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アストロメリアの貧民街で事件が発生した。寂れたコンクリート壁の大きな建物が並ぶ路地裏の一番奥で、若い男の死体が発見される。身体のあちこちに打撲の痕が確認できたところから、殴られるなどして暴行を加えられたあと、頭に一発銃弾を撃ち込まれたようだ。ちょうどごみが集まってできた山の上に死体があったため、あたりの臭気がかなりひどくなっている。
死体を調べた結果、国家警察の諜報部の確認により、この男がとある組織を調べていた潜入捜査官であることがわかった。
この事件を受けて、諜報部や刑事部といった管轄関係なく、犯人逮捕に向けて協力することが、上層部の意向で決まった。
刑事部所属の警官たちが、次々と現場に到着する。黒の軍服風な制服に身を包んだ男たちが現場周辺に続々と集まる光景は、貧民街に不穏な空気を漂わせる。
貧民街はアストロメリアの他の場所とは異なり、防犯カメラの数が少なく、また壊れて正常に作動していない場合も多い。一つだけ犯人の姿を捕らえたカメラがあったものの、黒のフードつきマントで身を隠していたため、映像を見ていた警官たちは苦い顔をするしかなかった。
警官たちが現場周辺で聞き込みをしている間に、犯人は着ていたマントをたまたま通りかかった焼却炉に捨てて、隣の地区との出入り口付近にまで近づいていた。
壁が薄らと汚れた大きな建物の間にある、狭い通り道を進んでいくと、微かではあるが、やっと出口の姿が見えてくる。犯人はこれを見て、思わずニヤリと笑った。黒の短髪に顎髭を生やした男の姿は、まさに映画に登場する麻薬密売人そのものだ。
男の歩くスピードがだんだん速くなる。早くこの場から逃げ出したいという焦りからなのか、一歩ずつ足を前に動かすごとに、息が荒くなり手の震えがひどくなる。それでも恐怖に抗うかのように先へと進んでいき、出口を抜ける五十メートル手前まできていた。
しかし、行く手を阻むかのように、何者かが飛び降りた。犯人は首筋に汗を流しながら、即座に身構える。
犯人の目には、黒の戦闘服を着た男の姿が映っていた。短距離走のスタート時のような体勢から顔を上げて、それからゆっくりと立ち上がる。
艶のある黒髪に彫りの深いマスク。太く切れ長な眉に、ブルーグレーの瞳。翳りのある若い美男子が、無表情な顔を犯人に向けた。
犯人はこの得体の知れない翳のある視線が自分に向けられたその瞬間、汗の出る量がひどくなる。心拍数が上がり呼吸がさらにひどくなって、張り詰めた空気を漂わせる。
しかし、犯人の前に現れた男は、まったく表情を変えない。感情を一切表に出すことなく、冷たい両目を向けてこちらに近づいてくる。
犯人は震える手で拳銃を構えると、慌てて撃った。だが男は、素早く横によけて、弾をかわした。無駄のない最小限の素早い動きを見て、呼吸がさらに乱れ、黒のTシャツとチノパンが汗でびっしょりと濡れている。これとは正反対に、男はまったく表情を変えない。
犯人は再び男に目掛けて銃弾を放った。しかし、今度は弾をかわすようなことはせずに、左手の手のひらを盾代わりにすると、一気に間合いを詰めた。犯人はこのときになって、初めて気がついた。目の前にいるこの男が人間でないことを。最悪のイメージが脳裏をよぎったその瞬間、見事なまでの回し蹴りが側頭部に入って、大の字になって倒れた。
不思議と痛みは感じなかった。意識がだんだんと薄らいでいく間、はっきりと覚えているのはこの光景だけだ。自分を見下ろす凛とした瞳。感情なんて一切持ち合わせていないだろう、そう思いながら犯人は次第に意識が遠くに消えていった。
犯人が意識を失ってしばらくすると、警官たちが犯人が倒れてる現場にやってきた。倒れてる犯人のそばには、戦闘服を着た男が立っている。警官たちは男の存在に気づくと、現場を指揮してる警官が男のほうに歩み寄った。
「オルフェ、おまえがやったのか?」
「ええ、でも気絶しているだけですから、心配はいりません。無事身柄を確保できました」
「わかった。次の任務があるまで本部で待機していろ」
「わかりました」
それからオルフェは、犯人の逃走経路と捕獲方法を説明すると、現場を離れ始める。先程までオルフェと話していた警官がオルフェの後ろ姿を見ると、左手に穴がああいてるのが目に入った。しかし、血が流れた痕跡は見当たらず、小さな穴から微かに光る金属製の骨らしきものが見えていた。
現場を検証している若い警官二人が、オルフェの姿を見て愚痴をこぼした。
「ほんと嫌になるよな。おれたちに犯人捕まえるようにここまで来させておきながら、結局横取りしやがるんだよ、諜報部の連中は」
「ああ、まったくだ。嫌な仕事や尻拭いは全部押しつけて、手柄だけ奪いやがる。まったくやってらんねえよ」
「そうやってエリート気取ってんだろう、きっと。おれたちのこと下っ端と思って見下しやがって。てか、むかつくっていえば、あいつもだよな。オルフェとかいったか、ほんと澄ました顔しやがって」
「ああ、ほんとむかつくぜ。さもおれが捕まえたとばかりに気取りやがってさ、なんだよ機械人形の分際で。人間様をなめんなよ」
そんな大きな声ではなかったものの、オルフェにはこの二人の会話がはっきりと聞こえていた。しかし、怒りや悲しみといった感情が顔に出ることは皆無のまま、ゆっくりとした歩調で現場をあとにする。そして、寄り道することなく国家警察本部へと戻っていった。