第四話 嘘 (そのニ)
戦闘の描写に伴う暴力・流血表現を含みます。
リーは一徹な男であった。
残す道のりを、たった一人でイオを守り抜かなくてはならない。その難局について一言の苦慮も漏らさなかった。また、行動の面でもそうだ。
「首都へ戻る」
それ以外の選択肢を持たないのである。立ち止まる、振り返る、道を外れるといった考えが、ことごとく脳裏から抜け落ちているかのようだ。
その姿はイオにとって心強いものだった。窮地を行くとき、先導者に迷いがない場合、あとに続く者の決心が揺らぐことはない。
「なぜ、私を信じてくれるの」
道中、たまらずイオは尋ねた。リーの言動が確固としているわけを知りたかった。それは、イオの千里眼を信じているからであろう。では、なぜそう思うのか。彼からの信頼に値するものなど、身に覚えがない。
「お前は本物だよ」
案の定、リーは肯定した。
「祭司さまが、そうだと認めたから」
と、首都にいる千里眼を引き合いにした。
イオは話題を変えた。
「『雨の谷』に辿り着けるかな」
「必ず。領主さまとの約束だ」
そう、とイオは顎を引いた。それきり口をつぐんだ。
リーの言葉には含みがあり、
「あなたが本物だと信じている。が、それは祭司さまのお言葉があるからこそで、あなた自身を認めたわけではない。この旅に命を懸ける所存だが、それは自分に与えられた任務である。ほかの理由などない」
とまでは憶測がすぎるだろうが、本懐はそれに近いのではないか。
リーが信を据えるのは、あくまで砂漠を隔てた遠地、首都だった。領主であり、祭司である。イオではない。彼女はリーの眼中の外にいる。
とうとう、イオはそれに気づいた。
と同時に、
(なぜ、私を信じてくれるのか、だなんて)
それがどれほど無知で、自惚れた問いかけであったかを自覚した。
お前こそ、とリーは続けた。必要に迫られない場面で、彼の方から話を繋げようとするのは初めてのことと言っていい。
「なぜ、首都に行こうと思った」
幼い身体にはつらい長旅のはず。兵長から旅の存続を問われたとき、彼と行く道を選ぶと思っていた。意外だった。とリーは言った。
あの選択についてイオには思うところがあった。しかし自責の念に駆られる今、どうも口が重い。だから、ぶっきらぼうに、
「どうしてかな」
と言葉を濁して本心を明かさずにいた。
ほどなくして問題が起こった。
イオが体調を崩したのである。
恐らく旅の疲れだろう。にわかに高熱を発すると、重い倦怠感に身体が襲われた。食事も水も受け付けず、いよいよ意識が覚束ない。
とある村へ辿り着き、宿で部屋を借りると、泥のように眠った。
目を覚ますと、室内はほの暗い。
(今は朝か、夜か)
と、ぼんやり考える。
視線を動かすと、見えるのは薄明の空だ。やけに青白い。淡い光が、開け放した窓から床板までに、おぼろげな影を伸ばしていた。
部屋の一角にリーがいる。外の明かりだけを頼りに机に向かっているが、一体、何をしているのだろう。イオは、まだ寝惚け眼だ。寝台で横になったまま、緩慢と動く彼の背中を見つめていた。
リーは、イオの視線に気づいた。手を止めると、顔だけこちらへ向けて、
「気分は」
と、短く容体を聞いた。
イオはしばらく思案した。自分の身体に、同じ質問を投げかけた。
別段、悪くない。
水と食事が用意された。が、食べ物を前にした途端、胸腔から突き上げる吐き気を覚えた。完全に目が覚めた頃になると、何やら身体の芯から気だるい。やはり、全快にはまだ遠いようだ。
いつの間にか戸外は闇となり、夜の時分だと分かる。
リーは窓を閉めた。そして燭台にろうそくを立て、火を灯した。
「眠るか?」
「眠くないの」
「そうか」
「話をして」
「何の」
「何でも」
「…………」
「リーさんの家族の話を」
思い切った質問をした。平素のイオであれば、このようにしてリーの私的な部分に立ち入る真似はしない。そういう分別は心得た娘だ。
ところが、このひととき、今までになく彼を身近に感じていた。
話をしたいと思った。口を開かずにはいられなかった。唇から、他愛ない言葉がぽろぽろと零れ出て、我が身のことながらどうしようもなかった。しかも、だ。リーの内面に及ぶ問いかけをしておきながら、それを悔やんではいないのである。それどころか心安さに浸っていた。
この点、高熱に侵されて思考が鈍っていたのかもしれない。
あるいは、リーが持つ不思議な穏やかさに惹かれたのだろうか。
彼も平然と答えた。
「いないから話すことがない」
「お父さんもお母さんも?」
「いない」
「お兄さんとか、お姉さんは?」
「いない」
「最初から『いない』の? それとも死んでしまったの?」
「最初からいない」
「ひとりぼっち?」
「そう」
「ふうん」
と、イオは、この短いやり取りがだんだん楽しくなってきた。
リーは天涯孤独であると言う。イオもそうだ。また、彼女は捨て子である。つまり家族は「最初からいない」。二人の身の上は同じだった。
「寂しい?」
「ときどきは」
「そうだよね」
イオは頷いた。血を分けた人間が一人もいない、という事実が、どんなに自分を打ちのめすのか。彼女はそれを知っている。
イオはしばらく黙っていた。細く、深く息を吸い込むと、夜気に溶け込んだ悲しみが彼女の肺腑に満ちていく。胸が痛い。息が詰まる。
「ときどき本当に寂しい」
うわごとのように続ける。
みんなが一緒にいるんじゃないか、って。そう思うときがあるんだ。分かる? 私の言いたいこと。お母さん、お父さん。もしかしたら、兄さんとか、姉さんもいるかもしれない。弟や妹も。……どこかの村に、私の家があって、私以外のみんながそこにいて、笑ったり、喧嘩したり、それで夜になると、一つの食卓でご飯を食べる。……私は、みんなとはぐれてしまっただけなんだ、って。何かの間違いなんだって。お母さんは、私と一緒に暮らしたいと思っていて、私のことをずっと探しているんだけど、どうしても見つけられない。私たち、お互いに探し合っているんだ、って。
「なぜ、首都へ行こうと思った」
先日、リーにそう聞かれた。
答えは、こうだ。
「祭司さまに会いたいから。会って、私の目の使い方を教わりたいから。それで、私は、私の家族を見つけ出したい。会いに行きたい」
自分自身の過去を見て、己の出生を知る。両親の行方を辿る。自分の千里眼は、このために天から授かった力なのではないか。
リーは何も言わず話を聞いている。やがて腰を上げると、こちら側へと歩いて来て、イオの寝台の縁に座った。ただそれだけで、何かを説くわけではない。だが心地よい沈黙だ。イオは、手を伸ばしてリーの左手に触れると、そうっと指を絡めた。彼の方もそれに答えた。
「リーさんのお母さんも探してみるね」
「ありがとう」
リーは目を細めた。笑っている。そうすると、ときには冷淡にも見えて近寄り難くもある容貌が、親しみ深い物柔らかさへと変貌した。
この世のどこかに兄がいるとしたら、彼のような人物だとイオは思う。
「ねえ、祭司さまってどんな人?」
「どんな、とは」
「おじいさん? それとも、おばあさん? 優しい人かな?」
「さあ。俺は知る立場ではないし、会ったことがない」
そのとき、触れ合う指に違和感があった。
はっとした。
そうだ。彼の左手は指を欠いていたのだ。イオは思わず手を離した。
リーは、まずはその突然の所作に驚いたらしい。やがて思い至ったのか、申しわけなさそうに手を引っ込めた。
彼の表情を見てイオは激しく後悔した。手を離したのは、不快を覚えたからではない。彼の手の造形について、とうに失念していた。だから、どきりとした。それだけのことだ。大げさに反応した己が恥ずかしかった。
「ごめんなさい」
「あ、いや」
「その指、どうしたの」
リーは自身の左手を掲げた。
燭台の上で、小さな炎が揺れた。
その手は小指を根元から欠いている。
「知らないのか。都会では五本指の方が珍しいんだ」
イオは、えっと思った。土地によって指の本数が異なるという話は聞いたことがない。けれども、ほかならぬリーの言うことである。彼は大人だし、第一、イオより世間を知っている。では、首都からやって来た兵士全員が、四本指であったというのだろうか。
にわかには信じられず、
「そっちの手は」
と、リーの右手を覗き込んだ。
リーは逡巡する素振りのあと、右の手の平を差し出した。
指は、しかと五本ある。
呆気に取られてリーを見ると、彼はくつくつと笑みを堪えていた。
騙されたのだ。
「ひどい」
と嘆くと、自分でも驚くほど頓狂な声が出た。この愛想に乏しい男が、こんな冗談を口にするとは思いもしなかったのだ。
「母親の腹の中でへその緒が絡まったんだ」
「それで?」
「四本目と五本目の指がくっついてしまった。ほら」
「嘘ね」
「嘘だ」
幼稚と世間知らずをからかわれてはいるものの、侮蔑というものは微塵もなく、言われた方も不思議と嫌な気分はしない。双方、笑っていた。
「本当は戦のせいだ」
リーは声音を変えた。対峙した相手の勢いや、剣さばきの様子、自らはどのようにして応戦し、打ち勝ったのか、といった経緯をこと細かに語った。いかにも真相らしく聞こえたが、実のところは分からない。
ただ、イオは、彼がもう一つ口にした嘘を見破っている。
「雨の谷」にいる祭司について、
「知らない。会ったことがない」
と言っていたが、それは嘘だ。
というのは、リーはイオと話す際、必ずと言えるほど視線を合わせようとしない。初めて言葉を交わしたときからそうであった。
千里眼の媒体となるのは、目だ。例えば、人物の過去を探ろうとするときは、イオは相手の目を見つめる。そしてイオ自身の目に映像として映るのである。脳裏に浮かぶのでも、ましてや心で感じるのでもない。
普通の人間がそれを知るはずがないのだ。ある者は、何かしらの儀式が必要なのだと思う。また、ある者は、手を握るだけで伝わるのだと思う。旅の途中で死んだワンは後者であった。
ところが、だ。
リーはイオの目を見ない。ときには不自然に顔を逸らしていた。それは過去を見抜かれるのを恐れ、避けているからではないのか。
思い当たる節はほかにもある。
イオが、自身の力を持て余していることが露見したとき、すんなりと受け入れ、その後も、彼女の力を当てにすることはなかった。
リーは道理を心得ている。それは、千里眼を持つ人物と何らかの関わりを持っている、ということだ。
その人物とは、誰か。
イオの知る限り、彼女自身を除いては一人しか存在しない。
つまり、首都にいる祭司である。
2010年6月