんと漂う。花の中には枯れ葉もだいぶ混じっている。それをていねいに分けていく。
「まったく、メイ子はだらしねえな。こんなの一緒になんでもかんでも集めやがって」
頼んでやってもらったわけではないのだから、しょうがない。でも、そんなふうに、何でもかんでもほかの動物のせいにして文句を言う、ブッキはそんなブタなのだ。
台の上にきれいに枯れ葉の山と花の山ができた。
ブッキは大きなフライパンを出すと、花をから煎りしていった。あまい香りに、香ばしい香りが加わっていく。そうして、それを冷たい石の台の上に広げて冷ましてゆく。
「こうしておけばな、花を取りにいかなくてもしばらくは使えるからな」
ブッキは得意げにオヤジの写真の方を見上げた。
今、オヤジが生きていたら…。ブッキがいろいろ考えついたとしても、オヤジには決してブッキは何も言わなかっただろう。
「もうなんだって、オレの好きなとおりにできる。オヤジに文句も言われずにな」
そう思って胸を張ろうと思ったが、なんだか寂しい気がする。そんな気持ちを振り払うように、今度はドングリの袋を板の台の上にぶちまけた。
枯れ葉も山栗も混じっている。それをていねいに分けていく。
小分けにしたドングリの山が十山ほど、山栗の山が十ほどできた。枯れ葉の大きい山も一山できた。
まずブッキはドングリを粉ひきの石臼で殻ごとひいてみた。こげ茶の殻も混じったどんぐり粉ができていった。
山栗の方はまんじゅうを蒸すせいろにざらざらと入れて、蒸し始める。
「ほらな。こういうのは見てわかるんだ。何をどうやったら、どんなふうになるかっていうのはね」
実際、ブッキの頭の中には、次に何をどうするかということが、順々に並んでいくのだ。それをその順序に試したくて、うずうずしてくるのだ。
ブッキはできたドングリ粉を手で触ってみた。ちょっと湿っていて、ぼてぼてしている。
ブッキは豚まんじゅうの粉が入っている棚を見上げた。今年の夏、いつもと違ったまんじゅうを作ったせいか、作りすぎたのか、いつもの年よりも豚まんじゅうの粉が減ってきている。
小麦はいつも春にまいて、取り入れる。冬用の小麦の種類もあるらしいが、今までは一年に一度しか収穫していなかった。
「この粉も使って作ればな、まんじゅう粉の節約になるぞ。まだまだ作れるぞ! なんたって、どんぐりも山栗もまだまだ山の道にいやというほど落ちてるんだからな」
ドングリ粉とまんじゅうの粉を半分ずつにして、いつもの要領で恨みを込めながら、こねて、こねて、こねればいいだろう。
山栗は皮を取り、つぶしていく。そして枯れ葉はから煎りして、粉々にしていった。これも香ばしい匂いがしてくる。枯れ葉のフレークはできあがったまんじゅうの皮の外側にまぶすつもりだった。
外側の枯れ葉は香ばしく、少し固めでサクサクする。その内側はただの白まんじゅうよりはぼってりしていて、モサモサとした歯触りの新しいまんじゅうになるだろう。
ブッキには、何をどれくらい混ぜたらいいのか、手で触ればなんとなくわかってくる。それがどんな口あたりになるのかも、食べる前からだいたい想像がつく。なぜわかるのかはわからない。今までもまんじゅうをこねていると自然に頭に浮かんできていたのだ。
ふうっと息をついて、ブッキの手が止まったとき、もう外には星が輝いていた。
「ちぇっ! いつもこんなだ! 働いて働いて、気がつくともう夜。ほかになーんにもできやしねえ。夕飯さえ、食ってねえ」
ブッキは自分の腹をさすった。
「栗を蒸して、味見しただけだ。それだけだから、何も食ってないってわけじゃない。そうだろ、オヤジ?」
ブッキは恨めしそうにオヤジの写真を見た。オヤジはいつものように難しい顔で、じっとブッキを見下ろしていた。
次の朝も一番乗りはもちろんケイコばあさんだった。ブッキが用意した新しいまんじゅうの名前を見つけて、ケイコばあさんの目がきらりと輝く。
「おやおや! 秋の木の実・木の花まんじゅう。新しいのだね。秋のキタヤマみたいなまんじゅうだね。それも入れておくれよ」
ケイコばあさんの声はうわずって、ケケケと笑う。
「ふん、まったくすぐに目をつけやがる。まったく図々しいったらありゃしない」
相手には聞こえない絶妙のタイミングで文句を言うと、ニコリともせずにブッキはまんじゅうを竹の皮に包んで渡した。
「ありがと」
と言うそのケイコばあさんの後ろにはまた例によって、動物の列。
「け! オレが一生懸命山のようにまんじゅう作っても、すぐになくなってしまう。作る時間は大変なのに、なくなるのは一瞬さ」
その日、店頭に並んだ秋の木の実・木の花まんじゅうは、見た目も食べた感じも白まんじゅうとは違っていた。どんぐりの皮のつぶが均一に混じっている。噛むとサクッとして、その内側のすこし荒い生地の歯触りがモサモサとおいしさを引き立てる。
二つに割ると、山栗のあんに甘いキンモクセイの香りが、ふわっとわき出てくる。皮の香ばしさと栗あんの甘く、ぽっくりした味わいが、バッチリと合っていた。
いつもの白まんじゅうと秋の木の実・木の花まんじゅうは、飛ぶように売れていった。最後の客はやっぱりネコのコタロウだった。
ブッキは店をしまい、休まずに厨房を片づけ、きれいに磨き上げた。すっかり厨房が片づいて、やれやれ、と背筋を伸ばして見ると、オヤジの写真の横に上げた、秋の木の実・木の花まんじゅうが一つぽつんと残されていた。
ブッキはそれに手をのばすと、二つに割ってみた。
もうとっくに冷めてしまったけれど、ブッキの作った豚まんの皮はまだねっちりと弾力がある。それを口に含むと、かわいいキンモクセイの花の垣根が思い浮かんだ。ブッキはしばし目をつぶって、大きな鼻でくんくんとその匂いをゆっくりと味わってみた。
「ブッキ! ブッキ!」
ブッキははっと我にかえった。裏口の戸をメイ子が激しくたたいていた。
「ちぇっ! せっかくゆっくりしていたのに! いつもこうさ! メイ子はうるさい、ブタを休ませない、そういうヤギさ」
ブッキはしぶしぶ勝手口を開けた。
メイ子は息をはずませ、大きな袋を一つ引きずっていた。
「ね! 今日、じいさんが買ってきた、秋の木の実・木の花まんじゅうって、とってもおいしかった! 秋の山の中をずっと歩いて、町の入り口にたどり着いた…。そんな味だよね。ほっとするし、サクサク、モチモチした皮がおいしくて、ポクポクしたあんがおなかにたまるよ!」
メイ子は目をきらきらさせて、袋を差し出した。
「木の花ってこれね。キンモクセイ! はい! 今年はもうこの花の時期はおしまい! だからこれが最後の花だよ」
ぼけっとメイ子を見つめるブッキの手に袋を無理矢理握らせて、メイ子はスキップしながらマチカネ坂を下りて行った。
「何だ? 何だって、あんなにのんきなんだ? こんな夜だっていうのに! オレはこんなに苦労をして、いろいろ考えてやってるのに、自分が食うことしか、考えてない! そんなヤギさ!」
そう言いながら、ブッキは口の端を少し上げた。それを自分で認めるのはいやだったが、なんだか少しうれしかったのだ。
「ちぇっ、このまんじゅうがおいしかった、ってのはほんとうだもんな。しょうがないさ。喜んだって」
ブッキが明日のための用意を始めると、今度は屋根をたたく者があった。そして、そのたたき方には覚えがあった。
「ちぇっ。また来たのか。あの二人連れが…」
ブッキはブスっとふくれて、外へ出た。外はもうとっくに真っ暗になっている。
ブッキが裏戸から店の方へそっと回り込んで屋根を見上げると、そこには大きな黄色い光が二つ、その上に少しぼんやりした黄色の小さい光が二つあった。そう、オヤジが亡くなった時にもこの光が真夜中にやって来たのだ。
それでも、改めて見るとまたぎょっとした。その黄色い四つの光がブッキの方をさっと捕らえたからだ。
その光はだんだんブッキの方に近づいてきて、家の裏口から漏れる光の中にその光が入ってくると、その正体がはっきりと目の前に現れた。
大きなフクロウの上に小さいモモンガが乗っかっている。
オヤジが亡くなった夜にも、そうやってこの光はやってきて
「夜分にすみません。わたくし、こういう者です」
と、羽をブッキの方に伸ばしたのだ。羽の先には名刺があって「夜光新聞 記者 袋田宝介」と書いてあり、
「上がカメラマンのモモンガ、飛田百太郎です」
と、ホウスケの上からモモタロウが名刺を落とした。この新聞は動物界ではたった一つの新聞で、ブッキの所にも届いてはいるけれど、オヤジの死亡記事が出てからははまんじゅう作りに忙しくて、ブッキはちっとも読んだことがなかったのだった。
「いやあ、すっかりごぶさたしておりました。また取材にまいりました!」
「なんだって、オレが新聞なんかと関係あんだ?」
ブッキは面倒くさくて、渋面をした。
「夏の始めからずっと噂でしてね。豚田豚饅頭店に新しい味が加わったというのは。それで取材に来てみたわけです」
ホウスケの目は電気のように光って見えるけれど、まぶたを閉じると、まったく目がどこにあるのかわからなくなる。
ブッキはこのおかしな二人連れをしげしげと見つめた。
「じゃあ、笑ってください」
と、上の方からモモタロウの声がした。
ブッキが見上げてみると、いつの間にやら、モモタロウが家の屋根に上がっていて、ブッキの方を覗いている。そしてやにわに滑空すると、同時にぱっと明るく光が瞬いた。それはモモタロウの持っていたカメラのフラッシュで、ブッキを驚かせた。
「なんでも父上は、豚まんじゅうの中には何も入れなかったのに、ブツタロウさんはいろいろ工夫をなさって、長雨虹まんじゅう、秋の木の実・木の花まんじゅうなど大変な人気だそうですな。いやいやお一人だというのに、大変なものです」
「そういえば…、おまえら、うちのまんじゅうを食べたことあるのか?」
朝、店に並ぶ顔はだいたい知っているが、この二人を見かけたことはなかった。
「いやあ、わたしども新聞記者とカメラマンですからね。噂だけです」
大した話もしていないのに、ホウスケはなにやら、スラスラとメモを取っている。いったい何を書いているのだろう。受け答えも変だ。ブッキは返事ができずに、じっとホウスケの翼の先を見つめた。
「なんせ、私どもの活動時間は夜中ですからね。もうとっくにまんじゅうは売り切れになっているという、そういうわけなのです。ホホホホホ。でも、取材にはぴったりの時間ですよ。だって、みなさん家にいるし、もう寝るだけなんですから! ホホホホホ」
ブッキはあきれて、ホウスケをただ見つめた。
「夜光新聞ではですね。夜のうちにたくさん新聞を作りますから、朝にはもうできあがっておりまして、キジバトやらカケス、カラス連中が朝早くからどんどん新聞をばらまきます。ですからまんじゅうを買いに並んでいる暇などないわけなんです。よく考えれば、おわかりだと思いますが…。ホホホホホ」
「はい、また笑って」
モモタロウは飽きもせず、また屋根に上ったようで、光とともに滑空してきた。
「どうです、父上が亡くなって、ブタ一人で作るというのは、そりゃ忙しいというものでしょう?」
ブッキは首を傾げた。
「はい、もう一度笑って!」
また、モモタロウが屋根に上がっていて、滑空する。
「朝から晩まで豚まん作り。働き者のブタだというのは町の噂ですよ。季節ごとのものを生かしてまんじゅうを作るとは、これまたグッド・アイデアですな」
よくしゃべるフクロウだが、スラスラと良く書くフクロウでもある。
ブッキはとにかくその翼の先のよく動くペンに見とれていた。
「では、最後にもう一枚行きますよ! はい笑って!」
モモタロウは、また屋根に上り滑空。
「これは、これはお忙しい時間に大変失礼いたしました。これからこれをさっそく記事にしまして、明日の新聞の特集にします。大変だ、大変だ。急がないと大変だ。ほらヒタ君、早く帰らないと間に合わないぞ」
モモタロウは大きいカメラを大事そうに抱えて、ホウスケの頭によじ登り、ちょこんと乗っかった、そして、今度はホウスケがモモタロウを載せたまま重たそうに屋根まで上った。屋根に上るとまた大きな黄色い光二つと、ぼんやりとした小さい光二つになった。
「それでは失礼。さあ、忙しいぞ! 急がなくちゃ。忙しい、忙しい」
そう言うと、光は山の下の闇の中に飛び去った。ブッキはあきれ顔でそれを見つめていた。
「なんだ、あいつらは…。何も答えもしなかったし、一度も笑いもしなかったのに。だいいち、一番忙しいのは、このオレだ!」
ブッキはブウっとふくれると、厨房に戻って、またまんじゅうの仕込みを始めた。
「まったくほかの動物のことはわかりゃあしねえ。ひまと忙しいの意味もわかっていねえ。変なフクロウとモモンガさ」
次の朝、明るい光の輝く朝に「夜光新聞」が届いていた。いつもだったら、ブッキは目もくれずに豚まん蒸かしに忙しい。新聞は読みもしないで、厨房の道具をしまう時に包んで使っている。でも、昨夜のことが気になって、ブッキは新聞を手に取った。
『特集・豚田豚饅頭店』という見出しの横に、口をあんぐりあけて、上を見上げているブッキの写真が載っていた。
『夏の始め号で豚田仏之助氏の訃報をお伝えしたが、氏の一人息子、仏太郎氏がまんじゅう作りに励んで、豚田豚饅頭店を切り盛りしていることをご存じだろうか。ところはキタヤマの登り口、マチカネ坂を上がりきったボウボウである。キタヤマからのモクモク湯気は誰しもが毎朝見上げて、豚まんじゅうのできるのを楽しみにしている。
今まで、仏之助氏は豚肉の入った豚まんじゅうは、豚まんじゅうに非ず。豚が作ってこその豚まんじゅうだと言っておられた。その言葉どおり、まんじゅうの中には何者もの肉も入っていなかったのである。
ところがである! 肉でなくても良かったのだ! ここに気が付いたのが息子の仏太郎氏の偉いところなのである。夏に季節の味を生かした、長雨虹まんじゅうを発表してから、秋には秋の木の実・木の花まんじゅうを発表。精力的な活動をしておられる。
毎日、豚まんじゅうのための仕込み、作業、掃除、なにからなにまで仏太郎氏一人でこなすのであるからして、これは大変な労力である。その労力のかいがあって、味の良いまんじゅうができるというわけなのである。
残念ながら、当新聞の記者およびカメラマンはともに多忙により、また活動時間の違いにより、まだその味わいには触れていない。だが、噂だけでもそのおいしさは十分に伝わってくるというわけなのである』
前置きだけで、こんなに長い。ブッキはふうっと息を吐いた。
その先には、記者がブッキを訪ねた様子が書いてあるが、そんなことまで読んでいたら、豚まんじゅう作りの時間がなくなってしまう。ブッキが答えもしないのに、いったいこんなにたくさん、何が書いてあるのか気になったが…、ブッキは、とりあえず新聞をオヤジの写真の横に置いて、あわててまんじゅうの蒸かし作業に移った。記事がやけに短かったり、長かったり、まったく気まぐれな新聞である。
「まったく、どいつもこいつもヒマなやつばかりだ。新聞なんか読んだって、腹はいっぱいにならないっていうのに!」
相手がいないと、ブッキの口からはブツブツと滑るように文句が出てくる。調子が出るともっと文句が浮かんでくる。
「新聞に、男前に写ってたわよ! ケケケ」
と、朝一番のケイコばあさんが笑った。
「ちぇっ! あの新聞のおかげで、時間は食ったし、噂も広まるし、いいことなんか、ちっともない!」
ブッキはニコリともしないで、まんじゅうを竹皮に包んだ。
犀玉角次郎が母親の白江と二人で買いに来ていた。
「今日は親戚が、まんじゅうを食べに来るんだ」
と大きな図体をしながらツノジロウは、恥ずかしそうに言った。
「だから、白まんじゅうと、秋の木の実・木の花まんじゅうを、十個ずつお願いね」
ブッキはもちろん、ニコリともしない。
「あれえー。あの、新聞さ。ブッキのことがでっかく出てたな。オレ、有名人と友達なんだな」
ツノジロウはもじもじ言って、くすりと笑った。ブッキはちょっとむっとした。
「だれが、友達なもんか…」
うつむいてまんじゅうを包む時に、ぶつっと言う。
やっぱり新聞のせいなのか、いつもより早くまんじゅうは売れて行くようだった。最後に並んだコタロウの時には、いつものように一つずつのまんじゅうが残っていた。
「新しいまんじゅうがあると、ケンモチ先生は喜びますよ。またまた半分ずついただきます」
とコタロウは笑った。
「ふんだ! たくさん食べたいんだったらな、ケイコばあさんに負けずに早起きしろってんだ!」
もちろん、ブッキの声はコタロウの耳には届かない。
コタロウはいつも最後の客になる。この日も帰って行くコタロウの背中を見ながら店を閉めた。そして、厨房の掃除と次の日のための材料を用意。一日は瞬く間に過ぎて行く。
昨日は夜のうちから変なできごとがあったせいか、ブッキはいつもより疲れているような気がした。
掃除も明日の仕込みも終わってほっとすると、今、たった一人でいることをじんわりと感じた。キタヤマの静けさが家の後ろ側から迫ってきていた。
ブッキはじっとオヤジの写真を見つめた。
「もし、この家がまんじゅうやじゃなかったら、オレはいったい何をしていたんだろうな。あんなくだらない新聞を出すのはいやだし、研究所で助手なんてのもぱっとしない…。卵を産むことはできないしな。それに比べりゃあ、まんじゅう作りはずっとマシだ。ま、考えたってしかたない。オレには選ぶことなんかできなかったんだから」
ブッキはぐっとのびをすると、眠ることにした。
ふと、外でコトリ、と音がしたような気がした。あのおかしな新聞記者とカメラマンがまた今日も外を飛び回っているのだろうか。ブッキのお腹の底から、こらえていた笑いがくくく…、ともれてきた。
「あー、なんだってマヌケなやつらなんだろう! うちのうまいまんじゅうをまだ一度も食べたことがないなんて!」
こんなにおかしかったのは何年ぶりだろう。ブッキは笑いたくてしかたがなかった。なのに、誰が見ているわけでもないのに、ブッキは思い切り笑いたくはなかった。笑うと、なんだか、なにかに負けたような気がする。損したような気がする。だからこらえてこらえて…、それでもこらえきれない。
「ちぇっ! こんなことで笑って力を使うなんて、もったいない!」
ぶつぶつ言う口元からも、まだくくく…、と笑いがもれてくる。
その夜は眠りにつくまで、ブッキは笑いをこらえるのに大変だった。