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第六話 謁見式

戦闘の描写に伴う暴力・流血表現を含みます。

 「雨の谷」へ辿り着いたのは、更に十数日後、夜明けの刻限であった。

 道幅は狭いもので、忙しなく曲がり角へと行き着くこの風景を見ると、一行がわざわざ裏通りを選んでいることは明らかだ。人の往来は、まだない。とても静かだ。馬蹄が地を踏むささやかな音だけを聞いていた。

 道の両側にはびっしりと家屋が続いている。それらは見上げるほどに屋根が高く、また延々と立ち並んでいるので、まるでそびえ立つ塀だとイオは思った。このままでは押し潰されてしまいそうだ。首都に入るまで抱いていた期待と高揚は、今ではすっかり気後れへと転じている。耕作地に囲まれて生まれ育った彼女には全く初めての眺めなのだ。

 また、曇り空が広がっている。天気に陰りがあるせいか、イオの目には、軒を連ねる家々の輪郭がやけに色濃く映るのだった。

 橋を渡ると、黒い瓦屋根の大きな建築物が見えた。一見して、

(あれが領主さまのお屋敷だ)

 とイオは思ったが、すぐに間違いだと気づいた。それは屋敷へ通じる門に過ぎなかった。はらわたに響く低音と共に重厚な門が開いた。

 石畳が整然と広がっている。

 その向こうで、一際堂々とした建物がそそり立っていた。

 一行はそこで馬を止めた。

 イオは、地上に降り立つなり嘆息した。屋敷の壮麗さに対してである。

 円い柱が、太やかなものから華奢なものまで、広間の奥へと等間隔に立ち並んでいる。それらは燃えるような紅色だ。イオは、そのうちの一本に目を留めると、視線だけで辿り、天を仰いだ。そして息を呑んだ。天井は高く、一面が鮮やかな緑で染まっており、隙間なく彫刻が施されている。これほどの豪邸には夢想の中でも出会ったことがない。が、これまでの道のりを思い返すと、恐らくここは裏口であろう。

 数人の家来が出迎えた。彼らは恭しくお辞儀をしたが、イオは、それが自分に対するものだとは気づかなかった。だから気抜けしてその光景を眺めた。少し経ち、今更めく己の立場を思い出して首を赤くした。

 イオは千里眼という人並み外れた目を持っており、領主がその能力を買った。彼女は故郷を旅立ち、そして、とうとう首都に入った。今後、祭司という名の役職に就き、千里眼をもって領主の補佐をするのだ。

 ふと、心もとなくなった。

 イオは振り返った。リーの姿を探そうとしていた。

 彼は、やはり先の戦闘で怪我を負っていた。剣による創傷は見当たらないが、左腕が肘から手首にかけて酷い内出血を起こし、腫れ上がっていた。軍医の見立てでは骨に異常があると言う。加えて、数日前よりにわかに発熱している。一刻も早い治療が必要だった。無論、自力で手綱を握ることができないので、イオとは別の馬に乗って帰還した。

 一同は、長旅を終えた安堵感に包まれている。その間を縫ってリーの姿を認めた。彼は、他の兵士の手を借りて馬から下りるところだった。

(彼に駆け寄りたい)

 でなければ二度と会えないのではないか。と、イオは漠然として思った。だが状況が状況だ。女官の一人が進み出て、イオの手を取り、屋敷へ上がるようにと促している。逆らえばひんしゅくを買うかもしれない。

 が、イオは驚くべき行動に出た。

 女官の手を振り払うと、人々の間を通り抜けて、リーに縋りついたのである。己の欲求に服する、ということは、かつて女中の身であった彼女の生活環境を思えば信じがたい振る舞いだ。

 リーは呆気に取られてそれを迎えた。

 しかし、それ以上にイオ自身が愕然としていた。

「お案じなさいますな」

 と、リーは言った。人前なので彼は敬語を用いている。

「日が昇れば謁見式があります」

「えっけん?」

「領主さまとお話をするということです」

 そのとき、イオの表情があまりに不安げだったのだろう。リーは諭すように笑った。怪我のせいだろうか、それは少し力なく見えた。

「それまでに旅の疲れを洗い流して、少し休みましょう。私は、まずはこの腕の手当てです。それが済めば、すぐあなたに会いに行きます」

 確かに、長旅の汚れが全身にこびりついている。この姿で屋敷の床を汚すわけにはいかなかった。領主に拝謁するなどもってのほかだ。何より、イオ自身が、温かな湯に頭から浸かることを望んでいた。

 けれども先立つのは心細さだ。

「一緒にいて欲しい」

 と言えば分かりやすいところを、イオはこれも性分で、黙り込んだ。リーに走り寄ったときの勢いは既に衰えていた。すっかり畏縮すると、リーの着物の裾を掴んだまま、ぐっとうな垂れた。見知らぬ人々に囲まれて小さくなるのは、よほどの豪胆でない限り、大抵の人はそうであろう。

 まあ、と声を上げた女がいた。

「今生の別れでもあるまいし」

 豊満な身体を揺らして笑う中年女性は、女官長のソンヤと名乗った。

「さあさあ、まずは湯殿です。新しい着物も用意しましょう。お好きな色は何ですか? たくさんあるのですよ。私と一緒に選びましょうね」

 ソンヤは明るい調子でイオに話しかけた。目尻に笑い皺があり、それが彼女の明朗快活な印象をよく際立てている。

 次に、ソンヤはリーに声をかけた。

「もちろんあなたの分も。何色が似合うかしらね」

 それが、イオに向けたものと同様、子どもに言い聞かせる語調だったので、場がどっと沸いた。皆が笑っている。ソンヤは戯言を口にしたのだ。

 ややあって、ソンヤは不意に目を細めると、

「よくお帰りなさいました」

 と、誰よりも深く長く頭を下げた。

 イオはリーと別れ、ソンヤに従い屋敷へ上がった。

 道すがら、ここ数日の屋敷の様子などをソンヤは語った。

「砂漠で蛮族に襲われたでしょう。そのあと、『七つ平野』の方角から一羽の伝書鳩が飛んで来て、特務軍の危機を我々に知らせました」

 特務軍とは、リーが所属していた騎兵隊のことである。

「すぐに援軍が向かいました。が、彼らが見たのは、砂漠に埋もれた『雨の谷』の兵の亡き骸たちです。そこにあなたの姿はありませんでした。蛮族に連れ去られたのだ、と。屋敷の者は口には出さずともそう思い込み、半ば諦めていたのです。まさかご無事でいらっしゃるとは……」

 その後、湯殿に通された。入浴を終えると、寝室へ案内されて、イオは寝台に重い身体を横たえた。それから浅い眠りについた。


 朝になり、人々は謁見の間へと参列した。

 見渡す限りに豪奢の行き届いた大広間である。

 やはり紅色の円柱が立ち並んでいる。建物と外との間に壁はなく、自由に風が吹き抜ける造りであるため、ふと視線を向ければ、屋内にいながらにして青々と茂る庭園を眺望している。穏やかに流れる川と、対岸を結ぶ石橋が見える。川岸には立派な堂があり、更に離れたところには、天に向けてそびえ立つ塔が建っている。

 夜明けと共に雨雲は消え、今では青空に太陽が輝いている。

「このお屋敷では」

 と、ソンヤはイオに礼儀の作法を説いた。

「目上の方を敬うことが尊ばれます。領主さまがお見えになったら、ひざまずき、顔を伏せて、よいと言われるまではその姿勢でいること。決してあなたの方からお声をかけてはいけません。よろしいですか」

 イオは頷いたが、実際のところ、頭がぐらぐらしてきた。

 ソンヤは、イオの着物の裾を整えるとその場を辞した。

「お金持ちになったみたい」

 イオは隣にいるリーヘ囁いた。高揚した声だ。指先では、首にかけている装飾品に施された大きな飾り石に触れている。身につけた布地の肌合いもすべらかで心地よい。朝に目覚めてからここへ入るまでの至れり尽くせりの待遇を思い出すと、まるで夢の出来事のようだ。

 リーは薄く笑ってそれに答えた。

 言外に私語を諌めているようであった。ほどなくして領主が入室する。堂全体が、ぴりりとした緊張感を抱いていた。

 リーは礼服の上に裾長な上衣を羽織っている。落ち着いた趣のある出で立ちは、物静かな彼の人柄とよく馴染んでいた。イオは好意のこもった目で彼を見つめた。武官の無骨さは彼にはなかった。寧ろ、剣より書簡を好む文官といったなりである。

 また、首から白布を提げて、負傷した左腕を吊って固定している。イオは浮かれた発言の不謹慎さを自覚すると、声音を落とした。

「怪我は?」

「心配いらない。お前こそ体調は」

「もう大丈夫」

 やがて広間の空気が変わった。

 居並ぶ家来が一斉に跪いた。領主の入室である。

 広間の後方には、家来たちと、ソンヤをはじめ女官たちがずらりと並ぶ。彼らの先頭にイオの座がある。少し下がったところがリーだ。二人の正面に上座があり、領主の腰かける椅子が置かれている。その脇には領主の親族の席があり、更に彼らを守護する形で高官の家臣が顔を並べているのだった。圧倒されるほどの人の多さだが、ソンヤいわく、屋敷の人間のごく一部に過ぎないらしい。

 だが祭司は参列しない。その理由を、

「あの方は守り神だから。俗世の者の目に触れることはできない」

 とリーは語った。つまり祭司は神仏と同じ存在である。人ではない。この屋敷の奥深くに鎮まり、俗世間との繋がりを絶っている。

 ではイオはどうか。彼女はまだ世俗の人である。しかるべき儀式を執り行って、やっと、祭司と同じ高みに昇るのだ。

 イオは動揺して立ち尽くしていた。リーに促されてから、はっとして膝をついた。そして見様見真似で身をかがめた。自分の足元を見つめていると、上座の方で、大勢の衣擦れの音がした。やがて静かになった。

「イオと言ったな」

 と、頭上から低い声がかけられた。

「は、はい」

「顔を見せなさい」

「はい」

 一瞬、イオはためらった。そして恐る恐る顔を上げた。

 目の前の上座に、深い微笑みを浮かべた老齢の男が腰を据えている。人一倍の巨漢に見えるのは、恰幅がよく、その上からたっぷりとした仕立ての着物を身につけているためだろう。が、イオが抱いている緊張感が与えた錯覚かもしれない。どちらにせよ彼女は一目で圧倒された。

 イオは脳裏が真っ白になってしまった。だから、領主が何ごとかを彼女に問いかけたとき、耳では聞いているが頭が理解できなかった。

「はい」

 と、わけも分からず顎を引いた。

 だがそれは珍妙な受け答えであったらしい。

「あっははは」

 と、領主は大口を開けて笑った。

 イオは慌てた。緊張のあまりに失態を演じたかと思ったのだ。後ろのリーを見たが、彼は顔を伏せたまま微動だにしない。ひたすら黙している。

 領主は次にリーへ顔を向けた。

「お前の働きには感服した。ただ一人で彼女を護り抜き、私のもとへ送り届けるとはな。それは辛い旅だったことだろう。腕の具合はどうだ」

「おかげさまにて」

「まずはよく休み、身体を癒せ」

「はい。ありがとうございます」

 謁見式は、この短いやり取りで終わった。

 イオはぼんやりしたまま領主の後ろ姿を見送った。

 そのときだ。

 イオの視界の隅で、何かが、ちかちかと光った。

 イオは思わずそれを視線で追った。庭園の方角である。奥にそびえる塔の最上階に濡れ縁があり、その場にある何かが、日光を反射して小さな白い光を放っているのだ。イオは目を凝らした。

 そして、見た。

 塔の最上階に人がいる。

 一体、誰だろう。と思ったとき、にわかに頭痛に襲われた。

 脳裏の奥で女の声が響き渡った。

(こっちを見て)

 聞き慣れぬ声である。あの塔に立つ人物のものだと、イオは直感で思った。彼女はこちら側に対して必死に訴えかけていた。

「どうした」

 リーがイオの背を支えた。

 イオは彼に縋りついた。彼女は、依然として脳髄を抉るような痛みに耐えている。天地も分からず呻きながら、やっとのことで声を絞り出した。

「あの塔に誰かいる」

 少しの間のあと、誰の姿も見えないとリーは言った。

「さっきはいたの」

「誰が」

「分からない。こちらを見て、心の中で叫んでいた」

「何を」

「レイ、私を見て。私に気づいて。お願い、お願い……」

 やがて頭痛が止んだ。

 イオは顔を上げて、ぎょっとした。家来たちに囲まれている。皆、突然の出来事に度肝を抜かれ、思わず自分の座を立ったのだ。だが対処が分からなかったのだろう。イオに駆け寄ったものの、当惑した表情で狼狽するしかできなかった。イオが落ち着いたことを知り、全員が安堵の顔に変わった。

 やってしまった。

 と、イオは思い、急いで姿勢を整えると、額を床に擦りつけて無礼を詫びた。領主からの叱責を予感したからだ。まさか、このような場で千里眼が働くとは夢にも思わなかった。

 だが静まり返っている。

 おや、とイオは思う。そうっと上座を伺い見た。領主とその親族、そして側近たちが、ことごとく驚きの表情を浮かべてイオを見下ろしている。

 いや、違う。イオではない。

 彼らが見ているのはリーだ。

 イオの後ろに控える家来たちが跪き、身を低くかがめている中で、ただ一人、リーだけがおもてを上げている。そして一点を凝視していた。

 イオが先ほど口にした塔である。

 イオはリーの横顔を仰いだ。彼は大きく目を見開きながら、ただ、塔だけに視線を注いでいた。それ以外のものは何も見えていないようであった。何も言わず、また、呼吸を忘れたかのように身体を強張らせている。彼の表情から読み取れる感情は一つだけだった。それは、驚きそのものだ。だが、やがて別の何かが潜んでいるようにもイオは感じた。喜びのようでも、悲しみのようでもあったが、詳細は分からない。その異様なリーの姿に、場に居合わせた誰もが言葉を失っていた。予想外の出来事に、彼の無礼を咎める声すら上がらないのである。

 イオは塔を見た。もはや誰の姿もない。

 無音の時が過ぎた。

「何ごとだ」

 とうとう、側近の一人が沈黙を破った。

 リーは、はっとした。

「失礼いたしました」

 と口早に言い、その場にひれ伏した。

 それから上座の人々が退室した。イオは、自分の足元を見つめながら、彼らの衣擦れの音を聞いている。そうしながら思い返していた。

 先のリーの奇行についてである。

 イオの知るところ、リーとは、常に隙のない男だ。口で冗談を発し、表情では笑っていても、どこかぴんと張り詰めた心根を持っていた。無論、窮地においても泰然とした態度を崩さない。従ってイオはこう思っていた。リーは感情を露わにする類の人ではない。喜怒哀楽の起伏が生じたときでさえ、その変化の流れは穏やかで、決して滾ることはないのだ、と。

 それは誤解だった。

 イオは、リーの無造作な一面を見た。そして、今、動揺を覚えている。彼が遠いところの人になってしまったように思えたからだ。

 イオ、と隣でリーが囁いた。

 イオは俯いたまま彼に注意を払った。

「さっき『見た』ことは誰にも言うな。聞かれても、知らぬで通せ」

 なぜ、とは聞けなかった。リーの切迫した声には、反論も疑問をもはねつける何かが宿っている。イオはちらりと隣を見た。

 リーは黙然と顔を伏せている。

2010年9月

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