5. 椅子はひとつ増える
商工組合の集まりまで、三日。
問題は、当主の上着である。
「これで行きます」と出てきた一張羅は、肘が薄く光っていた。見積もり――やめておこう。人の服を値踏みするものではない。特に、悲しくなる値のときは。
「棚卸しの上着を使いましょう。先代様のお仕立ては、良うございます。よい買い物は、二代使えるのです」
仕立て直しは、市場のお針子に頼んだ。工賃は現金ではなく、棚卸しで出た古布一反。物々交換は、金のない家の立派な決済である。
採寸の段になって、お針子が首を傾げた。肩幅は詰めるどころか、出すのだという。
「先代様より、旦那様の方が、肩が広うございますよ」
「え、僕がですか?」
猫背が隠していただけである。この家には、隠れている資産が多すぎる。
三日後、直し上がった上着は、誂えたように当主の背に乗った。古い布の匂いに、新しい糸の匂いが一筋通っている。
「な、なんだか、父に借りているようで落ち着きません」
「借りているのではございません。継いでいらっしゃるのです」
私はにっこりと笑い、当主はしばらく考え――うなずいた。
◇
組合の集まりは、市場の二階の広間で開かれた。
煙草と羊毛と、算盤の匂いのする広間である。商人が三十人、貴族家の使いが十人ばかり。フルーリ伯爵家の席は末席も末席、扉の横で、隙間風が足首を撫でる。二十年顔を出さなければ、席は風下へ流れる。道理である。
私は当主の椅子の斜め後ろに立った。使いの者の定位置である。二十年でいちばん体に馴染んだ場所のはずが、今日は妙に落ち着かない。守りたい背中が目の前にあると、人はこうなるらしい。
問題は、途中の議題で起きた。出入りの粉屋が、当家への納入値の話になった途端、聞こえよがしに言ったのだ。
「フルーリ様は、お支払いが心許ないですからなあ。掛け値を頂かないと、うちも怖くて」
広間に、薄笑いが流れる。
当主の耳が、赤くなった。俯くか、と思った。二十年、俯いてきた家である。
俯かなかった。
「――掛け値の、根拠を伺いたい」
当主の声は、震えをひと枚かぶって、それでも通った。
「当家はこのふた月、支払いを一度も遅らせておりません。それから、粉の相場は、こちらでも取っております。一袋、銀貨一枚と銅貨十。おたくの納入値は、一枚と銅貨四十。……差額の三十は、何の値ですか?」
粉屋が、口をぱくぱくさせた。
懐の相見積もり表は、昨夜、私が持たせたものである。だが、読み上げろとは言っていない。値を頭に入れ、自分の言葉で使ったのは、当主自身だ。
気づけば、私は自分の袖口を、指が白くなるほど握っていた。おかしい。段取りは全部済んでいる。済んでいるのに、心の臓だけが段取りの外で走っている。
「い、いや、フルーリ様、それは、その」
「今後は相場でお願いします。相場なら、末永くお付き合いします」
帰り道、当主は馬車の中でずっと、自分の手を見ていた。
「マーサさん。僕、言い返せました」
「拝見しておりました」
「生まれて、初めてです」
「お見事でございました。……相場より三割増しの啖呵でございました」
「そこは相場通りと言ってください」
窓の光が動いて、膝の上の手を照らす。見れば、その手はまだ細かく震えていた。震えの残る手で、人は初めての勝ちを確かめるものであるらしい。手帳には書かない。書かなくても、忘れそうにない。
◇
その晩、王都のさる屋敷の夜会で、小さな事故が起きていた。ルヴェル公爵家の主催である。格式で言えば隣り合ってはならない二つの家門が、席次表の上で隣り合った。片方の夫人は席を立ち、もう片方の当主は扉を蹴って出ていく。二家門は、以後の絶交を宣言した。
割を食ったのは、主催の側である。二家門とも、ルヴェル家とは先代からの古い取引筋だった。詫びの口上をどう組むか、答えられる者はいまの屋敷にいない。
席次の規則は、紙にして三枚。それが書かれた綴りは、誰も開けない棚の中で眠っている。
◇
屋敷に戻ると、夕食の支度ができていた。
食堂に入って、私は足を止めた。
長い食卓の、当主の席の隣に、椅子がひとつ、増えている。
「今日の勝ちは、あなたと分けたいのです」
当主が、自分でその椅子を引いた。
「使用人の席ではなく……隣で、です」
「……規定では、給仕は立って務めるものでございます」
「今夜だけ、規定に穴を開けてください。当主権限です」
当主権限。覚えたての言葉を、こんなところで使う人がある。
私は、座った。
座るのに、呼吸が三つ要る。ひとつ目で規定を数え、ふたつ目で断り文句を数え、みっつ目で――どちらも出てこなかった。
二十年、賄いは台所で立って食べてきた身である。座って食べる夕食というものを、椅子が、体が、覚えていない。背もたれに触れた背中が、置き場所を探して少し泳ぐ。
芋の重ね焼きは、座って食べると、味が違った。
……いや、味は同じはずである。違うのは、たぶん、椅子だ。
湯気の向こうで、当主が今日の啖呵を身振り付きでコリンヌに説明している。胸の動悸は、まだ少し、段取りの外にいる。
――この動悸は、献立表に載っていない。
載っていないものの扱いを、私はまだ知らない。知らないものは、手帳に書かずにおく。
食後、門の外で車輪の音がした。
見れば、見覚えのある紋章の馬車が、塀の向こうの屋敷ではなく、こちらの門の前で停まるところである。
ルヴェル公爵家の、使者の馬車だった。




