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17/30

17. 給金袋は膨らみすぎである

 二件目の設営は、ブノワ家の婚約披露の宴である。


 申し入れから二月半、両家の顔合わせを兼ねた真冬の宴。会場は前と同じ商家の広間だが、勝手が違う。先方は子爵家――親族の卓が三つ。作法の目が、三倍になるということである。


 仕込みは前より楽で、前より怖かった。楽なのは若い衆が育ったからである。お辞儀の角度も、皿の下げ際も、もう教え直さなくていい。怖いのは、二度目だからだ。一度目の成功は運で説明がつく。二度目は、実力の答案なのである。


 席次は四晩かけて組んだ。両家の間に川を作らず、橋を架けすぎず。当日の支度部屋で、娘御は今度は何も聞かず、鏡の中の自分にひとつうなずいてから立った。それでいい。作法は器、器はもう、あの子のものである。


 ――宴は、雪の匂いの晩に、波風なく明けた。


 帰り際、子爵家の年嵩の御婦人が「良いお式でした」と言い残していった。婚約の宴を式と言い違えるのは、気の早い吉兆である。ブノワ殿は今回も玄関であらぬ方を向いて鼻をすすった。ああいう涙の相場は、据え置きでよろしい。


      ◇


 給金日――――。


 事件は、布包みの重さだった。


 蝋燭二本の食堂で、ティボーが帳面を読み上げる。


「披露の宴の純益が六十枚、保存食の卸しが二十五枚、蔵が八枚、茶が二枚。締めて九十五枚。一割で銀貨九枚と銅貨五十。基本の三枚と合わせて――十二枚と、銅貨五十です」


 読み上げた本人が、自分の数字に怯んでいる。検めの署名が入り、布包みが卓に置かれた。ずしり、と鳴る。銀貨が音で自己紹介をする重さである。


「重すぎます」


「実入りの一割は、契約です」


 旦那様は微笑みを浮かべながら言い放つ。


「契約の見直しを進言いたします」


「却下します。当主権限です」


「そう……ですか……。でもこんなにたくさん……袋が破けますわ」


「なら、袋を二重にいたしましょう。破れたら事故です」


 旦那様は嬉しそうに笑った。


 攻防は噛み合わないまま、私の負けで終わり。この人は、この種の決裁だけは異様に速いのである。


 掌に載せると、腕が覚えている重さを、はっきり超えている。二十年勤めた家の週給は八枚――それを四枚と半分も超える袋を、勤めて半年の家で受け取っている勘定だ。


 重いのは銭ではない、と思う。袋の中には、三日の立ち働きと、育った若い衆のお辞儀と、鏡へうなずいた娘御と、検めの署名が詰まっている。値打ちは金額ではなく、袋の詰め方に宿るのである。


      ◇


 翌日は、市場歩き――。


 名目は宴の礼回りと、仕入れの下見。旦那様が「僕も行きます」と外套を取ったので、二人になった。


 真冬の市場は、白い息の商いである。荷台の湯気、焼き栗の煙、雪掻きの音。女将の店で曲がり人参を検分していると、女将が私と旦那様を交互に眺めて、にんまりした。


「仲のいいことだねえ」


「仕入れでございます」


「はいはい、仕入れね。お熱い仕入れだこと」


 言いながら、オマケの林檎をふたつ袋へ落とす。ふたつ、である。市場の返事は、いつも品物の形をしている。


 粉屋の帳場でも、羊毛商の店先でも、おおむね同じ顔をされた。旦那様は途中から耳が赤い。寒さのせいにしておくのが、大人の帳尻である。


 屋台で熱い茶を二杯買い、樽の陰で立ち飲みにした。湯気の向こうで、旦那様がふいに真顔になる。


「マーサさん。僕は、気づいてしまったのですが」


「はい」


「仕入れは口実で、僕はただ、あなたと市場を歩きたかったようです」


 茶が、気管に入りかけた。


 正直は、この人の持病である。二十年の癖を総動員して、私は湯呑みの底を検分するふりをした。動悸の処理は献立表に載っていない。載っていない項目が、この頃、増えていく一方なのである。


「……次の仕入れは、三日後でございます」


「では、三日後も」


 返事の代わりに、茶を飲み干した。返事をしなかったことが、返事である。そういう帳尻の合わせ方を、いつからか覚えてしまった。


 帰り際、薪屋の店先に人だかりがあった。冬薪が値上がりしている、と客が騒いでいる。親方の渋い声が、往来まで届いた。


「予約なしの冬買いは相場の倍――よそはもっと取るぜ。ルヴェルの御屋敷なんざ、言い値の三倍で呑んだとよ」


 足が、半歩だけ遅れた。


 三倍。あの屋敷の冬の焚き口の数なら、私はそらで言える。広間、客間、廊下の火鉢、洗い場の湯。数えかけて、やめた。


 湯気の残る茶を、一口。


「……冬薪は、秋のうちに」


 誰にともなく言って、歩幅を戻す。診立てはする。処方は、もう私の職分ではないのである。


        ◇


 ルヴェル公爵家の薪小屋は、冬の半ばで底が見えた。秋の予約は入らず、冬の買い付けは足元を見られ、言い値の三倍で呑んだ。帳場は「やむを得ぬ出費」と記す。何と比べてやむを得ぬのかを、知る者はもういない。執事室の棚の綴りには調達暦が一枚眠っている。秋の第四週、薪屋へ予約――紙一枚の値段が、三倍値の差額である。広間の暖炉はひとつ消され、女中たちは湯たんぽを分け合い、灯りと火の消える刻限が、また早まる。


        ◇


 夜、修道院から文が届いた。次の納めの折、院長が直々にお会いしたい、とある。


 これまでの文は帳場の修道女の手だった。この一通は、違う。


 伸びやかで少し右上がりの、癖のある署名。――見覚えが、ある。


 亡くなった奥様の字と、同じ癖である。

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