第16話 森という存在
友永の職場というビルを後にし、友永が近くのカーシェアで借りた車に乗り込む。
先ほど受け取った何かを、辰巳の代理の人間に渡しに行くとのことだった。
駐車場からスムーズに出た車は、狭い路地を通っていく。
やがて大通りが近づくにつれ、車の音が幾重にも重なって耳に押し寄せてきた。
路地を抜けると一気に視界が開けた。
人、自転車、車、信号。色も音もまだ馴染まない世界が、容赦なく僕の前に広がる。
まだ慣れない。くらりと視界が一気にゆがむ。吐き気が体の奥から登ってくるような感覚。必死にそれをこらえながら、これ以上何も見ないように目線を下げる。
緑色のシートが、視界いっぱいに広がった。
「森さん、腹減らないですか?」
意識の外から友永の声がする。
今の自分には目の前の異質な世界に集中することしかできない。そんなことがぼんやりと頭に浮かんだ。
「いえ、あまり」
食欲のことなど考えられるわけもない。今この瞬間を生きる。僕はそれだけで精いっぱいだった。
「飯くらい食ってくださいよ」
舌打ちが聞こえる。紛れもない友永から発せられたものだ。
声からわかる。明らかに友永はイラついていた。
「そのまま倒れますって。ピアノとか言ってる場合じゃないですよ」
今の僕にとって知ったことではない。
それがいくら正しいことでも、関係なんかなかった。
狂った五感のこと、おかれた状況のこと。
それらすべてが万力のように僕という存在を追い詰め、押しつぶしていく。
こんな身の上の中で、まだ何かを僕に期待するというのか。
その思いが絶望を生み、体をまた硬直させる。
問いに答えられない僕にさらに怒りを覚えたのか、友永の舌打ちが再度聞こえる。
「全部思い出した時に、森さんの体が壊れてちゃ意味ないんですよ」
何も答えることができない。
僕は知っている。
この体に元々いた森という人物が帰ってくることはないということを。
くぐもったようなウィンカーの音がする。
右側に引っ張られるように重力がかかり、車が停止するのを感じた。
サイドブレーキを引く音が聞こえたと同時に、服を掴まれて引き上げられる。
「森さんこっち見てください」
どすの利いた声。そんな声を友永から聞いたことはない。
だからだろうか、反射的に顔を上げる。怒りに満ちたその形相は、すぐに哀願のような表情に変わっていった。
「なんて顔してるんですか」
僕はどんな顔をしているんだろう。
そしてなんで目の前の男は泣きそうな顔になっているのだろう。
そんなことを感じるより前に、僕の目の前の狂った色の世界を認識しようとすることにリソースが切り替わる。
ああ、今の僕には何も考えることができないのだ。
生きる術を何も知らない赤子のように、僕もまた、この世界では生まれたばかりなのだと。
人の機微を感じるなんてことは到底できない。
いつの間にか友永の手は服から離れていた。
支えを失った僕の体は、車のドアにもたれるように打ち付けられる。
ハンドルに腕をかけ、友永はもたれかかり、突っ伏すように顔をうずめた。
そのまましばらく静かな空気が車内に張り詰め、無表情の顔をあげて友永が運転を再開したのは、それから3分くらいたった後だった。
僕はそれからまたうなだれ、一度も顔を上げることはなかった。




