第9話「この気持ちはなんだろう」
カレー作りが終わり、夜になった。
キャンプファイヤーの炎がパチパチと音を立てる中、みんなで輪になってカレーを食べていた。
もちろん、俺の隣には――キャンプファイヤーの炎より暑苦しい、いや、情熱的な男・ヒロがいた。
「おい、奏」
「ん?」
ヒロが俺の肩を小突いてくる。
「香織ちゃん、さっきからちょっと落ち込んでる感じだったけど……なんかあった?」
「え? いや、特には。でも、ちょっと元気ないかもな……」
「にしても、このカレーうめぇな」
「特に“香織がといだ米”、最高すぎだろ」
「いや、俺も米担当だし」
「ヒロ、夢を壊すな……」
和やかな笑いがこぼれる中、香織は少し離れた場所で、静かにスプーンを動かしていた。
「はぁ……」
その小さなため息を聞きつけたのは、輪から少し離れた木陰に座っていた**あんじゅ**だった。
「香織、どうしたの?」
あんじゅが声をかける。リーダーとしての気配りが自然とにじみ出る、穏やかな口調。
「……なんでもないよ」
香織はスプーンを止め、俯きがちに答える。
「また、アイドル辞めようとしてたときみたいに、自分で抱え込んでない?」
あんじゅの言葉に、香織はピクリと肩を揺らす。
「……」
火の粉がふわりと宙に舞う。沈黙が、ほんの少しだけ、場の空気を張りつめさせた。
ほのかが怪我をして、奏が救護室に付き添って行った。
私も心配で、少し時間を置いてから向かった。
ドアの前に立つと、中からかすかに話し声が聞こえた。
ほのかの声と――奏の声。
「香織ちゃんじゃなくて、私じゃダメですか?」
その瞬間、息が止まりそうになった。
「それって……推し変してほしいってこと?」
「そ、そうじゃなくて。アイドルとファンじゃなく、1人の女の子として……」
冗談だよね。そう思いたかった。
でも、耳に届く声は真剣だった。
「冗談じゃないです! 奏さんって、オタクとしてもすごいけど……1人の人として、素敵だなって思ってます」
胸がぎゅっと締めつけられた。
ほのかが奏くんを、そんなふうに見ていたなんて――。
私たちはアイドル。
ファンと恋なんて、許されるはずがない。
でも、1人の女の子として見たら、それはきっと自然な感情だ。
……それでも。
なんで、よりによって奏くんなの。
私のファンでいてくれて、どんなときも支えてくれて、あの笑顔で、私の全部を肯定してくれた、あの人を。
胸の奥がざわついた。
これは“推し”としての独占欲。
……そう思おうとした。
でも、違う。
それだけじゃない。
名前のない感情が、胸の中で暴れてる。
――ほのかに奏を取られるなんて、嫌だ。
その想いが喉までこみ上げたけれど、すぐにかき消した。
だって、奏はちゃんと断ってくれていた。
あの誠実な声で、まっすぐに。
なのに、このざわつきは止まらなかった。
ロッジに戻っても落ち着かなくて、私はひとり、バルコニーに出た。
夜風が頬を撫でる。
でも、冷たささえ、もやもやを晴らしてくれなかった。
「香織ちゃん」
ふと声がして、横を向くとほのかが立っていた。
夜風に揺れる髪。
いつもと同じ、やさしい声。
でも、今はその穏やかささえ、少しだけ痛かった。
「さっきから元気ないけど、大丈夫?」
「うん……別に」
嘘だった。
でも、平気なふりなんてすぐに見抜かれる。
「そういえば香織ちゃんのオタクの奏さんって、ほんといい人だよね〜」
どくん、と心臓が跳ねた。
「う、うん……」
「この前の生誕祭、感動しちゃって。あんな全力で想ってくれるファンって、なかなかいないよ。羨ましいなぁ」
「……きっと見つかるよ、ほのかにも」
それは本心。でも口にした瞬間、胸が苦しくなった。
「今日怪我したとき、真っ先に駆けつけてくれたのも奏さんだったんだ〜。やっぱり優しいなって思って」
思い出したくない記憶が、また蘇る。
「実はね、LUMINAに入る前も、奏さんに助けられたことがあるの。偶然だったけど、忘れられなくて……」
――そんな話、聞いてない。
「だから今日、お礼言えてよかったなって。ふふ、香織ちゃんには感謝だね。奏さんと出会わせてくれて」
無邪気な笑顔。
それが、余計に胸に刺さる。
この苦しさの正体が、まだ自分でもわからなかった。
キャンプイベントが終わり、LUMINAは10月の大型フェスに向けて練習を本格化させていた。
あの日の会話が、ずっと胸に残っている。
振り付けに集中できない。何度やっても足がもつれる。
「香織、どうしたの? 全然集中できてないよ」
「……すみません」
悔しい。こんな自分じゃなかったのに。
レッスン後、るなが声をかけてくれた。
「香織ちゃん、大丈夫?」
「うん、大丈夫。ただの考えごと」
「香織ちゃんがこんなふうなの、珍しいから心配になっちゃうよ」
「ありがとう、でも本当に平気」
……嘘だった。でも、今はそれしか言えなかった。
――久々の現場の日。
今日はちゃんと笑顔でいようって決めてた。ファンの前では、いつもの私で。
でも、どこかで表情がこわばってる気がして、ずっと気にしてた。
そのころ、電車でスマホをいじっていた奏。
画面には、香織と撮ったチェキ。
「ふふ……」
「奏、キモッ。なんだそのニヤニヤ」
「うるせぇよ……てかさ、ヒロ。キャンプのとき言ってたろ。香織、マジで元気なかったっぽい」
思い出すのは、チェキ会でのあの一言。
「……奏くん、推し変しないでね」
「何言ってんだよ、俺がどれだけ一途か、伝わってるだろ」
「……変なこと言ってごめん。いつもありがとう」
あのときの香織の笑顔は、ぎこちなかった。
そして迎えた今日のライブ。
最前列、香織の立ち位置。俺は、いつも通り香織だけを見ていた。
――けど。
(……今、振り間違えた?)
一瞬。でも俺にはわかった。
香織の動きに、キレがなかった。
その後、ステージで新しい告知が始まる。
「Noxのみんな〜! 10月の大型フェス、知ってるよね?」
「知ってる〜〜〜!!」
「それに向けて、センター決めの人気投票を開催します!投票締め切りは9月21日23:59、結果発表は9月28日に新宿のライブハウスで発表します。」
どよめきが広がる。
「そして、新しいCDもリリース!1枚につき投票券がついてくるよ〜!」
(人気投票……か)
あのときの香織の言葉が蘇る。
「……奏くん、推し変しないでね」
(大丈夫。俺がどれだけ好きか、見せてやる)
そう拳を握った矢先、通知が鳴る。
《LUMINA 白咲香織 活動休止のお知らせ》
――体調不良のため、しばらくの間、休養に入ることになりました。
「このタイミングで……!」
人気投票で大事なのは、現場でどれだけ名前を呼ばせるかだ。
でも香織は、そこにいない。
……それでも。
俺はあきらめない。
香織を、センターにする。
絶対に。




