【前編 渦にほどける誓い】
最初に沈んだのは、わたしの声だった。
雨は薄い刃の群れ。音を何度でも解体して、意味の骨組みを濡らす。舌の裏が海藻みたいにぬるりとして、母音がほどけ、子音はぞろりと足をなくす。いいや、なくしたのは足じゃない。踏みしめられる“前提”だ。
わたしの名は、山海海子。潮と山の境の匂いを読む——寺に預けられた香守だ。町の失せ物の行方を、鼻でたどる。鉄の錆、井戸の暗がり、午後の陽だまり、遠雷の粉。嗅覚の地図は言葉より短く、地図の言葉は約束より長い。
きょうの依頼は「誓いの所在」。白い娘が泣きはらした目で言った。
「婚約者が、川に置いていったの」
誓いには匂いがある。人肌が金属の配列を変え、同じ銀でも別の温度になる。——この街では、水に刻まれた誓いを水約と呼ぶ。紙でも血でもなく、水そのものに“届いた言葉”だけが、潮の層に保存される。保存されるのは意味で、保存できないのは心。だから水約は、いつも少しだけうそくさい。匂いだけが本当だ。
橋は、雨で楽器になる。石畳は鈍い太鼓、欄干は濡れた弦。わたしは傘をたたんだ。濡れるためにたたむ。濡れないと嗅げない匂いがある。橋げたの陰に鼻を寄せれば、雨の甘みと涙の塩気がほどよく混ざった空洞がひとつ、そこにあった。
——光が円になる。
水面の一点だけ、硬貨の縁のように濃く、深く、丸い。世界の音がそこから削り取られて、雨は遠のき、鼓動だけが近くなる。ドン、ドン、ドン。音の穴ぼこに吸い込まれる前に、わたしは左手を伸ばし、円の真ん中に人差し指を沈めた。
指先が、落ちた。
ふつうなら水の抵抗があるはずが、なかった。皮膚と水の境界がほどけ、指は温度の梯子をひとつひとつ降りる。冷たい、つめたい、つんと香る冷たさ。鼻の奥が痺れ、鉄、柑橘、古書の綴じ糸。匂いの層のむこうに、見えない踏み面を踏んだ気がした。
「やれやれ。モンキーガール、そこは“入口”に見えて“出口”だ」
皮肉の声が雨の向こうから届いた。
黒い外套の男が、濡れているのに濡れて見えない顔で立っていた。つば広の帽子。灰色の目。右手の指には蟹の意匠の指輪。名乗るより先に匂いで分かる。金属の温度が人肌に馴染んだ残り香。
「——どなた」
「サルバートル・クラブリィ。潮路の誓守官で、口数の多い案内人。呼ばれた覚えはないが、呼びかけた覚えはある。水にね。『割ってくれるひと、来い』って」
割る? 何を。
「誓い。つまり水約。ここでは季節ごとにひとり、沈婚祭で水の主に花嫁を沈める風習があった——いや、ある。儀式は止めたい。止めるには、誓いを割らなきゃいけない。臼と杵のように、きれいに」
彼は、わたしの名字を視線で撫でた。山と海。臼と杵。やめて。名前は、尻尾を掴まれやすい。
わたしは橋から身を乗り出し、円の匂いを嗅いだ。
甘い。蜂蜜に灰をまぶしたようなざらつき。舌の奥に止まり、喉に刺さる。誓いの層だ。
「たぶん、婚礼の匂い」
「式の中心に届いた“本当だったこと”だ。『本当かどうか』じゃないのが、厄介だろう?」
厄介を軽く言うのがこの男の手口。嫌いじゃないけど、好きになるには早い。
円は、わずかに呼吸した。
呼吸が水を引き、橋の足もとから白い腕が一本、伸びた。水草の爪。指の股に土。冷たい。皮膚の起毛がさっと立ち、体温が抜ける。匂いは泥。濁った愛の匂い。
「触るな」
クラブリィの声が低くなった、瞬間には遅い。足首を掴まれた。引かれる。落ちる。いや、引き寄せられる。下へ。匂いの暗い階層へ。
水は意思を持つと粘る。粘る水が服の内側に入り、背骨の数をひとつずつ確かめ、骨の数だけ冷たさを刺していく。胸骨の裏に氷の舌が這い、肺の入口に小さな手のひらを置かれて、呼吸を止められる。
ドン、ドン、ドン。
世界は心臓の太鼓だけ。
熱が、口に押し込まれた。
クラブリィの呼吸だ。熱い。水の下でどうして、と理屈を探す暇はない。肺が潤い、空白に温度が満ちる。温度には匂いがある。彼の体内の塩、遠い香木の残り香。生存の味。
腕は、離れた。円は、音のないまま閉じ、橋の上には雨だけが残る。わたしの足首に、冷えの環だけが残った。
「助けてくれて、ありがとう」
「助けてほしいのは、僕の方だ。潮都を、割ってくれ」
潮都。聞いたことのない都市の名が、雨粒の表面張力に弾かれて、わたしの耳に残る。
「わたしは“香守”。割るのは得意じゃない。嗅ぎ分けるのが仕事」
「割るのは——君の名前の方が得意に見えるけど?」
いちいち癪に障る言い回しを、彼は楽しげに拾う。
「説明して。潮都。儀式。方法」
クラブリィは、指輪の蟹の腹で水面を軽く撫でた。水が指を避け、さっきより広い円が生まれる。音がまた、削がれる。
「ここから降りる。向こうは水の都市だ。水鏡門を三つ潜り、臼橋を渡る。猿が支える塔——猿塔の臼が、町を少しずつ沈めている。止めるには、式の中心で水約を“裏返す”。割るだけじゃ足りない。裏返しが肝心」
裏返す?
彼が言い終えるより先に、橋の欄干の向こうで誰かが笑った。
子どもの背丈。濡れたフード。目だけが水面の光を拾って、笑う。
「——花谷光?」
口にするつもりのなかった名前が、勝手にほつれた。どうして。この世界でも、わたしは彼女に見られているの? 驚くより先に、胸の奥の潮位が変わる。光は首を傾げ、いたずらっぽく唇を動かしただけで消える。残るのは塩と糸の匂い。観測される匂いだ。
「君は『裏返せる』」と、クラブリィ。
「好き、を、きらい。きらい、を、すき。言葉は規格上、反転に強い。誓いは“本当”を要らない。“本当だったこと”で足りる。だから裏返しは、有効で、残酷だ」
わたしは息を整えた。鼻が冷たい。冷たさは、嘘の前触れでもある。
「わたしはいま、誰とも誓わない。観測されたくないし、測られたくない。誰かの臼に、杵としてぴったりはまりたくない。わたしは道具じゃない」
「道具の比喩は、君の名前が呼んでしまう。けれど、澄んだ道具は裏切らない。——僕は頼む。潮都は君の鼻を要る」
頼み方が上手い。嫌いだ。嫌いだが、嫌いの温度は火に似て、目が離せない。
「帰れるの?」
「水鏡門は三日だけ開く。今日が一日目だ。帰し方はある。ただし条件が付く」
「条件」
「“残り香”。君が帰っても、潮都が君を嗅ぎ分けられるように。誓いを割るなら、君の匂いを少し置いていけ」
「嫌い」
「君の嫌いを、僕は好む」
平然と矛盾を愛玩する男だ。矛盾は水に似ている。手で掬うとこぼれるのに、肺には簡単に入ってくる。
円の縁に靴先をかける。
世界は濡れて、わたしは濡れすぎている。
橋の真上、雲の腹に白い臼の輪郭が浮かんだ。猿塔の先の石だ。重しの傾きは微量で、微量なものほど神経を奪う。
——怖い?
当然。怖いのは、正しい。正しさの匂いは、たいてい薄い。
わたしは自分の足首に触れ、まだ残る冷えの輪を確かめる。そこに脈が跳ねる。ドン、ドン。鼓動は海より誠実。誠実なものを信じるのが、いちばん楽で、いちばんむずかしい。
「行こう」
クラブリィが手を差し出した。
触れる。驚くほど、温かい。温度は言い訳を許さない。
「ひとつだけ、先に言っておく」
彼は囁いた。
「君に息を貸したのは儀式じゃない。僕の癖だ。与えたいときは与える。そのかわり、奪うのが下手だ」
「奪うのが上手い人より、よっぽどいい」
「儀式は“奪い”を求める」
「なら、奪い返す。癖として」
言ってから、舌の裏が乾く。乾きは、いつだって未来の前兆だ。
わたしたちは、円に身を沈めた。
水は、向こう側で街になった。
見上げれば、蜂灯が夜気を縫って飛ぶ。火を食べて生きる蜂。甘い焦げの匂いが、喉のやわらかいところを撫でる。
石は低く、屋根は高く、窓は水面に近い。細い水路が路地のかわりに町を区切り、角には小さな祠。祠の天辺に、丸いディスプレイ——見覚えのある顔が映りかけて、目がない。口だけが、ごめんねの形で震えた。
「ここが、潮都」
クラブリィの声は濡れていない。濡れていない声は、乾かせない秘密の匂いを連れてくる。
「ルールは、三つ。よそ見をしない。言葉を滑らせる。裏返しを恐れない。——水鏡門は、あそこだ」
水の壁が立ち上がって、わたしと彼の影を薄く映す。間に、小さな影がひとつ、すべり込んだ。
「光」
名を呼ばずにいられない。呼べば、影は一瞬だけ濃くなる。濃くなった影は、わたしの耳で囁く。
『誓いは、割るより、裏返すほうが、かんたん』
「裏返した“好き”は、好き?」
『だいたいは、ちがう。でも“本当だったこと”は、匂いとして残る』
ずるい。けれど、わかる。嗅覚の世界で“本当だったこと”は層になる。昔のキスの匂いは、今の息には混ざらないが、皮膚の温度に沈殿する。
「進もう」
クラブリィが指輪で水に小さな円を描く。円は、門の鍵穴みたいにひらく。
最初の水鏡門は水平で、二枚目は垂直、三枚目は薄い雨。——それはあとで知る筋道だが、最初の一歩に必要なのは、筋道ではない。温度だ。
わたしは肩まで息を吸い、嗅覚の地図を胸にたたんだ。
恋は嗅覚に似ている。理屈ではなく、層と遅延。
“いま”の匂いは、いつも少し遅れて届く。だから、怖いまま進む。
——指先で水を割る。
——足裏で石を嗅ぐ。
——心臓の裏で、臼の低い音が鳴る。
「海子」
名を呼ばれて、振り返らない。名前はいつだって背中から掴まれる。
わたしは、門の向こうへ、踏み出した。
誓いは割れていない。だからこそ、よく響く。響きは、中心へ向かう推進力になる。
“本当だったこと”だけを連れて行く。
“本当かどうか”は、置いていく。
残り香は、あとで置く。——嫌いだけど、置く。
雨の味は蜂蜜に灰。舌の上のざらつきが、準備完了の印だった。
潮都の夜が、こちらに舌を伸ばす。
わたしは、噛まれる前に、噛み返すつもりで、笑った。