ネトゲ女医
白衣を着た若い女性が病院の廊下を速足で歩いていた。
肩まで伸びた美しい黒髪、モデルのようなスタイル、眼鏡の似合うクールで知的な容貌……誰もが認める美人と言ってよい。
彼女の名前は時計田冴子、東都第一病院・救急センター(ER)の医師だ。冴子が今急いでいる理由は、患者が待っているからではない。
(ホリデーのスペシャルプレートランチを今日こそゲットする!……)
院内食堂ホリデーで一日限定十食で提供されるスペシャルプレート。十三種類の野菜とボリューム満点の牛100%のハンバーグ。お代わり自由の五穀米とみそ汁付きで、お値段なんと800円!
当然、大人気メニューである。院内食堂は医師も患者の家族も、出入りの業者でも誰でも利用できるので、急がなくてはすぐ売り切れてしまう。
廊下の角で冴子の足が止まった。出会い頭に人とぶつかったりしないよう、頭を傾けてちらっと覗き見る。
(よし、クリア……)
銃の照準を傾け、死角の敵の有無を確認する動作を、FPS界隈ではリーン、もしくはクイックリーンと呼ぶ。
ちなみにFPSとはファーストパーソン・シューティングゲームの略で、本人視点でゲーム中の世界を移動し、銃器等を用いて戦うスタイルを指す(ApexとかFortniteなんかが有名)。
彼女はクラン(チーム)に所属し、大会で上位入賞するほどの猛者だった。今年で29歳になるが、プライベートでゲームばかりやっているので、当然恋人はいない。
(一気に抜けるぞ、ダッシュだ!)
角を飛び出した瞬間、ドンと何かにぶつかり、眼鏡が弾け飛んだ。ぐっ、とうめき、鼻を押さえる。
「時計田先生、大丈夫ですか?」
頭上から若い男の声が落ちてくる。声に聞き覚えがあった。小児科の医師・片瀬健太郎だ。年齢は同い年の29歳。
某美容外科グループの御曹司。顔は父親にいじってもらったのか、素なのかは知らないが、えらいイケメンである(冴子は興味がなかった。顔なんて整形でどうにでもなる)。
薄給の大学病院など辞め、さっさとパパの病院に行けばいいのに、医局勤務を希望した変わり者だ。
床を這いまわって、あわわ、と眼鏡を探し、掛け直す。
(くそ、私としたことがこんな失態を……索敵が足りなかったか……)
出会い頭の敵の攻撃を喰らった気分だ。ゲーム中であれば間違いなく負傷。頭部への銃撃ならば即死亡である。
片瀬が「すいません」と申し訳なさそうに詫び、冴子は痛む鼻を押さえて立ち上がった。
「いえ、私こそ、ぼけっとしていました」
失礼します、と去りかけた白衣の背中に声が追いかけてくる。
「時計田先生、もしかしてお昼ですか? 三河屋さんでまとめて出前をとるみたいですよ」
三河屋は病院近くのそば屋だ。そば屋のくせに、ラーメンでもオムライスでもなんでも作る。味は推してはかるべしだ。
「いえ、今日は別に〝あて〟がありますので……」
「もしかしてホリデーのスペシャルプレートランチですか?」
ぎくっとする。なんでわかったんだ?
「僕もこれからホリデーに行くんです。ご一緒しませんか?」
「……いえ、放射線科に寄りたいので」
とっさにそう答え、そそくさと冴子はその場を立ち去る。数メートル歩いてから振り返ると、遠ざかっていく白衣の背中が見えた。
(くそ、やつが同じ標的を狙っているとは……)
とたんに冴子のFPS魂に火がついた。
(N(北)側の職員用エレベーターを使えば、私が先に五階に着く……片瀬、このランクマッチ、私がもらうぞ……)
エレベーターに向かった冴子は、しかし、呆然と立ち尽くすことになる。扉に「整備中」の紙が貼られていた。
(すでに敵がルートを潰していたとは……)
冴子は近くにあるスチールのドアを開け、非常階段に入った。白衣をひるがえして華麗に駆け上がる、はずだったが――
「はぁ、はぁ、はぁ……」
息を荒げながら重い足を持ち上げる。
(くそ、ゲームだったらShift+Wボタンで簡単にダッシュできるのに……)
普段ゲームばっかりやってるので慢性的な寝不足に加え、体力がない。
(イーグルだったら、こんな階段、60キロの装備を背負って駆け上がってる……)
イーグルはゲームで彼女のお気に入りのキャラクターだった。アメリカ海軍ネイビーシールズに所属する体力自慢の男性兵士。だが、それを操るオペレーターは、ただの運動不足の29歳の女である。
白衣の体がぐったりと階段にへたり込んだ。
(だめだ……スタミナゲージが尽きた……ここで救急キットかリカバリードリンクがあれば……)
FPSで体力を回復をアイテムのことをブーストアイテムなどと呼ぶ。ちなみに病院にはリアルに救急キットがあるが、彼女が欲しいのはそれではない。
壁に体を預け、意識を失いかけた彼女の耳にガチャッという音が聞こえ、弾かれたように冴子は立ち上がり、いつもの澄まし顔を作る。
階段の上に、研修医の田辺が立っていた。
「あ、時計田先生、おつかれさまです」
青年が緊張した顔で挨拶をする。こんな場所で出会って驚いたのだろう。素知らぬ顔で冴子は階段を上り、すれ違いざまに言った。
「今朝、運び込まれた例の57歳の患者さん、CTを頼める?」
「……何か気になることでも?」
「ただの片頭痛だと思うんだけど、二次性疼痛の可能性があるから」
「わかりました! すぐ手配しておきます」
「ありがとう、お願いね」
にこっと微笑むと(内心はゼェゼェ息をついていたが)、田辺の顔がほわあ、とゆるむ。
美人女医の冴子は、病院内の独身男性に人気があった。ただし、本人はゲームにしか興味がないので、彼らの視線にまったく気づかない。
田辺と別れた後、冴子は再び階段を上がった。息も絶え絶えでようやく五階の食堂に着くと、すでに食券機の前には行列ができていた。
「スペシャルプレートランチ、残り一食でーす」
厨房から食堂のおばちゃんが声を張り上げる。
(残り一食……)
白衣のポケットの中でこぶしを握り締める。そのとき、前にいた白衣の男が振り返った。
「あれえ、時計田先生?」
医師の片瀬だった。とっくに食堂に着いていると思っていたのに、なんで今頃、列に並んでいるのだ?
表情で察したのか、片瀬が照れたように笑った。
「いやあ、財布を忘れて取りに戻ったんです」
こういうのんびりしたところが、大手美容外科グループの御曹司らしいゆるさだった。
奇跡的にと言うべきか、スペシャルプレートランチは、片瀬と冴子の番まで注文する者はいなかった。
片瀬がにこっと笑い、先の注文を譲る。
「時計田先生、どうぞ。僕は八宝菜が食べたかったので」
「え、いいんですか?」
「昨日は昼にバイク事故の急患が入って、時計田先生、お昼も食べられなかったそうじゃないですか」
目にじわりと涙が浮かびそうになる。敵に塩を譲る――なかなかできることではない。てか、さすがは金持ちだな。心に余裕がある。
こうして女医は、念願のスペシャルプレートランチをゲットすることに成功した。トレーを手に辺りを見回す。
(射線から外れた死角は……)
ゲーマーの習性と言うべきか、たとえ職場での食事であっても、敵に襲撃されにくい場所を選んでしまう。
「時計田先生、あそこ空いてますよ!」
片瀬が強引に冴子の腕を引き、窓際の日当たりのいいテーブルに連れていく。
(こんな窓の近くの席、垂直下降してきた敵に突入されたら……)
落ち着かない様子で、冴子は窓の外を見る。とはいえ、昼の混雑時、他に空いているテーブルはなさそうだ。
「いただきます」
片瀬が両手を合わせ、箸をとる。
冴子は黙って白衣のポケットからプリのボトルを三つ取り出した。テーブルに敷いたティッシュの上に白、青、赤の錠剤をざざっとこぼす。
「……それ、ぜんぶ飲むんですか?」
目を丸くする片瀬の前で、冴子はサプリを手づかみにして〝柿の種〟でも食べるように錠剤を口に放り込み、グラスの水で一気に喉に落とす。
「私、目が疲れやすいので」
ゲーマーの職業病とも言えるのが眼精疲労だった。何時間もディスプレイを見つめつづけるので眼に疲労がたまる。縁の太い眼鏡も、目のクマ隠しの意味が大きい。
錠剤を飲み終えると、冴子は箸を手に取り、淡々とランチを食べ始める。
「時計田先生はお休みの日、何をされているんですか?」
片瀬に訊かれ、冴子は箸を止めた。
「休日……ですか?」
看護師や出入りのMRにもよく訊かれる。冴子はプライベートを明かさないので(明かせないので)、その美貌もあいまって逆に興味を持たれてしまう。
(何と言えばいい? 一日中、無人島で殺し合いをしてます……なんて言ったら引かれるに決まってる……)
だが下手に「パワースポット巡り」なんて嘘を言おうものなら、どこのパワースポットですか? とさらに深堀りされる。
「ゲームですかね……剣と魔法とファンタジーの……」
無難な受け答えだ。今どきゲームぐらい誰でもやる。RPG系なら女子のユーザーも多い。
「あー、高校生の姪っ子が好きでやってますよ。ただ戦うのは苦手みたいで、ゲームの中で物を作って売ったりしてるって言ってました」
「生産職ですね」
ゲーム世界の中でポーションや鉱物を売ったり、モンスターの皮から衣服を作ったりする。冴子は昔からその手のタスクやクエストが苦手だった。
「あ、もしかしてゲームをやってるのは子供の患者さんに話を合わせるためですか? 僕も小児科なんで、最近のアニメや漫画を見るようにはしてるんです」
「まあ……そういう部分もあるかもしれませんね」
箸を動かしながら適当に受け流す。
(子供か……この前の厨坊、さんざんボイチャで煽ってきたな……即キルして大人の厳しさを教えてやったけど……)
とはいえ、これ以上、こういう話題が続くのはマズい、そう思ったとき、プルルルとスマホが鳴り、緊急の呼び出しがかかった。
残りのハンバーグを大急ぎで口に放り込み、失礼します、と冴子は席を立った。
◇
白衣をひるがえし、冴子は一階にあるERの処置室に駆け込んだ。研修医の田辺が緊張した顔で待っていた。
「救急車二台、続けてくるそうです」
ピーポーピーポーというサイレンの音が近づいてくる。やがて、ストレッチャーにのせられ、最初の患者が運び込まれた。
「40代男性、頭部裂傷。意識は清明。あと……」
男性の救急隊員が言いづらそうに続ける。
「中国の方らしいです。えっと……日本語がしゃべれないみたいで……」
男性がストレッチャーにうつ伏せで横たわってたる。後頭部に裂傷があり、赤紡錘形の大きく開いた傷口から、黄色い皮下脂肪や赤い筋肉がのぞいている。
冴子が男性にゆっくりと語りかける。
「握住我的手(私の手を握ってみてもらえますか?)」
「先生、中国語できるんですか?」
研修医の田辺が驚きで目を見開く。
「簡単な会話程度ならね」
ゲーム中、接続するサーバによっては中国人とプレイをすることもある。ボイスチャットで自然と覚えた。なお、冴子は同じ理由で、英語、韓国語、ロシア語も日常会話程度ならこなす。
冴子の手を中国人男性が握ったのを確認し、次のステップに移る。
「跟着我的手指(私の指を目で追ってください)」
テストを繰り返し、脳機能に異常がないことを確認する。
「从在始、我会做麻醉和(これから麻酔をして傷を縫います)」
冴子が伝えると、男性が小さくうなずいた。
手術部位へ注射で局所麻酔をする。傷を洗浄し、異物がないか確認した後、電気メスで破れた血管を止血処置し、傷口を縫合していく。
ピーポーピーポーと新たなサイレンの音が聞こえた。ストレッチャーにのせられ、白髪の男性が運び込まれる。
救急隊員が病状を説明する。
「60代男性。自宅で呼吸困難を訴え、家族が救急車を要請。救急隊現着時には意識は清明でしたが、搬送を開始後、意識が低下。呼吸音に左右差あり」
「今、手が離せない。田辺君、診てくれる?」
患者の容体を診察した田辺が告げる。
「画面蒼白、冷汗あり、視線はうつろ、意識なし」
老人の衣服をハサミで切り、前胸部を露出させて聴診をする。
「呼吸音は右が減弱、左は聴取できず。左肺の緊急性気胸の解除を行います」
看護師が気管チューブを用意する。田辺が患者の口を開けさせ、気管を挿管し、人工呼吸を開始する。
「右前胸部に胸腔穿刺します」
22Gの留置針を刺入し、胸腔ドレーンを設置する。改めて胸に聴診器をあてた田辺が首をかしげる。
「変です……脱気音がしません……」
「気管チューブのトラブルは? 固定位置は大丈夫?」
隣の診察台で頭の縫合を続けながら冴子が訊ねた。
「問題ありません。血圧や意識障害も改善されません」
縫合を終えた冴子が椅子から立ち上がり、隣の診察台にやってきた。患者の胸に聴診器をあてる。
(変ね、たしかに肺の呼吸音がしない……)
冴子の聴覚は常人より鋭い。FPSでは敵の足音を聞き取れるかが生死の境を分ける。わずかな音の差異も聞き逃さないのは、日頃の訓練のたまものだった。
「服を脱がせて。手術痕がないか調べて」
田辺がハサミで左胸部も衣服を切り裂き、患者の身体を傾けた。田辺が驚きで顔をゆがめる。
「左胸の背中に開胸手術の痕があります」
「胸部X線撮影、大至急!」
冴子の声が響き、看護師たちがあわただしく動き出す。X腺カメラがついたアームフレームが伸び、患者の胸部を撮影する。
田辺がディスプレイでX腺画像を見た。
「……肺がない……それで音がしなかったのか……」
左肺はもともとなく、右肺が高度な緊張性気胸の状態にあった。
「右前胸部を切開。ここでやるわ」
冴子の声がERの処置室に響いた。
その後、冴子はオペで胸腔を開放し、脱気に成功した。右胸腔ドレナージと人工呼吸管理を行い、循環と呼吸状態を安定させると、数時間後には患者も落ち着きを取り戻した。
◇
17時、シフト勤務を終えた冴子は病院を出た。
駅前のコンビニでビールとパスタ弁当を買い、自宅マンションに戻る。シャワーを浴び、頭をバスタオルで拭きながら、スウェット姿で自室に入る。
そこはゲーミングルームだった。
机の上には、ハイスペックなゲーミングPCと複数のディスプレイが置かれ、まるで宇宙船のコックピットを思わせた。
青いゲーミングチェアに体を沈め、冴子はパソコンの電源を入れた。人気のFPSゲーム『シックス・バトル・デューティ』を起動する。
プシュとプルタブを引き、冷えたビールを飲み、ふう、と息をつく。
(美味い……私はこの瞬間のために仕事をしている気がする……)
ヘッドセットを頭に被り、マイクを口元に近づけたとき、机の隅に置いてあったスマホが鳴った。相手の名前を見て眉根を寄せる。実家の母親だった。
スマホとビールを手にベランダに出る。
「何?」
『あんたにお見合いの話が来てるの』
「はぁ?」
『いつまで独身でいるの。あんた、来年は30歳になるんだよ』
「仕事が忙しいのよ」
ビールを飲みながら面倒くさそうに答える。
『どうせ休みの日はゲームばっかりしてるんでしょ』
冴子は顔をしかめる。母親にはすべて見抜かれていた。
『明奈ちゃんのとこ、もう子供が三人いるんだよ。あんたと同い年でしょ』
従姉の話でプレッシャーを与えてくる。東京にいると、周りが独身ばかりなので意識しないが、29歳ともなれば、地方では子供が三人いてもおかしくない。
『あんた、誰かいい人いないの?』
娘の沈黙に母親がため息をつく。
『女医なんてただでさえモテないのに……男友達もいないの?』
「それくらいいるわよ」
『あら、ほんと! 今度、紹介しなさいよ』
「そういう関係じゃないから」
『じゃあ、どういう関係なのよ?』
クラメン(クランのメンバー)をどう説明すればいいのか。
「……仲間っていうか、戦友っていうか……」
『またゲーム?』
「もういいでしょ。切るよ。あたし、忙しいの」
『どうせゲームやるだけでしょ。慎平が言ってたよ、姉ちゃんと連絡するには、電話をするより、ゲームにログインした方が早いって』
冴子が唇の端を不機嫌そうに曲げる。
(慎平のやつ、よけいなことを……)
慎平は七つ離れた弟だった。今は工学系の大学で学んでいる。
『ERじゃなくて、せめて皮膚科とかにならないのかい? 忙しすぎると、男性との出会いもなくなるわよ』
「うっさいわねえ。私は好きでこの仕事やってんの。もう切るよ」
強引に通話を終了し、ベランダから青みがかった夜空に目を向ける。遠くで救急車のサイレンの音が聞こえた。また誰かが病院に運ばれているのだろう。
今日、治療した患者たちの顔が脳裏に浮かぶ。
(人生にリスポーンはない。だから私は人を救うんだ。今日も明日も……)
ゲームでキルし、リアルで人を救う。彼女の名はネトゲ女医――時計田冴子。
(完)
冴子さん曰く、今年最大のニュースは新型コロナではなくApexハッキング騒動だそうです。