冴えないサラリーマンとBarもみじ
「はぁ……」
何度目のため息だろう。
月曜日早々、会社のプレゼンで失敗してしまった。
用意していた資料は誤字脱字にデータの入力ミス。
口を開けば緊張と焦りから、変な声が出た。
「はぁ……」
いや、いいんだ。
仕事のミスなんて、数えていたらキリがない。
入社からもうすぐ3年。
最初はフォローしてくれていた同僚たちから向けられる視線も、最近は見捨てるような、馬鹿にするような、笑いの種にするようなものになってきている。
会社から捨てられるのも時間の問題だろう……
「くそっ!」
ダンッと壁を殴ってしまった。鈍い痛みが腕を伝ってくる。
どうやら先程の居酒屋で飲み過ぎてしまったらしい。
いや、もういいや……今日は吐くまで飲もう……
明日の仕事なんていいや……どうせクビになるんだ……
ふと、目の前の壁を見ると『Barもみじ』とある。
ちょうどいいや。この店で酔い潰れよう。
***
キィィ……と耳障りな音を立てる扉を開けると、店内にはカーキ色のコートを着た小太りなオッサンとだらしなくワイシャツを着崩したオッサンがいた。
「お、いらっさい」
だらしないオッサンがこちらを向いて言った。どうやらコチラのオッサンがバーテンダーなのだろう。
しかし、バーに入るのは初めてだがバーテンダーって、もっとちゃんとした格好じゃないのだろうか。
いや、それよりも――
「なんで、びしょ濡れなんですか?」
その一言が可笑しかったかのように、オッサン2人は笑い出した。
そういや、この店にはオッサン2人しかいない。
……店、変えようかな。
そう思った矢先、小太りな方が隣の席を指さした。
「まあ、座れや。一杯奢ってやるよ」
言われるままに小太りの隣に座る。
しかし、バーテンダーはまだガハハと笑っている。
「で、何飲みたい?」
親しげに小太りが話しかけてくる。
「いや、カクテルとかよく分からない、です」
「じゃあ、雰囲気とか味とか言ってみ。ほら千秋、いつまでも笑ってねえでお前が訊けよ」
千秋、と呼ばれたバーテンダーが、やっと笑うのを止めてこちらを向いた。
「んー、カルーアミルクでいい?いちいち棚から酒出すの面倒だし」
そんなテキトーな態度にカチンときた。
気が付いたら、バーテンダーを殴っていた。
隣の小太りが慌てたように後ろから抑えてくる。
「なんなんだよ!ちゃんと仕事しろよ!馬鹿にしやがって!」
一発殴っただけでは気が済まず、堰を切ったように抑えていた感情が言葉となって口から出てくる。
「ふざけんなよ!頑張っても失敗ばかりの僕への当てつけか!?ふざけんじゃねえ!
どいつもこいつも気に入らねえんだよ!今日だって、今日だってプレゼンしてんのにコソコソ笑いやがって!なんなんだよ!ふざけんなよ!」
そこまで怒鳴って、これは八つ当たりだと思った。
急速に怒りが引いてくる。
「……すいません」
両手を挙げて、もう殴る意思はないことをアピールすると、小太りはあっさりと拘束を解いてくれた。
「なんで、そこで謝っかな」
ポツリとバーテンダーが言い、後ろの棚を見た。
「ふざけた態度とったのは俺だし、お前は何にも間違った事言ってねえよ。俺は殴られて当然だ」
女のビンタよか痛かったけどな、とぼやきながらドンとカウンターに何かを置いた。
透明な瓶に、透明な液体が波打っている。
「仕事場で嫌な事でもあったのか?」
次に置かれたのは濃い琥珀色の四角い瓶だ。オレンジ色のキャップがちょこんと乗っている。
「ほら、突っ立ってねえで座んな」
青い液体が入った瓶を片手に、バーテンダーは言った。
シャカシャカという心地良い音が響く。
その音が止むと、グラスに青空の様なカクテルが注がれた。
「ブルー・マンデーだ」
バーテンダーは澄んだ青いカクテルを差し出しながら言った。
「いえ、そんな……殴ってしまっ――」
「まだ言ってんのか。いいから、飲んでみな」
隣の席の小太りが言葉を遮るように、促す。
促されるままにグラスを傾けると、喉がカッと熱くなった。
だが、その熱さが胃に収まる時に気付いた。
仄かに甘く、鼻から抜ける清涼感、そして胃から広がる温かさ……
青空の下で日向ぼっこをしているようだ。
***
「……あの、美味しかったです」
2、3口で飲み終えると、素直にそんな言葉が出てきた。
バーテンダーは少し嬉しそうに口端を歪めるだけだった。
ブルー・マンデー
・ウオッカ……45ml
・ホワイト・キュラソー……15ml
・ブルー・キュラソー……スプーン1杯(約5ml)