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強い雨が降っている。壁に、窓に、地面に何度もぶつかる雨粒の音は寝起きの耳にうるさく響いている。
太陽は隠れ、わずかな光もカーテンに閉ざされている部屋の中では、目を覚まさせるはずの明るい光の出所はない。そこはただただ暗くあるしかなかった。というか、目を開ける気もないのだから視覚の仕事場はここには存在していない。
暗い部屋に向かっていつまでも降り続ける雨粒の音。それに聴覚に頼り切った全身の感覚がかき乱されるような、頭の中で何か小さなイキモノが暴れているような不快感をおぼえる。
「……るさいな」
昨日から消えることのない片頭痛と耳に残る無限の雨音を振り払うために、少年−−楪葉 春基は弱々しく寝返りを打った。
不快な朝で、土曜日で、雨だ。昨日見た予報では雨は明日の朝まで止むことはないらしい。
では今日には希望も何もない。ならば、どうせやらなければならないのは午後のバイトだけだから、しばらくは夢の中で頭痛のひどい現実からは逃れていればいい。
ただ、そんな思いとは裏腹に自身の瞼は重くはなくなってしまっていた。
雨がまた一段と強くなったような気がする。強く吹いた風が窓へ当たる雨に一段と勢いを与えているのだ。
もう耐えることが出来ないと思った。結局、不快感に負け効力を失った睡魔をおいて、春基は気だるさを感じる重い身体を起き上げる決心を固めた。
電気をつけるとそれまで暗かった部屋が明るい光で満ち、視覚の情報が一気に脳に浸透するのを感じる。頭痛だけを残しながら、不快な雨音の響きが徐々に数多くの感覚の情報と混ざっていく。
やっとのんびりできそうな朝になった。このまま午前中は頭痛と共に何もせず過ごそうか。
それもできないことはなかった。
ただ悲しきかな、時間とは人間の思いとは関係もなく進んでいくものだ。この午前中の時間にやらなければならないことはくなくても、するべきことは幾つもある。
それでもいつも通りの朝にしようと思った。
顔を洗うところから始まるルーティンを済ませ、湧きもしない食欲と相談してインスタントのコーンスープを朝食に選んだ。
蒸し暑い気候がスープを飲み干すのに少しの汗を強要してきたが、扇風機の「中」の風を全身に浴びて春基はゆっくりと飲み干していく。
飲み終わるとすぐにカップを洗い、朝起きた時と全く同じ空間に戻した。沈黙の中で再び雨音が全身の感覚へと響いていく。
まだ多少の不快感を感じた。だが雨音は確実に自身の身体に馴染んできている。
土曜の午前はいつも掃除をする時間と決めている。部屋が綺麗な状態は春基自身の考え事の多い煩雑な頭の中を整理しているように感じるからだ。
しかし一人暮らしを始めて掃除の習慣が続いているのはどこか未だに自身の頭の中が整理しきれていない証拠のようで同時に春基は自分自身に憂いを感じるのだった。
「この時間から掃除機をかけるのは迷惑かな?」
ただ続けてきた事実に反発するように、春基はするべきでない理由を無意識に口からこぼす。
一抹の面倒くささがあることも事実だ。しかしこういう時はしなくてもいい理由を探すよりも、するべきでない理由を探す方が自分自身を説得しやすいと春基は自身のことを知っている。
ただその邪念でさえも自身の頭の中をかき乱すように思えて、春基は結局何も考えないように努めながら掃除機を手に取った。
おかげで今日はただの日常だった。何も不思議なことはない。誰かに見せられるような画ではなく、誰かに話すことのできるような物語性もない。
同じ日は二度と来ないが、同じような日にすることは日常の中では簡単なことだ。全くドラマチックではない。しかしそれがつまらないということも決してない。逆に有意義だった。
雨の音を忘れながら、てきぱきと掃除を進めていく。それが頭の中を整理できている一つのサインなのだと勝手に一人思う。
「大丈夫かな」
掃除を一通り終わらせて春基はベットの上に全身の力がなくなったかのように座った。沈むベットは少しの抵抗を見せて、しかしすぐ受け入れる。
そうしてまた退屈が押し寄せた。
退屈だというのは幸せなことだが、幸せは退屈だから生まれるものではない。何もしていないこの退屈が春基にとっては苦痛のように思えるのだ。
しかし幸せやドラマチックとは意外と突然にやってくるものでもあった。
「ブー、ブー、ブー」
ローテーブルの上でスマホが雨音に少し紛れながらバイブを鳴らした。
少しベットから立ち上がるのには躊躇したが、通知を見ない理由もないので頑張って強く床を踏んだ。
そしてその頑張りに応えるかのように、目に入った通知に春基は簡単に喜ばされるのであった。
『いつになったら、私の手紙の感想を言ってくれるの?』
『もう届いて2日くらい経ってるはずなんだけど』
ただの二件の通知。手紙の感想を言えという、それだけではただの独りよがりな発言。
それでも春基は言葉通り飛び上がって一階のポストまで駆けていった。
ポストに入っていたのは幾つかのセールスのチラシと幼馴染み――佐倉桜からの一通の手紙。薄いピンクの無地の封筒はいかにも女の子の好みそうな色だった。性格に可愛さと共に堂々とした男らしさをも感じる彼女からは少し考えにくいような色だが、それもまた彼女らしさなのだろうと春基は妙に納得した。
雨音はその存在を先程よりも小さくしながらも未だ主張をやめてはいない。
しかし手紙を大事に掴んで階段を上る春基にはその音はもう全くもって聞こえていないのだった。
待ちきれない気持ちを抑えながら部屋に戻り薄ピンクの封筒の封を開けた。
丁寧に折りたたまれた便箋を取り出す手は少し震えている。しかしそれでも春基は自然と上がった口角には気づくことなく黙々と手紙を読み始めるのだった。