【後編 沈む花嫁、裏返る誓い】
広場は水の呼吸で動いていた。白布の柱が輪をなし、蜂灯がその縁を縫う。甘い焦げの匂いが風の形を可視化し、猿塔の臼がかすかに傾くたび、胸骨の裏で臼橋の音が反響する。ゴロ、ギリ、ザリ。誰かの名前が粉になっていく音。粉は白く、白いまま水に落ち、落ちた意味だけが水約に拾われる。
花嫁は中央に立っていた。白い布が顔の輪郭を曖昧にし、見えないものほど強く匂う。若さ、緊張、わずかな墨の香り。誰かが彼女の名を濃く書いた痕跡だ。わたしは喉の奥で息を整える。舌の裏に血の鉄を作って、匂いの受け皿をぬぐう。サルバートル・クラブリィが横に立ち、声を低くした。
「ここで言う。“あ・い”。好きでも憎くもない、ただの母音。沈めて、底を叩く」
「叩いた底が、裏返る」
「そう。ここは“裏返し”が正しい作法だ」
蜂灯の少女が輪の端で灯を掲げ、涙の粒をこぼしながら笑っている。笑いと涙が同時に立つ匂い。以前空白だった層が、式の熱で戻っているのが分かる。——彼にはまだ薄いのだろう、それでも、戻りつつある。偏りは補助線。わたしは偏りのぶんまで嗅ぐ。
白布の前に進む。布の冷たさは、長く水に沈んだものが光に出された直後の温度。指で端を持ち上げると、呼吸が一瞬止まる音がした。顔は、見えるべき顔だった。花谷光。ただし、この都市に合わせて配置し直された「もしも」の配列。
「助けなかったね」
声には匂いがない。無臭の刃が皮膚を浅く切る。出血はないのに、痛みだけが残る。わたしは目を逸らさない。逸らせば、体がそちらへ傾く。ここでは視線にも重力がある。
「助けたいと、思っている」
「思いは、匂わない」
同じ言葉。同じ無臭。わたしは舌を噛んで、血の温かさを口内に広げた。温度は言い訳を無力化する。
「なら、匂わせる。——あなたを奪う」
花嫁の手を握る。冷たい。冷たさの奥底に、沈んだ熱がかすかに揺れる。沈んだ熱は、儀式の風で浮く。わたしはその浮力を待たない。
「クラブリィ!」
呼ぶより早く、彼は臼の縁へ走り、蟹の指輪を外して石に打ちつけた。甲高い音。猿塔が明確に傾き、臼の内部で粉が吹き上がる。白布がはためき、蜂灯の輪が伸び縮みし、広場全体が巨大な肺のように吸って吐く。
わたしは声を置く。
「あ い」
単純な母音が、粉の間を滑り、臼の底に落ちる。落ちた音が遅れて上がってきて、広場の空気の膜を裏返す。好きでも、憎くてもない。裏返して残るのは「本当だったこと」の輪郭。輪郭は匂いになり、匂いは水に保管される。
水が開いた。円だ。最初に橋の上で見たものより深く、冷たい、完璧な口。そこから腕が伸びる。水草をはさみ込んだ爪、指の股に残る土。わたしに向かってくるのを、正面から受け止めるつもりでいた。奪いは癖にする、と宣言したばかりだ。連れていかれる役割は、わたしが持っていくのが筋だ。
だが、次の瞬間、わたしの手は強引に外へ引かれた。クラブリィがわたしを臼の外へ押し出し、代わりに自分の体を円に差し出す。腕は獲物を取り違えたふりもしない。ためらいなく、彼を掴んで沈んだ。
「奪うのが下手、なんじゃなかったの」
「君を奪うのは、上手くてもいい」
最後の言葉は塩の匂いで、すぐに水の底に千切れていった。
走る。臼の外周を反時計回りに。反時計は、裏返しの順。蜂灯の少女が泣きながら笑い、わたしは彼女の腕から灯を奪う。奪いは癖。灯を臼の縁に傾け、蜂を解き放つ。火を食べる蜂たちが、水面すれすれに潜り、甘さを水へ送る。甘い水は引く。甘味は潮を後退させる。
円の縁で、わたしはもう一度、声を置いた。
「あ い」
母音が底を叩き、臼の中の粉を舞い上がらせる。粉は言葉、言葉は滑って水に届く。水に届いたものだけが、水約になる。ここで届けたいのは、誓いの同位体ではない。誓いを裏返すための、空白の型だ。好きでも憎くてもない「あ・い」。中立の母音は、底を反転させるための専用工具だ。
水が息を吐き、クラブリィを吐き出した。彼は膝から崩れ、咳き込み、肺の奥から水の匂いを吐いた。背骨に手を当てる。一本一本に温度が戻るのを、指先で確認する。指の腹に、彼の塩がしみる。塩は生活の証拠。生活は儀式より強い。わたしはそれを信じたい。
「息、返してもらう」
額を寄せ、短く熱を交わす。儀式ではない。癖だ。与える癖は、奪い返す癖で釣り合う。温度が、言い訳の回路を焼き切る。蜂灯の甘い焦げが、遅れて戻ってきて、喉のやわらかいところを撫でた。
白布がずり落ち、花嫁の顔が露わになる。光は口の端を上げるでも、下げるでもなく、ただこちらを見ていた。見られている匂い。観測は誓いの前段。何かを固定する前に、見つめられる必要がある。見つめられるのは怖い。だから、正しい。
「式は——」
「失敗として記録される」
クラブリィが立ち上がり、指輪をはめ直す音が、意外に乾いていた。猿塔がわずかに沈黙して、臼の縁に細いひびが走る。ひびから水が浮き、地面に新しい水脈が描かれる。都市はすこしだけ軽くなる。蜂灯が円周から離れ、子どもたちが笑い、すぐに何事もなかったふりに戻る。拍手はない。歓声もない。都市は常に、元どおりを志向する。
光が近づく。蜂の影を踏まずに歩く術を、彼女は知っている。
「助けたつもりは、やめる?」
「助けたいと、言い続ける」
「言い続けるのは、匂う」
少しだけ、無臭の刃に温度が戻った気がした。式の熱の残り香が、彼女の層を柔らかくしているのだろう。
「帰れる」
とクラブリィ。
「水鏡門は三日だけ開く。君が来た日を一に数えて、今は二日目の夜。明日の雨の真ん中で帰るのが、いちばん綺麗だ」
「条件は?」
「残り香。君が帰っても、潮都が君を嗅ぎ分けられるように。誓いを割った痕として、君の匂いを置いていけ」
「嫌い」
「君の嫌いを、僕は好む」
この男は平然と矛盾を飼い慣らす。矛盾は水に似て、手で掬えばこぼれるのに、肺には簡単に入ってくる。
わたしは考える。残り香を置くなら、それは何の形であるべきか。指輪は安易、言葉は軽い、体温は消える。——なら、誓いを裏返して、嘘にする。
「忘れる、と誓う」
「忘れない、ために?」
「忘れる、を毎回裏返す。わたしが『忘れる』と言うたび、水は『忘れないだったこと』を保存する」
クラブリィは黙って笑い、塩の匂いを少しだけ濃くした。光は蜂灯の芯を整えて、冗談みたいにまっすぐな炎を作った。
翌日、雨の真ん中。水鏡門の前に立ち、わたしは蟹の指輪を借りた。皮膚の塩、蜂蜜、灰。三つの層を指に移し、指輪そのものは返す。物は残さない。残すのは匂いの順列。
「忘れる」
水に向かって言う。
「忘れない」
胸に向かって言う。
「忘れろ」
自分の名に向かって言う。名は落ち、落ちた名は裏返って道になる。道を歩くのは、いつも怖い。怖いまま歩くのが、礼儀だ。
水鏡門の向こう側で、クラブリィが笑う。塩の匂いは約束の匂いに似ている。光は手を振り、蜂が一匹だけわたしの肩まで来て、なにも置かずに帰っていく。置かれないこともまた、痕跡になる。
帰り着いたのは橋の上。雨は昨日より温かい。ポケットに小さな硬貨があった。蟹の輪郭が刻まれ、裏には臼。物は残さないと言ったのに、物は残る。たぶんこれは、都市側の癖。癖は人を映す鏡だ。
その夜、浴槽に湯を張った。湯気の匂いは素直で、やさしい。湯面に小さな円が浮かび、わたしの指が沈む前に、向こうから指が上がってくる。軽く触れる。温度は言い訳を無効化する。
「三度、叩いたら——」
窓ガラスの外で雨が返事をした。三つの拍がきれいに揃う。わたしは笑い、湯面の円に額を近づける。怖さはまだある。あるから、嗅げる。嗅げるから、選べる。選べるから、裏返せる。
恋は嗅覚に似ている。理屈ではなく、層と遅延。遅れて届く匂いのために、窓辺で待つ。忘れると誓い、忘れないために。割ってしまった世界の残り香のなかで、三度の合図を待ち続ける。温度が、言い訳を殺す。そのたびに、わたしは少しだけ、生き延びる。
読了ありがとうございます。
お知らせです。並行企画として、Tales に “童話版『こわすことば』” を投稿しています。
位置づけ:こちら(なろう)版は異世界恋愛ホラー、Tales 版は寓話寄りの童話。
物語の核(海子・サルバートル・光)は共通ですが、描写の重心と結末の余韻が少し違います。
https://tales.note.com/noveng_musiq/wag8s67ibm59z
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