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四都物語異聞:忘れ水の護り

流れゆく水は過去きのうを洗い、隠れた護りは未来あしたを導く。

「四都物語異聞:忘れ水の護り」

 流れゆく水は過去(きのう)を洗い、隠れた護りは未来(あした)を導く。


     1


 (げん)()(きょう)から、歩き慣れた懐かしい街道を半日ほどひたすらに進むと、その里は姿を現わす。

 広がる田園風景の中に古木の茂みと、小高い丘が見えてくると、そこは(もたい)の里である。その里の脇をさらさらと水が流れている。その水を里の者たちは「(わす)(みず)」と呼んでいた。

 里の奥深くにある玄武の岩窟(がんくつ)から湧き出すこの水を、人々は大切にしてきた。「忘れ水」は里の人々の辛い記憶や心の(おり)を洗い流し、安らぎを与えてくれると信じられていた。そして、その清らかで神秘的な流れは、里の暮らしのすべてを潤していた。

 凜湖(りこ)は、帝都・青龍京(せいりゅうきょう)での数年間の暮らしを経て、この甕の里に帰ってきた。

 都の華やかさと人波に揉まれる日々の中で、彼女の心は薄い灰を被ったように煤け、干ばつのあとの川のように乾ききっていた。

 里の入り口に架かる、石造りの古びた橋「(もたい)(ばし)」の上で、凜湖は立ち止まった。目をつむり、故郷の匂いを大きく深く吸い込んだ。

 ひんやりとした早春の風が、懐かしい香りを運んでくる。それは都では嗅いだことのない、土埃と、青々と芽吹き始めた木々の香りだった。まだ雪解け水で湿った田畑からは、微かに土が呼吸をするような匂いが立ち上っている。

 凜湖は溜息にも似た息をついた。

 都の喧騒が遠い夢のようだ。

 凜湖は橋の欄干にもたれ、「忘れ水」を眺める。

 早春の「忘れ水」は、冬の間に溜め込んだ雪解け水を勢いよく運んでいる。水面は陽光を受けてきらきらと細かく砕け散っていた。

 川面を見ていて、凜湖は思い出した。

 水底に磨かれたように輝く小石の絨毯が広がっている。そのきらめきの中に、時折、言いようのない温かい眼差しを感じることがあったのを。

 それは、郷愁とは違う、もっと深く、根源的な安らぎ。都での暮らしで失いかけていた、心の奥底で響くような静けさだった。

 幼い頃から、この水面を見つめるたびに感じていた、どこか神秘的な気配が、凍えかけた心の奥深くに、じんわりと染み渡るようだった。

 誰に話しても理解されないだろう、と凜湖は長年、この感覚を心の中にそっとしまっていた。


     2


 甕橋のすぐ下の、最も水深の深い淵には人知れず河童(かっぱ)が住んでいた。

 名を(あおい)という。この「忘れ水」を数百年にも渡って守ってきたのだ。

 北京(ほっけい)(げん)武府(ぶふ)の河童は、その地の風土を映すように、甲羅は苔むし、肌は澄んだ淵の色をした深い(みどり)色である。性別はわからない。そもそも河童には性別があるのか、疑問だ。

 質実剛健な気風を持つ彼ら河童の使命は、「忘れ水」の清らかさを保ち、流域の豊かな恵みを守ることだ。水田を潤し、里の動植物を育むこの水を守ることは、すなわちこの里で生きる人々を、密やかに護り続けるに他ならない。河童は人々に直接関わりはしないが、その存在が里での暮らしを守ってくれているのだ。

 凜湖と碧の出会いは、凜湖が幼い頃にまで遡る。

 里が夏の盛りに包まれ、蝉時雨が降り注ぐ、ある昼下がりのできごとだった。里の子たちは橋の上で、水面に顔を映して遊んでいた。天真爛漫な笑い声が響く中、ふざけすぎた凜湖はバランスを崩し、深い淵へと落ちていった。水面を打ち砕く音は小さく、誰にも気づかれない。水中で()()く小さな身体は、冷たい水に体力を奪われ、瞬く間に意識を失いかけていた。

 碧は水底からその一部始終を見ていた。人間の子の(はかな)いまでの(もろ)さを知る碧は、迷うことなく水面を蹴った。水中で意識を失いかけていた凜湖の小さな身体をそっと抱きとめる。凜湖の手は、冷たい水の中で震えながらも、無意識に、自分を抱いてくれた碧の腕にしがみついた。その時、凜湖の(てのひら)には、見知らぬ何かのひやりとした滑らかな感触と、水妖の恐ろしくも、自分を労わってくれる気配を微かに感じ取った。

 碧は気を失った凜湖を水面へと運び、誰にも見られぬよう、川岸の茂みにそっと横たえた。

 数刻後、凜湖の母親が、泣きながら幼い娘を探しにやってきた。茂みの中で眠る凜湖を見つけ、安堵と感謝の涙を流した。

 凜湖は、その日以来、川に対して特別な感情を抱くようになった。時間があれば川面を覗き込む。そして、溺れた恐怖よりも、不思議と懐かしい、温かい場所だと感じるようになっていった。

 碧は、そんな凜湖の様子を水底から静かに見守り、凜湖の柔らかな表情を確認すると、再び淵の底へと沈んでいった。

 以来、碧の長く続いた密かな見守りは、凜湖という一個人への見守りへと変わっていくこととなった。


     3


 凜湖は、里に戻ってきて以来、時間を見つけては甕橋の(たもと)を訪れるようになった。

 季節は初夏へと移ろい、「忘れ水」の流れは穏やかさを増した。水辺には菖蒲(あやめ)が紫の顔を覗かせている。こんな故郷の景色の中にいると、青龍京での日々が、薄い(もや)のように遠ざかっていく。

 青龍京で、凜湖は貴族の邸宅に仕える女房(にょうぼう)として働いていた。

 雅やかな装束に身を包み、和歌を(たしな)み、香を焚く日々は、里の暮らしとはかけ離れた雅やかなものだった。しかし、貴族社会のしきたりや人々の思惑が絡み合う中で、彼女は次第に息苦しさを感じ始めていた。

 表面的な華やかさの裏に潜む、冷たい視線や、満たされることのない虚栄心が、純粋な彼女の心を少しずつ(むしば)んでいった。誰かに必要とされている感覚も、自分自身の存在意義も、ひどく曖昧(あいまい)なものになっていく。

 こんな日々の生活は、知らず知らずに、凜湖に深い疲労感と、何のために生きているのかという漠然とした虚無感を纏わせた。

 そんな中で、ふと目に飛び込んできたのは、祖母が営んでいた染物屋の暖簾(のれん)だった。店を畳んだにも関わらず、大切に仕舞われた色褪せた暖簾。それは古びてはいるが、しかし力強い存在感を放っていた。

 凜湖の心に強く何かを訴えかけてくる。それは、常に彼女の心に何かを語りかけてくる、「忘れ水」のせせらぎの様だった。一度思い出すと、「忘れ水」のせせらぎは、故郷からの呼び声であり、静かな導きだった。

 碧は、凜湖が大人になり、里を離れ、そして再びこの場所へ帰ってくるまでのすべてを見てきた。

 里の学舎(まなびや)へ向かうひたむきな足取り。里祭りで友と手を取り合ってはにかむ笑顔。都での目まぐるしい奮闘の日々。そして里に戻る決意を固めた、どこか吹っ切れたような凜湖の瞳。

 都で心が(すさ)みかけた時も、碧は遠く離れた彼女の元へ、かすかな水音の囁きを送っていた。それは、凜湖が無意識のうちに感じていた、故郷からの微かな呼び声でもあった。

 碧は、決して凜湖の前に姿を現すことはない。しかし、凜湖が人生の岐路に立ち、橋の上で考え込むたびに、碧はそっと水中の小石を動かし、水面に微かな波紋を立てた。その波紋は、凜湖の心に、閉ざされた扉を開くような静かな啓示を与えた。

 特に、祖母の染物屋を継ぐかどうかで迷っていた時、橋から見えた水面に映る自分の顔は、不思議と穏やかな表情をしていて、まるで「大丈夫、これでいい」と囁かれているようだった。その顔は、都の雑踏を歩いていた頃の、焦燥に満ちた表情とはまるで異なっていた。

 凜湖は、この甕の里で、かつて祖母が営んでいた染物屋を継ぐことを決心した。

 都では感じられなかった、土と水の、そして人々の営みの根源的な力に、彼女は心を惹かれたのだ。祖母の使っていた染料の壺、藍を育てる桶、そして何よりも、「忘れ水」で布を洗い清める光景。

 染め上がった布が、水に浸され、その度に鮮やかな色を増していく様子は、まるで彼女自身の心が洗い清められ、新たな色を得ていくかのようだった。甕橋を渡り、古びた染物屋へ向かう凜湖の足取りは、もはや迷いなく、確かなものになっていた。

 ふと、凜湖の脳裏に、幼い頃の曖昧な記憶が蘇った。

 冷たい水の中で、誰かの温かい腕に抱きしめられたような感覚。それは、はっきりと形を持つものではないが、彼女の心の奥底に、確かに残っている温もりだった。彼女は、この温かさこそが、自分が里に戻ることを決めた大きな理由の一つだと感じていた。それは、水に護られ、水に導かれた、自分自身の運命のなのだと。


     4


 甕橋と「忘れ水」は、これからも甕の里の営みを見守り続けるだろう。

 季節は巡り、水は流れ、里の風景は変わっても、その本質は何も変わらない。

 凜湖は、やがてこの地で家を構え、「忘れ水」と共に人生を紡いでいくことだろう。

 彼女の染める布は、「忘れ水」の清らかさを存分に吸い込み、甕の里の風土を映し出すように、深い色合いと柔らかな手触りを持つだろう。

 その布は、里の人々の暮らしを彩り、やがて玄武京の都人たちの間でも評判となるかもしれない。そして、凜湖の子孫もまた、この甕橋を渡り、この「忘れ水」の音を聞いて育つだろう。

 そして、碧は変わらずにこの甕橋の下で、この「忘れ水」の淵で、里の人々を密やかに見守り続ける。

 北京玄武府の素朴な里。

 ここには、見えない絆が時を超えて流れる「忘れ水」のように、静かに人々を結びつける。それは、人知れず里を守り続ける碧と、その守りを無意識のうちに感じ取る凜湖の間に紡がれる、言葉にならない物語だ。

 そして、橋の上から見下ろす水面に映る光は、過去、現在、未来へと続く、密やかな守りの物語を、永遠(とわ)に語りかけているかのようだった。


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