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24. 棚は開いた

 バティスト様は、門の前で帽子を胸に当てて立っていた。


 間近で見る老執事は、半年余りのうちに白髪が増え、背が少し縮んでいた。それでも上着の折り目は正しい。折り目は、その人の背骨である。背骨は、屋敷が傾いても曲がらない。


 食堂へお通しして、茶を淹れた。あの日と同じ椅子、あの日と同じ茶葉である。茶葉の棚の同じ段から取ったことは、言わないでおく。同じ味を出すのは、歓迎の言い方のひとつである。


 ひと口含んで、老人は目を細めた。


「……今日も、美味い茶です」


「恐れ入ります」


「あの日は、戻ってくれと申しに来ました。今日は、違います」


 湯呑みを置き、バティスト様は背筋を伸ばす。


「坊ちゃまが、棚を開けられました」


 湯気が、一拍、止まった気がした。


「親族会議で、後見の案が可決の寸前まで行きましてな。坊ちゃまは生まれて初めて親族に頭を下げ、ひと月の猶予をもぎ取りなすってな。縁談は、破談になり申した。……誰のせいにもできんことばかりが、いっぺんに参りました。その晩でございますよ。坊ちゃまはわしを呼ばず、鍵も求めず、ご自分の禁令を、ご自分で破られました」


「……お読みに、なりましたか?」


「三晩、かかりなすった」


 老人は、茶の湯気を見ながら言う。


「わしは廊下から、灯りだけ見ておりました。一晩目より二晩目、二晩目より三晩目、灯りの消えるのが遅うございました。……冬薪の頁で、長う止まっておられたそうです。後で、ぽつりと仰いました。『紙一枚の値段を、初めて知った』と」


 冬薪は、秋のうちに。市場で誰にともなくこぼした診立てが、胸の奥で小さく疼いた。あの頁は、私が最後の冬に書き直したばかりの、いちばん新しい頁である。書き直しながら、来年この頁を繰る誰かの手を、私は確かに思い浮かべていた。その誰かが当主本人になるとは、思い浮かべていなかったけれど。


「わしの職は、賭けられませなんだ。賭けられんことを、恥と思うて半年余り過ごしましてな。……ですが、坊ちゃまがご自分で開けなすった。それだけを、お報せに参りました。誰の指図でもなく、わしの一存で」


「バティスト様……」


「礼には及びませぬ。棚を守ったのは、あなたの引き継ぎ書で。開けたのは、坊ちゃまで。わしは……茶を、いただきに来ただけですわい」


 言って、老人は本当に、茶だけ飲んで帰った。門まで送ると、別れ際に一度だけ振り返り、深く頭を下げる。受け取ってよい頭かどうか、一瞬迷って、同じ深さで返した。二十年、同じ屋敷の折り目を守った者同士の、それが正しい帳尻だと思ったからである。


 老いた背中が塀の向こうへ消えるまで、私は門に立っていた。春の夕方の風が、庭の若い薬草の匂いを運んでくる。あの屋敷にも、この匂いの届く窓があればいい。柄にもないことを考えたのは、風のせいである。


 夜、食堂の蝋燭は二本とも新しかった。新しい蝋燭は、長い話の支度である。替えていったのが誰かは、聞かないでおく。


 旦那様は昼の報せを聞き終えて、長いこと湯呑みを両手で包んでいた。湯呑みの包み方で、話の重さを量る癖が、私にはもうついている。今夜のは、重い。


「あなたは、戻りたいですか?」


 まっすぐな問いである。遠回りも、探りもない。この人はいつの間にか、いちばん怖い問いを、いちばん静かに置ける人になっている。


「いいえ」


 声は、考えるより先に出た。


 即答した自分に、私自身が驚いていた。二十年勤めた家である。恩人の家である。棚は開き、禁令は解け、望めば戻る道も、あるいは。――それでも、いいえ、が一呼吸で出た。


 理由を検めようとして、手が止まる。戻らない理由が、職場の話ではなくなっている。いつからかは、調べない。調べたら、載せる場所に困る。献立表にも、帳面にも、載らない場所にしか、置けなくなっている。


「即答でしたね」


「即答でございます」


 旦那様は湯呑みを置いた。蝋燭の灯りが、湯気ごしに揺れる。


「……職場、だけでしょうか? あなたがここにいる理由は」


 問いは、湯気の中に置かれた。


 心臓がひとつ、大きく鳴った。鳴ったことが、答えである。答えを口に出す段取りだけが、まだどこにもない。


 旦那様は、答えを待たなかった。急かさず、繕わず、ただ湯呑みを傾けて、窓の外の春の夜を見た。


「夜が、短くなってきましたね」


「……ええ。春でございますから」


 答えなかったことを、答えとして受け取らない人である。宙に浮いた問いは、湯気と一緒にゆっくり昇って、天井のあたりに留まった。あれはいずれ、降りてくる。降りてくる日の段取りだけが、私の手帳のどこにも書けないでいる。


 翌朝、門の前に馬車が停まった。


 艶のある黒塗りに、見慣れた家紋。ルヴェル公爵家の馬車である。


 降り立った若い当主は、従者を連れていなかった。


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