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第三話 嘘 (その一)

戦闘の描写に伴う暴力・流血表現を含みます。

 青白い黎明の空を、

(やっと)

 という思いでイオは見上げた。

 ようやく朝が来る。と、待ち侘びるほどに長い夜であった。首都を発った総勢十数の兵は、何者かの襲撃によって散り散りとなり、残るは三騎のみとなった。それが、たったの一晩で起きた出来事である。

 彼らは、もはや行軍の形を成していない。

 では、その顔触れは。

 先陣を切るのが兵長、リーとイオの馬がそのあとに続く。

 少し遅れを取っているのが兵卒のワンである。

 彼は負傷兵だった。先の戦闘で脇腹を斬られて以来、とめどなく血が流れている。その深手を押して馬を走らせていた。やがて自力での騎馬が難しくなり、減速すると、見る見るうちに隊から引き離されて行った。振り返り見ると、ほとんど馬の背にしがみつくようにしている。

 馬を止めた。

 ワンは介添えされて横になった。患部に巻かれた白布を取り替えると、たちまちのうちに血で赤く滲み始めた。が、止血の術がない。血が流れ続けている限り、彼の命はいずれ尽きるであろう。

 イオはワンの介抱に専念した。しかし商家の小間使いに医療の学があるはずがなく、彼女のそれは単なる真似事に過ぎない。

 無用のことをしている。

 と自覚したとき、瀕死のワンと向き合うのが急に耐え難くなった。見慣れぬ血に対する恐怖心は勿論のこと、死が取り巻く一種異様な沈痛さというものに、頭から押し潰されてしまいそうで苦しかった。

 ワンが浅い眠りに落ちると、イオはその場を立った。

 兵長とリーの話し声が聞こえている。

「無理だ」

「むり、とは?」

 漏れ聞いたその言葉が酷く無情に思えて、イオは思わず声を荒げた。

 言葉を発してから、しまった、と後悔した。

 兵長とリーが顔を上げた。続く、二人の表情の変化が対照的だった。

 まず、リーは露骨に、

(いたのか)

 という顔をした。それから煩わしげに黙り込んだ。子どもに話の腰を折られた場合、この反応が最も正常であろう。

 だが兵長の方は。

 眩しげに目を細めてイオを見た。歩み寄ると、

「祭司さま」

 と、いずれ与えられる役職で彼女を呼んだ。

「あなたの目で見て欲しい。昨夜、我々を襲ったのは何者か。彼らは、今、どこまで迫っているのか。……我々はこれからどうするべきか。どこかに留まり援軍を待つのか、それとも、このまま首都を目指すのか。先へ進むとしても、一体、生きて辿り着けるのだろうか……」

 彼らは、ワンの容体について相談していたのではない。

 この行軍そのものを指して、

「無理だ」

 と思い惑っていたのだ。

 しかも、兵長はその判断をイオに委ねようとしているのである。

 イオは愕然とした。これまで、行軍の動向について推し測り、協議のうえでそれを決定するのは、隊の上官であり、あるいは他の兵士だった。イオではない。彼女は護られる側の人間だ。隊が下した決断に身を委ねていれば、そうしているだけで、首都へ辿り着けるはずだった。少なくとも彼女自身はそう信じ、それ以外の事態は微塵も考えなかった。

 だが今は違う。

 この難局で、それらの務めがイオに一任されたのだ。

 ぞっとした。三つの人命を預かる、という重大さにである。しかも、そのうちの一人は瀕死の怪我を負っている。

 イオは天を仰いだ。

「見えるだろうか」

 今一度、兵長はイオにすがった。圧倒されて、

「はい」

 とイオは答えた。嘘だ。

 内心、それこそ無理だ、と言い返したかった。

 イオの千里眼はほぼ受動的だからだ。つまり彼女の意志ではない。

「今、これを」

 と思った瞬間に望んだものを見られるわけではない。不意に、予期せぬものを見るのである。昨夜、伏兵を探り当てたのも同じことで、彼女にしてみれば全く不測の出来事なのだった。

 加えて、彼女の力は過去にのみ及ぶものだ。

「彼らは何者か。今、どこへいるのか。我々は任務を遂げられるのか」

 といった、対象の正体や今現在の動向、あるいは未来に関することは専門外だ。しかし、千里眼の道理を知らない者に、その使い勝手が理解できるはずはない。現に、兵長は頼みの綱としている。

 それに、役立たずの力だと、彼らの失望を買うのを恐れた。

 否、とは言えなかった。

 やや呆然として、イオは無意識にリーを見た。かちりと目が合う。すると、彼は不自然に目を逸らした。そのまま一言も発しなかった。

 その頃、ワンの容体が悪化している。

 イオはそばにひざまずくと、力のない彼の手を取り、

「大丈夫です」

 と、何の効能もない慰めの言葉をかけた。

 ワンは薄く目を開けた。重いまぶたを持ち上げると、もはや生気の乏しい瞳でイオを凝然と見た。わずかに手を握り返され、

(おや)

 と思い、イオも彼を見返した。何やら訴えたいことがあるようだ。

 ワンはそれだけの動作で力尽きたらしい。目を閉じると、

「私の家族はどうなるだろうか」

 と、ため息をつくように呟いた。

 イオは、初め、その質問の意図が分からなかった。単なる独り言とさえ思った。だが即座に理解した。千里眼で見て欲しい、と彼は言っている。

 前述のとおり、己の意志で扱える力ではない。予見もできない。だからこれはイオに課された試練であった。彼女は顔を上げると、遥かな地平に視線を馳せた。眉を寄せ、目を凝らす所作をする。やや思案した。そして朗報を見つけたかのように目を見開いた。とはいっても見せかけの動作であり、実際に何かを見たわけではない。

 それでもワンの顔を見下ろすと、努めて微笑んだ。

「みんな、ずっと元気で幸せに暮らします」

「本当か」

「はい。見えました」

 ありがとう、とワンは言った。笑っているようだ。リーとさほど変わらない年頃の男だが、血を失いすぎたせいで凄惨に人相が変わっている。

「お嬢さん」

 とワンは続けた。このときは声を潜めている。

「逃げなさい。領主さまは、あなたの目を使って戦を起こすつもりだ。『雨の谷』へ行けば、なるほど、何不自由ない暮らしができる。でもそれは人間としてではない。人殺しの道具として、だ。……どうか逃げなさい」

 それ以上を語らずにワンは死んだ。

 簡易的な弔いの儀式を行ったあと、イオは一人で砂の大地を眺めた。

 ワンの遺した言葉を反芻している。

(いくさ? いくさだって?)

 領国を救うための指針となって欲しい、と領主の使者は言っていた。その心底にまで思い巡らしたことはなかったが、果たして、ワンの言葉どおりであろうか。己の目に、そんな使い道があるとは露知らずにいた。

 背後にリーが立った。

「何か見えたか」

 期待の篭らぬ声で彼は聞いた。

 否、と見破ったうえで、それを確認している。そんな問いかけだった。いよいよ変わった男だ、とイオは思う。リーだけは、彼女の千里眼を過信していない。寧ろ、使い勝手の悪さを知り抜いているようであった。

 イオは俯いた。ごめんなさい、と自分の足元に向けて呟いた。

 首都からやって来た騎馬兵の面々を思い返す。

 彼らは、イオの力がこれほどのものとは知らなかった。知らないままに、厳しい砂漠越えへと旅立ち、命を懸けて彼女を護り、そして死んでいった。ワンのように、故郷に家族を残した者も多くいただろう。そして、リーと兵長に対しては今なお迷惑をかけている。できもしない務めを引き受けたせいで、彼らは、何ら無益な時間を過ごす羽目になっている。

 そうか、とリーは低く言った。

「昨夜の兵は恐らく他国の軍隊だ。あなたの力を狙ったのだと思う。もう、近くに迫っているかもしれない。ここで無駄に過ごすのが、どれほど危険か分かるだろう。彼に、『首都を目指すべきだ』と言うんだ」

「嘘を言えと?」

「嘘ではない」

 リーは言い切った。

 その語気が鋭いので、イオは頷いてしまいそうになる。

 そうだ。兵長がイオを頼る限り、彼女が何かしらの判断を下さなければ、この状況は動かない。では、何を言うのか。冷静に局面を見る目を持つ兵士の言こそ最善だろう。つまり、リーだ。

 何も見えない。

 と、真実を打ち明けて、わざわざ失望を買う必要はない。リーもそう言っている。この場合、彼の言葉を借りて前に進むべきかもしれない。

 イオは、ワンに対してもある種の嘘をついた。

 それと同じではないか。

(全然違う)

 イオはかぶりを振った。

 この場を発ったとしよう。

(それで、敵に先回りをされていたら? また斬り合いになったら?そうでなくても、誰かが病に倒れたら? 首都まで辿り着けなかったら?)

 この上を行く危局を想像する。

 イオが判断を下すということは、即ち、それらの場面において彼らの命を預かるという意味だ。彼女にそれほどの責任を追う器量はない。

 嘘は言えない。

 イオは首を横に振った。それきり、頑として考えを曲げなかった。


 イオは、兵長に真実を告げた。

「見えません」

 と告白して深く謝罪した。

 その後、兵長とリーが話し込んでいる。離れたところで待つイオの耳には、彼らの声は届かない。が、どうやら意見が分かれているようだ。

 兵長がこちらへ来た。

「あのお方は見誤った」

 と、首都にいる祭司のことを言った。

 こうも続けた。イオ、お前はただの娘だった。領主さまの元へ送り届けるのは、もはや無用のこと。その無用で、自分は多くの兵を失った。もう故郷には戻れない。このまま、どこか遠くへ行こうと思う。

 お前も一緒に行かないか、と彼は聞いた。

 その背後でリーが黙している。

「彼は、領主さまのご命令に従うと言っている」

 と、兵長はリーを振り返った。

 イオは返答に詰まった。この期に及んで選択を迫られるとは思いもしなかったからだ。しかも己の前途に関わる問題である。どちらが正解で、どちらが間違っているのか。あるいは双方が正しく、また、誤りかもしれない。分からなかった。それを選び取るには彼女は幼過ぎている。

 イオはリーを見た。そして、自分でもよく分からないものを期待して、しばらく黙っていた。だがリーは沈黙を貫いていた。彼は、他人の目があるところでは、イオに詰め寄ったりはしない。これまでがそうであったように、このときもまた、目を逸らして彼女の答えを待つだけであった。

「私には、私の役目があります」

 イオは、リーとともに首都を目指すことを選んだ。

 やがて兵長とは別れた。彼の行方はついぞ知れない。

2010年5月

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