【中編 臼橋の音は、胸骨の裏で鳴る】
最初の水鏡門をくぐると、都市は階段になった。水の階段。波が段差を作り、段差が人を歩かせる。足裏に薄い刃の縁が触れるたび、皮膚が一枚ずつ研がれ、匂いの受け皿が拡張していく。湿度は高いのに、息は軽い。喉の奥で潮が小さく跳ね、胸骨の裏で鈍い音が返る。ゴロ、ギリ、ザリ——臼の中で何かが挽かれている音に似ている。
サルバートル・クラブリィは、手短にルールを繰り返した。
「よそ見をしない。言葉を滑らせる。裏返しを恐れない」
よそ見は、簡単に命を奪う。ここでは視線にも重力がある。視る方向へ、体が傾く。わたしは鼻先の前だけを嗅ぎ、石の境目に沿って歩いた。湿った石は塩で磨かれた器の手触り。鼻を近づけると、氷砂糖みたいな冷たい甘さのすぐ下に、黒胡椒の粒が沈んでいる。焦りの匂いだ。
臼橋が現れた。巨大な臼石を中心に、無数の細い杵棒が放射状に伸び、その上を人が渡る。渡るたび、臼の腹に重みが加わり、内部で名もなき言葉が粉になる。粉は白く、白いまま水に溶ける。水に溶けた言葉は選別され、届いたものだけが水約になる。——"本当"ではなく、"本当だったこと"が沈殿する。匂いは、その沈殿の輪郭を教える地図だ。
橋の半ばで、蜂灯を持った少女が柱にもたれていた。髪は乾いているのに、香りは濡れている。蜂蜜の甘さが喉を撫で、煙の苦さが鼻腔の天井に針の影を落とす。灯の炎は笑っている。炎にだって方言がある。
「通行税」と少女。
「何で払うの?」
「言葉で」
彼女は灯をわずかに傾け、炎に息を含ませるしぐさをした。
「——『好き』って言ってみて」
わたしは言わない。橋の上で言葉は足元、滑らせるための油だ。かわりに、鼻を使う。
「誰かが誰かに『好き』と言う直前の匂いを嗅いで、渡す。汗の塩、舌の裏の鉄、喉が狭くなる感じ。甘い,但し、焦げない匂い」
少女の目が、わずかに細くなる。炎が小さく頷いた。
「いい匂いなら、払ったことになる?」
「匂いは通貨でしょう。潮都では」
少女は道をあけた。灯の輪郭が橋板に楕円を描き、その楕円を踏み越えるとき、クラブリィが小さく呟いた。
「昔、彼女が好きだった」
「今は?」
「今は——『僕には』匂わない」
胸の奥で、小さく何かがひっかかった。匂いは真実より遅れて届くのに、欠落はすぐ届く。彼の嗅覚にだけ起きている欠損。原因は彼の過去か、彼女の選択か、儀式の要請か。どれであっても、都市の機構は残酷に公平だ。誰かひとりの嗅覚が欠ければ、別の誰かが過剰に嗅ぐことになる。偏りは、常にどこかへ押し出される。
臼橋を渡りきった先、二枚目の水鏡門が立ち上がっていた。垂直の水。わたしとクラブリィの影が薄く映り、その間に小さな影がすべり込む。
「光」
名を呼ぶと、影は濃くなり、耳殻の内側でささやく。
『誓いは、割るより、裏返すほうが、かんたん』
裏返す——この都市の動詞はどれも、指先のひらがえりひとつで、意味を変える。
『好き、を、きらい、に。きらい、を、すき、に。言葉は規格上、反転に強い。水は“本当”じゃなくて、“本当だったこと”を保存するから』
「裏返した『好き』は、好き?」
『だいたいは、ちがう。でも“本当だったこと”は匂いとして残る』
ずるい言い回し。だけど、嗅覚の世界では正確だ。昔のキスの匂いは今の息には混じらないが、皮膚の温度に層として沈殿する。層は、儀式の熱で容易に再可塑化される。——蜂灯の少女の匂いがいま、彼には届かない。けれど、式が起動すれば、戻る。戻るのは彼女に、ではなく、彼女の層に、だ。
「君は誰だ」
とクラブリィが問う。
『花谷 光。君が昔、助けなかった子』
彼の目が、凍る。嗅ぎ取れるほどの温度差。体内の塩がいきなり結晶化する匂い。
「助けた。——つもりだった」
『つもりは、匂わない』
無臭の刃が、皮膚の外側を浅く切る。出血はないのに、痛みだけはある。わたしは口を開きかけて閉じた。慰めは匂わない。こういう場所で発酵するのは、選択だけだ。
水の壁を抜けると、空気が変わった。木と布の匂いが増す。式の中心に近い。遠くで猿塔がわずかに軋み、臼石が微量に傾ぐ。微量なものほど神経を奪う。胸骨の裏の臼が応え、ゴロ、ギリ、ザリと返事をする。——誰かの名前が粉になっていく。
路地の角に、小さな祠。天辺の丸いディスプレイに、目のない顔が映りかけ、口だけが“ごめんね”の形を作って震える。前編で遭ったものと同型だが、ここでは音が違う。金属よりも柔らかい、湿ったガラスの音。触れれば割れる。割れば、何かが出る。
「触らないほうがいい?」
「触れてもいい。割らなければ」
「割るの、好きじゃないのに」
「君は“壊す”のが上手い。だから“割る”は嫌いだろう」
言い回しがずるい。だけど核心を外さない。
三枚目の水鏡門までの道は、細い水脈に沿って続く。水脈は呼吸を持ち、喉を湿らせ、舌を鈍らせる。鈍れば、鋭いものがよく刺さる。蜂灯が頭上を渡り、火を食べる蜂が小さく唸る。あの灯の甘さが、クラブリィにはまだ無色だと知っていると、匂いの豊かさが少しだけ罪に感じられる。
「怖いか」
と彼が言う。
「当然。怖さは正しさと良縁」
「正しいだけじゃ、間に合わない」
「じゃあ、速さで補う」
言いながら、舌の裏が乾いた。乾きは未来の前触れ。
わたしは自分の手首をつまみ、脈の跳ね方を確かめる。ドン、ドン。鼓動は海より誠実。誠実なものを信じるのがいちばん楽で、いちばん難しい。
「さっき、蜂灯の少女の匂いが『君には』しないって言ったね」
「うん」
「式が動けば、匂いは彼女に戻る。戻る、というより——彼女の層が温まる。わたしの鼻には、いまも蜂蜜と煙がある。けれど、君の鼻の層には空白ができている。過去の欠落は、現在の方向感覚を狂わせる」
「君は、よく嗅ぐ。僕よりずっと」
「偏りは、補助線になる。——わたしは君の欠落のぶんまで嗅ぐ。代わりに、君は奪うのが下手をやめて」
彼は笑った。笑いは塩の匂い。乾いたユーモアは、湿った都市でよく響く。
「奪いが下手、は癖だ。すぐには治らない」
「癖は儀式に弱い。式は人の癖を簡単に上書きする。——上書きされたくないなら、早く中心へ」
わたしたちは歩いた。足音は小さく、水脈は深く、臼の鼓動は近い。道すがら、壁に貼られた古い掲示に目が止まる。
『沈婚祭、規定改訂。花嫁は自選可。誓いの欠如、不可』。
誓いがなければ、式は成立しない。だから、誓いを作るために、都市は人を甘くする。甘さは簡単な刃だ。
三枚目の水鏡門は、雨だった。薄い雨が門の形に降っている。手を出せば、掌に冷たい針が刺さり、口の中に血の鉄がにじむ。
「ここを抜けたら、中枢だ」
とクラブリィ。
「臼の口に近い。粉が、言葉が、いちばんよく飛ぶ場所」
「わたしは何をすればいい?」
「“あい”と言ってくれ」
「好き、でも、憎い、でもない、“あ・い”」
「そう。君の“あい”は中立だ。濁っていない母音は沈む。沈んだ母音は底を叩く。底が裏返る」
彼は指輪の蟹を外し、掌で転がして見せた。光を受けた蟹の腹が、臼の粉を思わせる白を返す。
「——僕は君に息を貸した。儀式じゃない、癖だ。与えたいときは、与える。奪うのが下手なのは、その副作用」
「じゃあ、奪い返すのは、わたしの癖にする」
「君に奪われるなら、僕は上手くなれる」
彼は不意に真顔になる。
「ここから先、君の名前はよく響く。山と海。臼と杵。臼橋の音が胸骨の裏で鳴るたび、君の“杵”が呼ばれる。——呼ばれても、道具にならないで」
「わたしは道具じゃない。道具のふりが上手いだけ」
雨の門の縁に立つ。空が、傘の裏の暗さに似てきた。蜂灯がひとつ、頭上を渡る。甘い焦げの匂いが一瞬濃くなって、すぐ薄まる。——いまは、まだクラブリィには匂わない。けれど、式が熱を上げたら、戻る。戻った匂いは、彼を刺す。刺す匂いが、彼をこっち側へ引きずる。
わたしは深呼吸し、喉を湿らせた。
恋は嗅覚に似ている。理屈ではなく、層と遅延。いま嗅いだものは、少し遅れて刃になる。遅れて届く刃を想定して歩くのが、ここでの礼儀だ。
「行こう」
わたしたちは雨をくぐった。
中枢の気配が、皮膚の内側で色を変える。臼の鳴き声が低く、近い。胸骨の裏で、応える音が増幅される。ゴロ、ギリ、ザリ。
——誰かの名前が粉になっていく。
——名前の粉は、舌に絡み、喉を滑る。
——滑った言葉だけが、水に届く。
広場の白い布が見える。蜂灯が円周を縫い、甘い焦げの匂いが風の形を描く。猿塔はわずかに傾き、臼石は構造上の限界を測るように沈黙している。わたしは足首に残る冷えの輪を指でなぞった。そこに脈。ドン、ドン。
「海子」
クラブリィの声は濡れていない。濡れていない声は、乾かせない秘密の匂いを連れてくる。
「怖いなら、怖いままでいい。式は、怖さを滑らせるためにある」
「滑らせた先で、掴むのは、誰?」
「たぶん、君」
「たぶん、あなた」
短い応酬の温度が、言い訳を溶かす。
白い布の向こうで、誰かが立った。蜂灯の輪郭に縁取られた、人の高さ。
——始まりは、もう始まっている。
わたしは鼻の奥を開き、甘さと灰の配列を刻む。
式は、裏返すための刃を捜している。
刃は、わたしの口の中にある。
あ・い——と発音するための、狭い通路。
その通路に舌を置き、わたしは広場の中心へ進んだ。