婚約破棄され路地裏で死にかけていた私を拾ってくれたのは、不器用な英雄様でした!〜今更泣きつかれても、もうあの頃には戻れません〜
秋のバラ園は美しい。早朝の肌寒い風が髪を揺らす中、毎朝こっそり屋敷を抜け出して彼のもとへと急いでいたのを思い出す。少しでも長く一緒にいたくて、朝が来る度そうしていた。なんとも忙しない朝だったけれど、今思えばそれは、かけがえのない宝物のような時間だった。
「ロゼッタ!探したよ」
その甘い声を聞いた瞬間、わたくしの心臓は飛び跳ねた。毎日焦がれているこの声。間違うはずがないわ……。深呼吸をしてから、その声の主へと振り返った。
「まぁ、ハルさま!どうなされたのですか?」
「これを渡したくてね……」
少し息を切らしてそう言った彼は、わたくしに小さな箱を差し出した。彼の名はハルカイン・ヴァレニウス。一つにまとめられた、燃え上がるような美しい緋色の長髪が風に靡いている。
「開けてくれるか?」
そう言って促すように頷き、青空のように澄んだ瞳を細めて微笑んだ彼。その瞬間熱くなっていく頬を感じながらも、促された通りその箱を開ける。
(まぁ、なんてきれいな指輪……)
「これは……?」
「君のために用意させたものだ。見てくれ、ここに宝石が埋め込まれている。君の瞳の色と同じだ」
そこにはたしかに、わたくしの瞳の色と同じエメラルドが嵌め込まれている。彼はその箱から指輪をそっと取り出すと、わたくしの手をとった。
「ロゼッタ……君のための、この世で唯一の婚約指輪だ。受け取ってくれるか?」
その瞬間、これまでの日々が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。父と母が海難事故で不慮の死を遂げ、それにより我がペリシエ家は没落の危機に瀕した。そこを救ってくださったのが、ハル様だった。彼は当主のいなくなったペリシエ家の援助をしてくださり、そのお陰でわたくしは今も伯爵令嬢として過ごすことができている。わたくしたちは幼馴染であった。わたくしは小さい頃から、密かに彼をお慕いしていた。そんなわたくしを、彼は婚約者にしてくださるとおっしゃっているのだ。
感極まったわたくしは、その逞しい身体に勢いよく抱きついた。彼はそんなわたくしを抱きしめて頭を撫でてくれた。その手の温もりに、思わず涙がこぼれる。彼はおもむろにわたくしの髪を一房とると、口付けた。
——なんて、そんな輝かしい日々もあった。だけれど、いま目の前にあるのはそんなものではない。どうしてこんなときにあんなものを思い出し、懐かしんでしまうのでしょう。
「ロゼッタ、お前との婚約を解消したい」
男爵令嬢の肩を抱いてそう言ったハル様に、視界が霞んだ。うまく息ができない。彼の青い瞳を縋るように見つめるが、その目にはもう、わたくしは映っていないようだった。彼の見つめる先にいるのは、猫撫で声で彼の名を呼ぶその令嬢だけ。あぁ、どうしてこうも、神は試練ばかり与えるのでしょうか。
「ハルさま。あなたはもう、わたくしを愛しておられないのですか……」
ぽつりと出ていた言葉。どうかおねがい、嘘であったと今からでも言ってほしい。どうかしていたのだと参ったように笑ってほしい。あなただけは、あなただけは失いたくないのです。もうわたくしはなにも……!
「ああ。今はもう、愛していない」
視線を逸らし、淡々とそう言った彼。その声には何の感情も乗っていない。わたくしはもう、縋る言葉も出てこなかった。喉が焼けてしまったかのように。彼の隣にいる男爵令嬢、彼女の名前はなんだったか。いい噂は聞かなかったけれど……その名前さえも忘れてしまった。あんなにも輝いて澄んでいた青空の瞳も、今はもう濁ってしまっている。
(あなたまでもが、そうなってしまうのね。あなたの耳にはもう、わたくしの声も届かないの?)
それからはヴァレニウス家からの支援も途絶え、伯爵家は再び路頭に迷うこととなった。それからすぐ、わたくしは学園を退学することになった。最後の門をくぐる際、そこには誰もいなかった。わたくしはずっと夢を見ていた。この学園を卒業して、二人でこの門の下をくぐるときを。
「さようなら」
門に向けて深くお辞儀をし、そう言った。それは、過去との決別。伯爵令嬢としてのわたくしは、もうとっくに死んでいたはずだった。ハル様によって延命措置を与えられ、幸運にも生きながらえていただけに過ぎなかったのだから。
——なんて、思っていた日々もございました。いま、わたくしは空腹で死にかけている。ペリシエ家の人間がこんなところで野垂れ死ぬなんて。ごめんなさい、お母様、お父様……。人間、気力がなくなると品など繕う余裕もなくなるものなのですね。身の回りのことは他の者に任せてばかりで生活能力などまるでなく、この末路……なんて情けないのでしょう。
——金目のものを身につけて路地裏で野垂れ死にそうになっている女。それは、どうぞとってくださいと言っているようなものだった。だけれど馬鹿なわたくしはそんなことにも頭が回らなくて、今危機を迎えている。二人の男が近づいてきている。一人はそうでもないが、もう一人の男はわたくしの指輪に視線を釘付けにされ、瞳を輝かせている。
「お嬢ちゃん、良いもん持ってんじゃないか」
男はそう言うと、舌舐めずりをして近づいてきた。馬鹿なわたくしは、咄嗟に指から指輪を外し、両手で固く握りしめて守るように小さくなった。男は、そんなわたくしを何度も蹴りつける。
「やめて!これはわたくしのたいせつなっ」
「うるせぇ!いいからよこせ……って、なんだこいつ、馬鹿力……!」
「お、おい。その辺にしとこうぜ」
痛い。わたくしはどうしてこんなにも惨めなのでしょう。こんなものに縋ったって、どうにもならないのに。こんなもの、売って今日の夕食代にでもすればよかったのに。でも、これだけは、失いたくなかった。失えなかった。奪わせない。これだけは、これだけは……!
「なにをしている」
地を這うような低い声。その瞬間、その場にいた全員が凍りついたように息を呑んだ。逆光になって姿は見えないが、わたくしの指輪を狙っていた男たちは、その男の圧に屈して蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。その男が近付いてくるのがわかる。震える手を必死に抑え、指輪を胸元に隠した。この人も、これを奪いにきたのかもしれない。
「やめて、ください……わたくしから、もうなにも……」
「安心しろ。そんなもの、微塵も興味はない」
男は軽く笑ってそう言うと、わたくしの視線に合わせるようにしゃがんだ。そのとき、ようやくその容貌が見えた。頬には大きな傷があるが、切れ長の目に長い睫毛が揺れている。どこか哀愁を漂わせる彼。揺れる濡羽色の髪の隙間から、青空のように澄んだ優しげな瞳が見えた。
(似てる……。一切濁ってない)
その瞬間全身から力が抜けて、なぜか涙が出てきた。それを止めようとぎゅっと瞼を瞑るが、その涙は止めどなく溢れてくる。そのとき、わたくしの肩になにか暖かいものがかけられた。恐る恐る目を開けると、それは軍服のような上着だった。
「え……?」
「気に入った。お前、食に困ってんだろ?うちで働け。俺の屋敷にくれば、野垂れ死はしない」
そう言うと口の端をニッと吊り上げて笑った彼に、わたくしは言葉を失った。
「どうして……」
「お前、泣き虫だ。泣き虫には優しくする。それが俺の主義だ」
「なに、それ……」
わたくしが泣き虫だから優しくする。それはよくわからないけれど……助かったのかもしれない。顔を覆って泣いた。わたくしはまた助けられてしまった。一度はあの人に、二度目はこの方に。
「俺はグレン。お前、名は?」
「ロゼッタ……わたくしは、ロゼッタです」
「そうか。……ロゼッタ、いい名前だ」
そうやって微笑んだ彼に、再び視界が霞んでいく。口元を手で押さえて、嗚咽を殺す。この気持ちは、なんなのでしょう。あぁ、わたくしがペリシエを名乗ることは、もうないのね。お母様とお父様が残してくださったあの名を。わたくしは、ただのロゼッタになったのね。その涙の味は、塩っぽかった。
——彼はわたくしの傷の応急処置をしてから、屋敷に連れて行ってくれた。その移動中には、握り飯というものを与えてくださり、それをわたくしは貪るように食べた。品なんてものは、わたくしの辞書から消え去っていた。ただ、生き延びることに必死だった。
その屋敷に着いたのは、握り飯というものを三つほど平らげて満腹になり、眠気と戦いながらグレン様とお話ししていたときだった。グレン様はそんなわたくしを「図太い」と表現された。彼の屋敷の大きさは、ペリシエ家の三分の一ほどだった。
「貴族のお嬢様には悪いが、うちは所詮成り上がりだからな」
「とんでもございません……!」
そう言って頭を何度も深く下げるわたくしに、冗談だと言うグレン様の笑い声が聞こえた。そうして、部屋に案内された。彼は、わたくしに個室を与えてくださった。
「好きに使っていい。その代わり、仕事はちゃんとしろよ?」
「は、はい……!ありがとうございますっ」
初めは何もできなかった。布巾を絞ることさえままならず、洗濯物を干すだけでも、屋敷の人たちが呆れてものを言えなくなるほどだった。
——特に、料理の腕前は壊滅的なものだった。グレン様の好物だという、シェパードパイをひとりで作ってみたときなんて、もう。
「……これはなんだ?」
「あ、あの、しぇぱーどぱい……です」
「あ、ああ……しぇぱーどぱい、か」
シェパードパイ、なんて言っているが、そこにあるのは一口食べただけで死人が出そうなゲテモノだ。
グレン様は戸惑いながらも、目を瞑って深呼吸をしてから席についた。涼しい顔でスプーンを持ち一口食べてみるが、その瞬間思い切り咽せて、テーブルをどんどんと叩き水を要求する彼がいた。顔が真っ赤になったと思ったら今度は紫になり、青から白っぽくなっていく。慌ててグラスいっぱいにいれた水を渡すと、彼はそれを一気に飲み干した。そして彼はなんと、二口目を運ぼうとしていた。その覚悟を決めた顔の勇ましさは、まるでドラゴン討伐へと向かう勇者のようだった。彼はその後も大量の水と共に「うん、うまい」と土気色の顔に無理やり笑みを浮かべて、料理とも言えぬその何かを胃に流し込み、なんと完食してくださった。わたくしは感極まって瞳を潤ませた。その結果そのあと暫く、彼をお手洗いとお友達にさせてしまうことになるのだけれど。
この屋敷の方々はそんなわたくしに嫌味ひとつ言わず、その度に手取り足取り教えてくださった。飲み込みの悪いわたくしに、根気強く何度も何度も教えてくださった。時には叱られることもあったけれど、そこには確かに愛があった。そんなわたくしも、数を重ねていくうちに人並みにこなせるようになってきていた。そのことに気づいたとき、わたくしは思わず飛び跳ねて喜んだ。こんなにも嬉しくて、心が躍ったのはいつぶりか。
——毎晩、彼は大量の汗をかいて、魘されていた。そんな彼の手を握って、子守唄を歌うのがわたくしの役目だった。昔から、歌だけはよく褒められた。まだわたくしが小さかった頃、お母様がよく聴かせてくれたこの唄。それをグレン様のために歌うと、彼は穏やかな寝息を立て眠った。そこに苦しみはなかった。幸せそうに、何かの夢を見ている彼がいた。強がっているけれど、本当はとても繊細な人なのだ。
「どうして……グレン様は、こんなにもよくしてくださるのですか?」
季節は春に差し掛かった満月の夜、わたくしは彼にそう聞いた。ずっと疑問だったのだ。考えても考えても納得のいく答えは見つからず、勇気を出して直接聞いてみた。
「お前は泣き虫だからな。泣き虫がいたらそばについて泣き止ませてやれと、昔ある人から言われたんだ。……それに、言っただろ?俺は、お前の目が気に入った」
「お前にはあのとき、命よりも大切なものがあるように思えた。俺もそうだった。だからかもしれない」
そう話す彼の横顔は、どこか寂しげだった。続けて彼はこう言った。
「俺は数年前まで、他国との戦に出ていたんだ。数時間前にはお互いの身の上話をして背中を叩き合った仲間の屍を踏み越え、前進しなければならないこともよくあった。あぁ、こんなことなら聞かなければよかったと、その度に悔いた。だが、あいつらのことを覚えていてやれるのも俺くらいだ。最後まで生き残って、どうにかしてあいつらの生きた証を後生に残してやる。すっかり平和になったこの国で俺にできる弔いといえば、それくらいだからな」
そう言ったグレン様は、わたくしの方へ顔を傾けると、困ったように眉を下げ、優しく微笑んだ。青空のように澄んだ瞳には涙が溜まり、潤んでいた。
……この人を支えなければ。彼は強い人だ。わたくしの支えなんて、きっと必要ない。なのに、なぜでしょう。彼には、弱さが見える。こんなにも強い彼を、わたくしが守ってさしあげなければとすら思う。矛盾している。矛盾しているのに、わたくしの胸は今までにないほど、うるさく高鳴っていた。
「わたくしにも、そのお手伝いをさせてください!」
気付けばグレン様の手を握って、そう言っていた。もう隠す必要はなかった。わたくしは、彼に恋をしている。こんなにも心が熱くなったのは初めてだった。グレン様に救っていただいたこの命、わたくしもグレン様に捧げたい。そんなわたくしに彼は、切れ長の瞳を大きく見開いたあと、くしゃりと顔を歪め、涙を流して笑った。
「……戦場には、妙な薬を使って俺たちの心を操ろうとする卑怯な奴もいた。人の心を弄ぶような、あんなのはもうご免だ」
「グレン様……?」
「だから……お前のように真っ直ぐな心の奴といると、どうしようもなく救われる」
そう言って苦く、けれど安堵したように笑うグレン様に、わたくしがそれ以上深く追求することはなかった。
——数年前の戦いで大きな武功をあげたとして、彼は国王陛下直々に夜会へと招待されていた。
「この夜会には同伴者がいるんだ。俺はお前に、来てほしい。俺の……その、婚約者として」
肘で口元を隠しながら耳まで真っ赤にして顔を背けそう言った彼に、わたくしは息をするのも忘れた。うそ。うれしい。うれしい。どうしましょう。彼が、わたくしを?わたくしもあなたが!でも……。
「でも、あなたはこの国の英雄で……。わたくしなどではなく、もっと美しくて要領のいい女性が」
「ちがう!俺はお前がいい。お前だから、結婚したいと思ったんだ」
「え?」
「あ、あいしてるんだっ」
首まで真っ赤にし息を荒くしてそう言い、青い瞳からぽろぽろと涙をこぼしたグレン様。その瞳に射抜かれたわたくしは、あぁ、もう逃げられないのだと悟った。いえ、逃げたくないのだと。必死に想いを伝えてくださるその姿に、わたくしも精一杯の心で応えなければと思った。
「わたくしもです……!あなたでなくてはだめです。あなた以外なんて、考えられません。グレンさま、だいすきです!こんな不束者ですが、もらってくださいますか?」
泣きながらそう言ったわたくしに、彼は言葉ではなく感情で応えた。わたくしを勢いよく抱きしめたグレン様は、タガが一気に外れたように嗚咽を漏らして泣き始めた。その泣き声は悲しみでもなく、怒りでもなく、わたくしが求めていたものだった。
夜会に着ていくためのドレスは、彼が仕立て屋に連れていってくださった。完成したドレスは、それはそれは美しかった。光沢のある濡羽色の、彼の髪のような深い闇夜色のドレス。そこには星屑のようにパールが散りばめられており、まるでどこかの国のお姫様にでもなったかのような気分だった。鏡に映るわたくしの頬は、林檎のように真っ赤になっている。
夜会の日。彼は国王直々に贈られてきた正装をしていた。上質な黒を完璧に着こなした彼は、どこかの国の王子様のようだった。わたくしの頬が赤くなっていくのがわかる。
「美しいお姫様」
「ひゃっ!?」
おどけたようにそう言った彼は跪き、わたくしの手をとってその甲に口付けをした。わたくしは咄嗟のことに驚いて、飛び跳ねて叫んだ。
「愛しい女性にはそうするものだと、あいつらが教えてくれた」
「ま、まぁ……!」
照れくさそうに言う彼の後ろの影には、ニヤニヤとしてこちらを覗きこむように見つめる、彼の部下たちがいた。皆、グレン様がいた戦場での生き残りだ。この人は純粋だ……。それ故に彼らのオモチャにされているところがある。鈍感な彼はきっと、それにも一生気づけないのでしょう。まぁ、愛ある弄りだとでも思いましょうか。
会場へと出発する時間が近づいてきた。わたくしとグレン様が馬車に乗ろうとしたとき、皆さんが屋敷から出てきた。
「ロゼッタちゃん、本物のお姫様みたいねぇ」
「グレンは似合いすぎてるのが腹立つなぁ」
「ふたりとも、お似合いだぞ!」
そう口々に褒めてくださって、わたくしはなんだか恥ずかしく思いつつ、すごく嬉しくて、泣いてしまいそうになっていた。そんなわたくしの手をとり、「そろそろいくか」と笑ったグレン様の大きな手を、きつく握り返した。
揺れる馬車の中で窓の外を見ている彼は、いつもより少し硬く見えた。その瞳は遠くを見つめている。彼もなにかを思い出して、緊張しているのかもしれない。冷えてしまっているその手を温めるように、わたくしの手で包み込んだ。
「グレン様。きっと大丈夫ですよ」
そう言って微笑むと彼は参ったとでもいうように小さく笑って、わたくしの手を握り返した。互いの体温を感じているうちに、馬車がゆっくりと停車した。そうしているうちに、会場に到着した。会場に到着したのだ。馬車を降りた途端、ある一人の屈強な男が近づいてきた。その男はグレン様に耳打ちをすると、時間に追われているようで早足で去っていった。
「ロゼッタ、すまない。呼ばれたみたいだ。少しの間ひとりにさせてしまう」
彼は国王陛下に呼ばれたようだった。申し訳なさそうに眉を下げ、不安げに声を震わせているグレン様。だけれどその不安は、この国の王と相対することよりも、わたくしをここにひとりにしてしまうことに対する不安の方が大きいようだった。
「大丈夫ですよ。わたくしはここで大人しく待っていますから。グレン様、いってらっしゃい」
後ろ髪をひかれながらもこの場を離れた彼。わたくしは会場の隅で静かに立っていた。……どこからか視線を感じる。この夜会には、わたくしの顔見知りも多い。学園を追い出された没落貴族がなぜこんなところにいるのかと噂話をする声が聞こえる。こわい。心細い。早く戻ってきて……グレン様。
「なんであの女がここにいるのよ!」
聞き覚えのある、鼓膜を突き破るような金切り声。それにわたくしは石像のように固まり、咄嗟に顔を俯かせた。カツ、カツ、とヒールの足音が近づいてくる。震える手を胸の前で握りしめて、瞼をきつく瞑った。おそるおそる目を開けると、そこにいたのは以前よりも化粧が濃くなった、あの男爵令嬢だった。
「やっぱり、あんた……!」
「ロゼッタ……?なぜお前がここに……」
その隣で唖然と言ったのは、ハル様。久しぶりに見る彼は、少し頬がこけて痩せたよう。目の下のクマもひどいわ……。緋色の長髪は相変わらず美しいけれど。
「ハル様をこのユリィから奪いにきたの?そのためにこの夜会に侵入して?なんてひどい!ねぇ、皆見て!この女はユリィの大切な婚約者を奪いにきたの!最低だわ!」
「お、おい、ユリィ、やめろ!」
周りの群衆にわたくしを告発するように叫ぶ彼女と、そんな彼女を鎮めようとするハル様。彼女の名前は……そうだ。ユリィ・フラーヴィ。恋人を持つ男性たちが次々と彼女の虜になり、人が変わったかのように彼女を擁護するため、女生徒からの評判は地を這っていた。いい噂なんて一つも聞いたことがない。恐怖で体が震えた。ぎゅっと瞼を瞑り、小さくなって、ただ時が過ぎるのを待つ。そのとき、冷え切ってしまいそうだった身体が暖かくなった。驚いて顔を上げると、そこにはわたくしを守るように抱きしめているグレン様がいた。
「彼女になんの用だ」
低い声でそう言ってユリィを睨みつけるグレン様からは、殺気が溢れていた。
「貴様は……この俺の婚約者を侮辱したな」
「え……?こんやくしゃ?」
「俺は私情で剣を抜くことはない。だが…貴様は別だ。俺は今初めて、女を殺したいと思っている」
「ひぃ!」
重い殺気を浴びせられ、ユリィは恐怖で顔を青ざめさせる。しかし次の瞬間、彼女は何かを思い出したように表情を一変させ、怯えを笑みに変え、媚びるように胸を寄せて彼に擦り寄りだした。
「ごめんなさぁい。でもぉ、そんな顔しないで?ユリィ、こわくてないちゃう」
まるで野生動物が求愛行動をするかのような動きをしたかと思えば、今度は嘘泣きを始めた彼女。この人は、おかしくなってしまったのかしら?ただ呆然とそれを見ていると、グレン様は無言で手を伸ばした。その指先が彼女の顎に向けられる。あら、まるで恋人の顎を優しくすくい上げる、口付けの前のワンシーンのよう——なんて甘いものはなく。彼の手は、迫りくる彼女の顔面をガシッと鷲掴みにした。
「ふぐっ!?」
美しい長い指が彼女の顔面にめり込んでいる。可愛らしいお顔が、潰れて豚のようになっているではありませんか。
「待て。近寄るな。……貴様のその匂い、戦場で嗅いだ覚えがある」
「へ……?」
「敵国にも、貴様と同じ甘ったるい匂いのする者がいた。それを嗅いだ男たちは、敵味方関係なくそいつの思うがままになる。たしか副作用は肌の荒れ——それほどのもの、化粧では隠れまい」
その瞬間、静粛が訪れた。会場中の時が止まったようだった。
「そして、当人がその事実を知れば、薬の効き目は途端に失われる——らしい」
グレン様がそう告げた、次の瞬間だった。ハル様がその場に崩れ落ちそうによろめいた。
「……あ?私は、なにを……ロゼッタ?」
「ハルさま?」
「……うそだ。こんなの、ありえない」
憑き物が落ちたように目を見開き、呆然と立ち尽くすハル様。
「あ、あぁぁぁ……!ちがう、ちがうんだ、ロゼッタ!わかってくれ!あれはあの女が……薬のせいだった!私の意思じゃない、操られてたんだ!」
状況を理解した彼は、顔面を蒼白にして悲鳴のような声を上げた。
「私は君だけを愛している……!しんじてくれ!こんな女いらない!すべては薬のせいなんだ!」
美しい緋色の長髪を乱してそう叫び、わたくしに手を伸ばすハル様。唖然としている彼の仲間たちに取り押さえられながらも、彼はこちらへ這いずろうとしていた。その瞳は絶望の涙で濡れているけれど、もう濁ってはいなかった。その瞳には、わたくしだけが映っている。晴天の青空のようなその澄んだ色は、かつてわたくしが愛したものだった。
そのあまりの衝撃に、わたくしは口元を手で覆って言葉を失い、目を見開いて固まっていた。
(うそ、でしょう……。そんなものがこの世に存在するなんて。ということは、彼は……ハル様は……)
彼も被害者だったのだ。全ては運命の悪戯だったのかもしれない。少しでも何かが違えば、彼とわたくしが共に笑って歩んでいける未来もあったのかもしれない。でもそれは全てタラレバに過ぎない。どうしたって、過去には戻れないのだから。彼を愛していた伯爵令嬢のわたくしは、あの日、あの路地裏で、もう死んでしまったのだから。
「ごめんなさい、ハルさま。あの頃のわたくしは、もう死んでしまったのです」
「そんな、いやだ!いやだ、いやだぁぁぁあああ……っ!もどってきてくれ!いかないでくれぇぇえ!」
子供のように泣き叫ぶハル様に背を向け、わたくしは歩き出した。あぁ。わたくしはまだどこかで、彼のことを想っていたのかもしれない。彼を想う気持ちなんて、グレン様と過ごすうちに、もうとっくに焼き切れてしまったのだと、そう思っていたのに。どうしてこうも、胸が張り裂けそうに痛むのでしょうか。
「あぁ……なぜ、なぜこうなったんだ」
振り返るとそこには、ぶつぶつと呟き頭を抱えて、床に顔をきつく擦り付けて泣き叫んでいる彼がいた。どうしてこうなってしまったのかと、わたくしも一筋の涙を流した。脳裏に浮かんだのは、まだ小さなわたくしの手をとり、「僕が守るから!ロゼッタは大きくなったら、僕のお嫁さんになるんだよ」と導くように歩いていた緋色の彼の小さな背中だった。
懐に入れて肌身離さず持ち歩いていたあの指輪を、わたくしは今、彼に返すべきかと思った。そうして握りしめたわたくしの手を、あの大きな手が包み込む。
「グレンさま……?」
「その指輪は、お前が命より大切にしていた物なんだろ?……なら、あいつの為にも、お前が持っていてやるといい」
青い瞳を細めて優しく微笑み、そう言った彼はわたくしの頭を撫でた。その手の温もりに縋るように、わたくしは両親を亡くしてから初めて、声をあげて思い切り泣いた。これを突き返すことは、今いる暗闇の更に奥へと、ハル様を突き落としてしまうことなのかもしれない。あぁ、どうしてこの人はこんなにもお優しいのでしょうか。このような人に出会えて、心を通わせられて、わたくしはなんて幸運な人間なのでしょう。
——ユリィ・フラーヴィ男爵令嬢はその後、魅了の劇薬を密輸し、国の秩序を乱したとして複数の罪に問われた。あの妙薬による被害が貴族階級から平民にまで広く及んでいたことが判明し、彼女の家は全財産没収の上、爵位を剥奪。彼女は国外追放に近い形で、僻地へと送られたという。そして、ハル様。彼は薬物後遺症のため、入院生活を送っている。経過は良好でもうすぐ退院を控えているが、かつてのような絶対的な自信は消え、どこか遠くを見つめるような瞳をすることが増えた。失った時間は戻らないけれど、それでも彼は、自分の足で一歩ずつ歩き出そうとしている。
屋敷にて、わたくしとグレン様は同室になった。まだ籍は入れていませんが、ハル様の療養が終わった後、あの薔薇の庭園がよく見える教会で、小さな結婚式を挙げようと話しています。
「おい、ロゼッタ。今夜は俺のベッドで寝ろ」
「え?」
「これは絶対だ」
わたくしの手を少し強く握り、眉をぴくりと動かしてそう言った彼。その必死な姿があまりにも愛おしくて、笑いが込み上げてきた。最近わたくしがハル様のことばかり気にかけているから、ヤキモチを焼いているのかも。グレン様は嫉妬なんてしない、想っているのはわたくしばかりだと思っていましたが、違ったみたい。「あの人、素直になれないだけで本当はすっげぇ嫉妬深いですから」と部下の方がこっそり教えてくれたのを思い出した。そう言われてみれば、彼の手には力がこもっているし、耳なんて真っ赤だわ。それに気づいたとき、今までの不安はなんだったのかとおかしくて、思わず吹き出してしまった。
グレン様といるわたくしは、気づけば笑ってしまっている。彼の隣から見える景色は、毎秒鮮やかに色づいている。――お母様、お父様。かつて路地裏で死にかけていたわたくしは今、世界で一番の幸せ者です。あなたたちの娘は、この不器用で愛おしい英雄様を、心から愛しています。




