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短編集

現実

作者: 豆苗4

 現実は我々をどれほど侵食しているのだろうか。我々は現実をどれほど侵食しているのだろうか。それを論じるにあたって巷でよくぶいぶいと幅を利かせている言葉、「大切なものはいつも失ってから分かる」という言葉に焦点を当ててみる。健康然り若さ然り愛然り、この条件に該当する大切なものは非常に多いように感じられる。しかし、これは本当だろうか? 


 おそらく「大切なものはいつも失ってから分かる」のではなく、その大切なものが失って分かる類の大切なものだっただけなのだ。順序が逆だ。屁理屈? そうかもしれないが、しかし何も大切なものに失ってから気づかなければいけない道理など全くもってないだろう。感傷の痛みがその感覚を何倍にも増幅させるせいでそれがさも正しいかのように錯覚するかもしれないが、失う前から大切なものだってきっとあるだろう。これは大切なものに係る修飾語の違いなのだ。我々は大切なものを、失って初めて気づくものとそうではないものに無意識のうちに分けている。だから、先ほどの文章で暗に省略されている箇所を補ってより正確に言うとすれば、「(失って分かる類の)大切なものはいつも失ってから分かる」である。それはそうだろう。当たり前だ。


 そうであるからして、たいていの文言は同じことの繰り返しに過ぎないのだ。ただ反復しているだけ。トートロジー。言葉に出して口ずさむことで自分の認識を再度確認するという作業なのだ。カエサルの言うように、「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」ということなのだ。つまり、先ほどの文章は、大切なものの性質を述べている訳ではない。筆者の並びに読者の、欲望する現実を投影しているに過ぎないのだ。それ故、思えば叶うというのも強ち間違いではない。これを主題そのものについて論じていると思って対応すると酷い目に遭う。それもそうだろう。各人の願望の結晶である「現実」をむざむざと踏み荒らし、それが「虚構」であるなどと言う戯言を垂れ流したら当然怒られるに決まっているのだ。たとえそれが挑発を意図していなかったとしても。


 どちらかと言えば、この文言は風情を先取りしたものである。感傷に浸ることで自分の価値観を支えている。もっとも我らの方からしてみても、これが「虚構」であり、その「虚構」こそが「現実」だという根拠のない信念に支えられている訳だが。だから、大切なものが本当に何であるのか、ひいては現実とは何かという命題は多くの場合蚊帳の外に置かれている。回答がどれぐらい本人の意図と近しいのかこそが重要であるのだ。例え遠かったとしても見るものを変えるのではなく、見ようとする「現実」を無理やり捻じ曲げて良いように解釈する。これが傲慢以外の何物であろうか? しかし、これが、これこそが我々の礎なのだ。良くも悪くも。望もうが望むまいが。


 我々の「現実」は決して打ち破られる事はないし、たいてい最後の砦として上手く機能する。これを手放せばもう我々は我々のことを信じる事はおろか、認識すらできなくなるに違いない。これこそが我々の守るべき境界だ。はなっから大切なものは我々に認識されない。現実は砂上の楼閣なのだ。もし仮に失われたところで、誰がそれを大切なものだと認めよう? 


 だから、安心して欲しい。いつでもどこでも「大切なものはいつも失ってから分かる」そして「我々は現実に直面しつつある」というのは真だ。あの歪んだ境界をうっかり踏み越えることさえなければ!

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