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第五話 闇の中

戦闘の描写に伴う暴力・流血表現を含みます。

 その夜に事件は起こった。

 イオが目を覚ましたとき、室内は暗く、時分は夜だと分かった。その中でも更に色濃い人影がイオを見下ろしている。リーだ。彼女の肩を揺さぶりながら、何ごとかを囁いている。

「誰かがいる」

「えっ」

 飛び起きた。

 リーは、部屋の外に人の気配がすると言っているのだ。

 こういうときの手はずは事前に教え込まれている。イオは、寝台からそろりと降りた。手早く荷物をまとめると、それを抱きかかえて、室内の一番奥の隅に座り込む。それから両手で耳を塞いだ。

 これは、先日、砂漠で襲われたときと同様、

「ことが澄むまでは何もせずにじっとしている」

 それを貫き通すように言い含められているからだ。

 目を閉じる寸前、リーが剣を抜くのを見た。

 が、暫時、何も起こらない。

 静かだ。

 イオは自身のまぶたの裏側を見つめている。

 闇の静寂に身を置いていると、

(今度こそ駄目かもしれない)

 という不安が浮かび上がってくる。それは、次第に、胸中で渦巻く恐怖となった。イオは一層身を硬くした。何といっても、イオを護る立場の人間は、もはや彼をおいて誰もいないのだ。つまり、共に斬り込む者も、後方に控える者もいない。たった一人なのである。対して、相手の総勢は分からない。リーがどれほど優れた剣士だとしても、多勢に無勢であれば、今回ばかりは難しいのではないか。

 しかしイオは心のどこかで楽観していた。

 先の戦闘においてリーはイオを護り抜いている。その一件が、彼女の心の奥底に、絶対的な信頼という名の根を張った。

 別の一因にはリーの人柄がある。

 彼はひたむきな男だ。任務遂行を最優先として、常にその姿勢を崩さなかった。また、イオに対する所作の一つ一つが細やかで友好的だった。千里眼への理解も深い。時おり見せる物憂い一面は、彼の出で立ちに不思議な緊張感を与えており、一層、イオの心は騒ぐのだった。

 彼ならば、ありとあらゆる窮地を切り抜けることができる。

 イオは依存的にそう思い込んでいた。

 衝突音が、空気をつんざいた。

 来た、とイオは思った。

 まずは大きく床板が揺れた。足音だ。方々で、何かがかち合う耳障りな音が飛び交う。その中、怒声や悲鳴のような声が短く上がる。

 イオは強く目をつぶった。脳裏では、闇の中で打ち合う剣の、その滑らかに伸びた刃を思い描いている。思わず両手で頭を抱え込んだ。恐ろしかった。噛み締めた口元からは甲高い呻き声が漏れた。

 喧騒が止んだ。

 しばらくして、イオの肩口に誰かが触れた。

 ぎくり、とイオは身を強張らせた。

「イオ」

 ああ、聞き慣れた声だ。ため息が零れた。力が抜けた。目を開けると、暗がりの中にたった一人、男が立っている。無論、リーだ。やはり彼だ。

 イオは立ち上がると、リーに先導されて部屋を横切った。暗い。月明かりだけが頼りだった。夜目に慣れているとは言え足取りは覚束ない。

 途中、爪先が何かに触れた。

 見下ろして、イオはぎょっとした。人だった。それも一人ではない。視線を走らせると、ニ、三人は床に伏せている。死んでいるのだろうか。

 二人は、扉ではなく窓へ向かった。

 リーは窓枠へ腰を下ろすと、屋外へ身を乗り出した。イオは彼の身体を踏み台にして外壁へと縋りつく。一瞬、地上に視線を走らせて、その高さに足が竦む。だが今はそれどころではない。無我夢中で屋根へとよじ登った。こうして窓から逃げるというわけだ。

 上は、平らな造りで歩きやすい。全身を使って登り切ると、イオは座り込んで天を仰いだ。夜空が澄んでいる。ぽっかりと浮かんだ白い月が印象的だった。イオは、やや呆然としてそれを眺めた。やがてリーが外壁を這い上がって来ると、慌てて腰を上げ、彼を引っ張り上げた。

 リーはすぐには立ち上がらなかった。膝を折り、両手を地について自身の体重を支えると、しばらく顔を伏せて荒い息継ぎを繰り返した。

 イオは複雑な気持ちでそれを見つめていた。暗闇での多勢を相手にした戦いが、どれほど無謀で、それゆえに、どれほどの恐怖を伴うものか、彼女には計り知れない。だから、かけるべき言葉が見つからないのだ。戦力においては言うまでもなく、また、彼の精神面においても、何ら手助けとなれない己の存在がもどかしかった。

 先に口を開いたのはリーの方だ。

「怪我は?」

「大丈夫。リーさんは?」

「無い。……体調は?」

「何とか」

「走れるか」

 無論、万全ではないが、この際は頷くほかない。

 二人は屋根伝いに走った。何軒か先で地上へ下りると、そのまま村の外に出て、再び砂漠へと足を踏み入れた。

 歩き続ける。

「あれは、前に私たちを襲った人たち?」

「分からない」

 リーは前を向いたまま答えた。

 馬を置いてきた。着の身着のままである。第一に、味方はもういない。次に襲われたらひとたまりもない。だから、今はとにかく前へ進もう。この先をずっと行ったところに、かつて町であった廃墟があり、有事の際にはその場で援軍と落ち合う手はずになっている。そこを目指そう。そういう旨のことを、リーは早口に言った。

「どれくらいで着くの」

「馬で十日ほど」

 では、徒歩なら更に日を要するということだ。

 その絶望的な日数にイオは言葉を失った。


 月夜の下を黙々と歩き続ける。

 道中、沈黙に耐え切れずイオは口を開いた。

「領主さまはどんな人?」

 リーはしばらく黙ったあとで、

「お優しい人だ」

 ぽつりと答えた。

 彼がそれきり何も言わないので、会話は途切れた。イオが途方に暮れていると、その困惑に気づいたのか、リーは更に言葉を続けた。

「天涯孤独。血筋は知れない。育ちは低劣。ただ剣を振り回すしか能がない。こんな俺でも何かの役に立てるということを教えてくださった」

 聞きながら、イオは眉をひそめている。

 リーが、今までになく、吐き捨てるような口調を使ったからだ。

 恐らく、殊更にぞんざいな言葉で己を卑下することで、領主を讃えようとしたのだろう。それにしても、とイオは思う。これまで泰然と構えていた彼にはあまりに似つかわしくない言い振りだ。疲れだろうか。それとも、この窮地のせいか。彼が余裕を失いつつあるのは明らかだった。

 だが領主に抱いている恩義はひしひしと感じられた。

 出生の事情にこだわらず、各人の能力に応じて相応しい地位や任務を与える。領主は適材適所の観念を持つ人物であると言う。リーはこの仕事を成し遂げてその恩に報いたい、と考えている。何となく、寛大な現実主義者といった領主の徳ある人格が脳裏に浮かんでくるようである。

(首都へ行かなくてはならない)

 イオは改めて決意した。

 領主の元に辿り着きさえすれば、あとは素晴らしい前途だけが待っている。きっとそうだ。また、そうすることで、リーの希望をも叶えたい。

「『雨の谷』はどんなところ?」

「……」

 リーは答えなかった。

 いよいよ彼の様子がおかしい。

 イオは、前を行くその後ろ姿を見上げた。

 そのときだ。彼の背中がぐらりと揺れた。そして芯を失って崩れた。膝をつくと、砂地に四つん這いとなって身を丸めた。

「リーさん!」

 彼は右手を立て直すと、その腕力だけで立ち上がろうとした。だが無理だ。すぐに脱力すると砂地に顔を伏せた。激しく咳き込んだ。

 先ほどの戦闘で怪我をしたのだろうか。

 イオはリーの隣にひざまずくと、彼の身体に視線を走らせた。だが夜の闇のせいで出血は見て取れない。ぞっとした。彼は手負いをひた隠しにしていたのだろうか。血を流しながらも、何食わぬ顔で歩き続け、イオと言葉を交わしていたのだろうか。それはどれほどの激痛だろう。

 そのとき、イオの耳が物音をとらえた。

 人の声だ。それに砂を蹴る乾いた音も聞こえる。なだらかに隆起した砂丘の向こうから、一騎、二騎と、騎兵が姿を現したのである。

(追いつかれた)

 反射的にイオは身を伏せた。とは言っても見通しのよい砂漠でのことだ。月も出ている。二人の姿は、またたく間に騎兵の目に留まった。相手は、素早く馬を操り、方向転換をすると、丘の傾斜を滑り降りて来る。その総勢の、おびたたしい数にイオは息を呑んだ。

 が、次の瞬間には、彼女はリーの懐の剣に手を伸ばしていた。動転したあまり、何を思ったか、騎兵を相手に戦おうとしたのである。

 リーがそれを制止した。

「味方だ」

 と、唸るように言うと、彼はとうとう意識を失った。

 くだんの廃墟で合流するはずの援軍が、ここまで足を伸ばして捜索していたのだ。広大な砂漠の中で出会えたことは奇跡に近い。

 ともかくとして二人は助かった。

2010年8月

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