Crystal delusion
雪山で遭難するなんてメルヘンだ、と思った事がある。
素人の登山家ならともかく、万全の備えをした熟練の登山家が、どうして遭難することがあろうか。
もし万が一あったとしても、間違っても自分だけには起こりっこないだろう、と――
タカをくくったのがどうやら間違いだったらしい。
そういうわけで俺は今、一人で雪山のど真ん中にいる。無論好き好んで単身山登りに来たわけではない。
登山家の友人数名とこの山にやって来たのだが、ふとした瞬間に仲間とはぐれてしまい、この様である。
「ちくしょう、迂闊だったぜ……」
幻想的であるはずの冬の象徴は、今やじわじわと俺を追い詰める凶器と化していた。白い雪は吹きすさぶ風に乗って、弾丸の如く体に打ちつけられ、灰色の空に輝く結晶雪は、ただでさえわずかな視界をさらに覆い隠す。
降り積もった白い絨毯は、俺の体重を支えることなく深々と足を埋め込ませ、さらに寒気という寒気が、幾重にも着込んできたはずの防寒着の上から容赦なく身体を蝕むのだった。
「ああ、寒い……」
じわじわと奪われる体力。体の底からしんしんと冷えて行くのがよく分かる。このまま三十分もここでじっとしていれば、人間の氷漬け一丁あがり。そうならないためにも、体力がもつうちに少しでも動かねばならない。
もしかしたら救助隊が助けてくれるかもしれない、登山客用のロッジにたどり着けるかもしれない。そんなわずかな希望を胸に抱くと同時に少しの気力も湧き、俺は歩を進め始めた。
「うわっ」
だが、歩き出して二~三分と経たないうちに、俺の希望は早くも失われる形となったらしい。
まさかすぐ目と鼻の先に、深い深い崖があるとは思わないではないか。重力には逆らえない仕様でできている俺の体は、速度を増しながら落下し……
ドシン!!
勢いよく打ちつけられたと同時に、俺の意識はどんどんと遠のいていった。そして……
◆
すると、目が覚める。
雪山にいるはずなのに、不思議と寒くない。……ああそうか、俺、死んだのか。
ぼやけた視界に映る、心配そうな顔でこちらを見つめる一人の少女。もしかすると、死後の世界へと自分の魂を送ってくれる使者なのだろうか? しかし死後の世界への迎えっていうのは、また綺麗なお嬢さんだな。死後の世界に旅立つ者だけが味わえる特権、ってやつか?
そして思い出したかのように、肋骨の辺りが痛み出した。ちくしょう、この痛みには耐えられん。とっとと連れて行きやがれ……って、ん? 痛い?
「ハッ!?」
そこで、俺の意識は覚醒した。ぱっと飛び上がったのと同時に、全身に激痛が走る。症状はおおむね全身打撲ってとこか。だが、とりあえずは何とか生きてるらしい。
「……ここ、どこだ?」
辺りを見回すと、どうやらここは洞穴のような場所だった。外を見ると猛烈に吹雪いている事から、俺がさっきまでいた雪山のどこかなのだろう。他にももっと現状把握に使えるものがないかと見渡すと、この風景には不釣り合いなものを見つけた。そしてそれは俺に、これはさっきの夢の続きなのではないかという錯覚を起こさせた。
「気がついたようね」
隅の方でこちらを見ながら微笑んでる少女。雪のような白い肌と流れるような黒髪……とまあ、ここまでは普通だが、とても日本人とは思えないようなアクアマリンの大きな瞳に、本人の肌とまるで溶け込んでいるかのような真っ白な着物。それは間違いなく、さっきのぼやけた視界に映りこんだ姿そのものだった。
「あんたが……助けてくれたのか?」
「そうとも言うかもしれないわね。
少なくとも、倒れているあなたを見つけてここまで運んで来たのは、私」
「あ、ああ……そりゃどうも」
言いながら、疑問に思った事が二つある。
一つは、この少女は何故軽装なのに平気な顔をしていられるのか。この重装備でも寒かったと言うのに、こんな服では寒さなど凌げないはず。
そしてもう一つ、どうして今は全く寒さを感じないのか。見たところ何の変哲もない洞穴に相当な断熱効果があるとは思えない。ひたすら考えたものの、どうしてもこの疑問に対する答えを見つけられずにいた。
「な、何よ、そんなに見つめちゃって」
少女が照れくさそうに顔を背けた。どうやら考え事をしている間、顔がずっとそっちに向けられていたらしい。
「ああ、すまんすまん。ちょっと考え事をしてた」
慌てて弁解する。一見すると言い訳のようだが、事実なのだから仕方がない。
「考え事、ね。まあいいわ。どんな事考えてたの? 目の前の可憐な美少女をどう襲おうか、とでも?」
「自分で自分の事を美少女っていうのも、どうかとは思うけどな……」
そうは言いつつもこの少女が、俺の疑問に対するある程度の答えを持ち合わせていそうな気はしていたので、とりあえず、質問をいくつかぶつけてみた。
少女は手を口元に持って行って一思案した後、その手をポンと叩き、
「じゃあ、実際に説明してあげる。目を瞑って」
と言った。実際に、とはどう言う事なのだろう。そして何故、俺の視界を奪う必要があるのだろう。訝しく思ったものの言われたままに目を閉じ、その答えを待つ。が、返って来たのはこちらが全く想定していない出来事だった。
「んっ!?」
唇に触れる、瑞々しく柔らかい感触。呆気にとられていると、少女はそのまま、しきりにこちらへ息を吹き込んできた。行為の意味が全く理解できないまま、
「はい、目を開けていいわよ」
という声と同時に、唇に触れていた柔らかい感触が離れていく。いきなり何をするんだ、と抗議したかったが、その時異変が起こる。
「あ……え……?」
今の今まで全く感じなかった寒さが、まるで急に牙を剥いて襲いかかってきたかのようだ。ガクガクと体が震え、意識が急激に遠のく。がくんと膝をついた俺に、立ち上がる気力は残っていなかった。
「いけない……ちょっとやりすぎたかしら」
これにはさすがの少女も慌てたらしく、今度は目を閉じさせる指示もせずに再び俺の唇を塞ぐ。そして、今度はさっきと全く逆に、しきりに息を吸い込みだした。
しばらくして唇が離れると、先ほどまでの震えはどこへやら、俺の体は再び寒さを感じなくなっていた。
「……どう言う事だ?」
「私はね、寒さを自在に操る事ができるの。だから私の周りはちっとも寒くないし、さっきみたいにして、他の人の体の中にある寒気を抜き取ったりできる。その逆も然りね」
「で……その方法がキス、と。なんとも積極的な方法なことで」
「実は普通に抜き出せるんだけどね」
「それじゃアレか、欲求不満ってやつか」
「ば、バカな事言わないで!! ああやるのが一番効率がいいのよ!!」
「体の良い言い訳だな、よく分かるよ」
そう言ったところで、横っ面に痛いのを喰らった。
理不尽だ。
◆
外を見ると、いつの間にか吹雪が止み、穏やかな白の世界が戻ってきていた。
「じゃ、俺はそろそろ。助けてくれてありがとうな」
「帰り道分かるの?」
「全く分からんが、今のこの体じゃ死ぬ事はないだろ。
いざとなればもう一度、あんたが助けてくれる事を祈る」
「バカね、このまま無闇やたらに歩いたら、また遭難するに決まってるじゃない。それに、次も私があなたを見つけられる、とは限らないわよ」
「……帰り道教えてくれ」
「素直でよろしい」
その後、少女の案内通り進んだ俺は、ちゃんと登山客用のロッジへとたどり着き、そこにいた仲間と合流する事もできた。こうして無事下山する事ができてこの話は終わりを迎えるのだが、その前に一つ、後日談と言うか何と言うか、そんな感じの話をしたい。
下山した後、俺達は体を休める意味で、麓のとある旅館に宿を取った。その夜、雪山での不思議な体験を仲間に話したが、当然のように信じてくれる奴はほとんどいなかった。てっきり、旅館の女将が「そう言えばここらには……」と、雪女伝説が残っているとかどうとかいう話をするかと思ったのだが、そうではない。登山メンバーが言った何気ない一言が、妙に俺の心に留まったのだ。
曰く、
「そもそも雪女って、死ぬ前に見える幻覚の類らしいぜ? 雪女がやたら絶世の美女って情景で描かれるのも、死ぬならいっそそんな女を一目見てから死にたい、って願望からだろ?」
だからお前も幻覚を見たんだよ、と締めくくった友人の言葉は、これまでただ何となく否定していた他のメンバーの言葉より、やけに説得力があった。
もしかしたらあれは、死ぬ前に神様が見せた幻想だったのかもしれない。……キスしただけで寒くなったり寒くなくなったりするなんてありえない話だし。今でも鮮明に覚えている、あの柔らかい感触も、強い幻想のイメージに囚われていると言われればそこまでかもしれない。……あの時の俺は全く気にしなかったわけだが。
それはまさしく、白銀の雪が俺に見せた甘美なる夢、と言ったところか。けれども何故か、このまま夢では終わらないような、あの少女とはいつかまた、今日とは違う別の形で会えるような気がする。何が根拠になっているのかは、さっぱり分からないが、そう思えた。そしてその日が来るまで、俺は彼女の事を決して忘れないでおこうと思う。
死にかけの命を救ってくれた、あの白い女神の事を。
……とまあ、今回の話はこれで本当の終わり。
ただ、この話を聞いて、幻想と実体の境界が曖昧になった人がいるならば。
その時は、もしかしたらこの不思議の続きを語るかもしれない。