第2話「この気持ちが、君をもう一度照らせたなら」
朝の光が、いつもよりやけに白く感じた。
目覚ましが鳴る前に目を覚ました俺の胸には、昨夜の香織の言葉が冷たく沈んでいる。
──「私、アイドル辞めようと思ってて」
あの声が、何度も頭の中でリフレインして離れない。
スマホを手に取り、何気なくタイムラインを開く。
そこには、いつも通りLUMINAの話題があふれていた。
でも、その裏で香織がひとりで悩み、涙を流していたなんて――誰も知らない。
洗面台の鏡に映る自分の顔を見ながら、自問する。
(俺に、何ができる?)
推しのために何かしたいと思っても、俺はただの一ファンにすぎない。
オタクは、近いようで遠い存在だ。
どれだけ想っても、どれだけ時間と金を注ぎ込んでも、
その心の奥まで手を伸ばすことなんて、できるわけがない。
現場でペンライトを振るくらいしか、俺にできることはないのかもしれない。
――そう思うと、情けなくて、悔しかった。
でも、何もしないで後悔するくらいなら――やってみよう。
推しのステージを、この目で見届けに行こう。
いつも通り、キンブレとチェキケースをバッグに入れて、玄関の扉を開ける。
少しだけ冷たい風が、気持ちをしゃんと引き締めてくれた。
駅へ向かう道すがら、心はどこか落ち着かない。
昨夜の出来事がまるで夢だったかのように、街は変わらず騒がしい。
途中のコンビニでエナドリを買い、缶を開ける音でようやく現実に引き戻された気がした。
駅前では、オタク仲間たちがいつも通り軽口を交わしていた。
彼らの明るい声が耳に入ってくるたびに、自分だけが何か重たいものを背負っているような気がして、少しだけ足取りが重くなる。
ライブハウスに到着すると、入場列に並んだ。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
(本当に……やるんだな、今日も)
間もなく、ライブが始まった。
あんなことがあった翌日だというのに、香織の歌もダンスも、そして表情も――いつもと変わらなかった。
(……これが、アイドルってやつか。やっぱ、香織はすごいな)
ライブが終わり、メンバーたちの挨拶が順に始まる。
最後に香織がマイクを手に取り、静かに口を開いた。
「私からNox(LUMINAのファンネーム)のみんなに、お知らせがあります」
スクリーンに映像が流れ出し、ざわついていた空気が一気に熱を帯びた。
「8月17日、渋谷のライブハウスで私の生誕祭を開催します。……私に、Noxのみんなの時間をください」
一瞬の静寂のあと、場内は歓声に包まれた。
その瞬間、俺の胸に火が灯るのを感じた。
(……これだ)
あの夜、香織が見せた涙。
こぼれた弱音。
全部、ひっくり返してやりたい。
“アイドルを辞めたい”なんて、二度と言わせない。
「よし……やってやるよ」
俺は、香織のオタクとしてだけじゃない。――“俺”という人間として、香織の力になると決めた。
生誕祭の発表から数日。
仕事帰り、駅近くのカフェでノートPCを広げて作業していた俺の肩を、誰かが軽く叩いた。
「……おす! 奏!」
顔を上げると、そこにはオタ仲間――ヒロの姿があった。
ヒロはオタク名で、本名は藤田大輝。俺より3つ年上で、頼れる兄貴みたいな存在だ。
そして、初めてLUMINAの現場に連れて行ってくれた張本人でもある。
「ヒロ……お前、なんで?」
「今、別の地下アイドルの現場の帰りでさ。このカフェの前を通ったら、しかめっ面でPCと睨み合ってるお前を見かけてよ」
「お、おう……」
「そんな顔して、どうしたんだよ。お前の兄貴だろ? なんでも話してみろよ」
その言葉に、俺はあの日の夜のことをすべて話した。
「……えっ? 香織ちゃんがアイドル辞める!?」
「バ……バカ、声でけぇよ! LUMINAのオタクに聞かれたらどうすんだよ!」
「あ、すまん……つい。で、だから生誕祭を盛り上げようと、こんなに必死に準備してたのか」
ヒロは、どこか嬉しそうに笑いながら言った。
「いや……奏がさ、誰かのためにこんなに頑張ってるのが、嬉しくてさ。
2、3年前なんて、まるで抜け殻だったろ、お前。人をまた本気で好きになれたんだなって思って」
「まあな。でも、そんなときヒロがLUMINAの現場に誘ってくれて……香織に出会わせてくれた。マジで、ありがとな。感謝してる」
「そっか……だったらさ、俺にも手伝わせてくれよ。香織ちゃんの生誕祭、ぶち上げようぜ」
「いや、でも……悪いよ。お前、LUMINA以外の現場も通ってて忙しいだろ?」
「もちろん。お前のためってのもあるけどさ……推しのあんじゅに、“ヒロくんカッコいい”って思われたいし?」
「……それが本音だろ、完全に」
「ははっ、バレたか。そりゃ……推しにちょっとでもカッコよく見られたいじゃん?」
「……ま、いっか。一人でやるの正直しんどいと思ってたし。よろしく頼むわ、ヒロ」
「おう、任せとけって。お前の兄貴だからな!」
仲間ができたことで、俺の気持ちは一層強くなった。
ヒロが手を差し伸べてくれたおかげで、一人で抱え込んでいた不安や迷いが、少しずつ和らいでいくのを感じる。
「で、奏は何をするつもりなんだ?」
「うーん……地下アイドルの生誕祭といえば、フラスタやメッセージカード、大閃光にスローガン。そういうのはもちろんやるつもり。だけど、それにプラスして――香織の心に“ちゃんと届く何か”を考えてるんだ」
「なるほどな……でも、二人でできることって限られてるしな。そもそも、なんでだろうな。俺ら、LUMINAの現場で微妙に浮いてるよな」
「それな。なぜかは俺にもわからん……」
二人して顔を見合わせて、苦笑する。
「ま、とりあえず今日はここまでにしよう。カフェも閉まっちまうし、家でまた考えてみるよ」
カフェの前でヒロと別れたあと、家に帰ってベッドに寝転び、なんとなくTikTokを眺めていた。
スクロールしていると、「#10年後の自分の子どもへ」というタグが目に留まった。
未来のわが子へ向けて語りかける人たちの言葉が、まっすぐ心に届いてくる。
「元気にしてる? いつか会える日を楽しみにしてるね」
そんな何気ない言葉が、不思議と胸を打つ。
(……これだ)
誰かを想って紡いだ言葉には、ちゃんと力がある。
香織のために、ファンのみんなに呼びかけて、“声”を集めよう。
あのステージに、もう一度立ちたいと思ってもらえるような――そんな動画を作ろう。
……そう決意したはずなのに、
「どんな構成がいいだろう」
「どんな言葉なら届くんだろう」
気づけば、動画サイトをあちこち巡っては、参考になりそうな演出を探していた。
夜はとっくに更けて、スマホの画面の光がまぶしく感じる。
でも、どうにも頭が冴えてしまって――結局、その夜はなかなか眠れなかった。