【新作能】イノシシと二本の梅の木
☆最後に梅の写真二枚を入れました。ご覧になりたくない方は非表示にする機能を使って楽しくご覧ください。
季節 梅雨と夏の間の大雨の時期
場面 山を造成した古い住宅地の玄関。一対の白梅・紅梅が植えられている。
作り物 舞台中央に一対の白梅・紅梅。猪が穴を掘るため間隔をあける。その裏にシテ、ツレがそれぞれ出番まで潜んでいる。
登場人物
ワキ この里に古くから住む猪の精(猪)
シテ 白梅の翁(白梅)
ツレ 紅梅の媼(紅梅)
☆☆☆
猪 「これはこの里の裏山に古くから住まい致す、イノシシでござる。最近あたりの水の流れ、気の流れがしごく乱れておる。あやしい。そうおもって、試しに近くの紅梅様の根元にはうミミズどもの、味を確かめに来たのじゃが……。
ふうむ。苦いような渋いような異な舌ざわり。人家のちかくの溝のような、腐った匂い。このような味のミミズは食ろうたことがない。おかしい、あやしい。はてさて今地中で何が起こっているのか。
いやいや、にわかには判じがたい。もう少し掘って、ミミズを集めてみなければ」
(白い扇子を半分だけ開く。それで土を掘る真似をしながら足踏みし舞を舞う)
〽どうどう どどう どうどう ミミズよ出でよ
〽どうどう どどう どうどう 我が食ろうてやる故に
白梅 (白梅の作り物の陰から翁としての姿を現す)
「これ、そこなイノシシ」
猪 「はい? あっ白梅の翁様。お眠りになっておられる間、土を掘らせていただこうと思っていたのに。お目がさめましたか」
紅梅 (紅梅の作り物の陰から媼としての姿を現す)
「あんなにどんどこどこどこ騒いでおいて、お目が覚めマシタかとは片腹いたい。そなたはなんですか。わらわの足元で、一体何をしているの」
猪 「はい。我はこの里に住まいするイノシシでございます。最近わが方の水の流れ、気の流れが乱れている。変だとおもい、紅梅様の根元にはうミミズどもの味を確かめに参った次第。ご無礼のだん、ひらにお許しくださいませ」
白梅 「するとそなたは、ミミズの味で、水の流れ、気の流れを知ることができると申すか」
猪 「さよう。ミミズは水の流れ、汚れをしめします。そして、紅梅様の木には、気の流れが正しく反映される。さらに、紅梅様がおもちの豊かな香り。これが下の土を食ろうておるミミズたちの体にもうつるのでございます」
白梅 「ふうむ。それで、なにかわかったのか」
猪 「我はこのあたりに三十年住もうております。しかし、いままでこんな汚い味のミミズを食ろうたことがありません。なにかとんでもないことが起きるまえぶれかと存じます」
紅梅 「そうお? そなたもそう思うのね」
白梅 「紅梅、なんじゃそなたまで」
紅梅 「わらわも近頃の空、風、気の流れはなにかおかしいと思うておりました。我らが住むのは人家の庭ゆえ、地中の水の動きはよくわかりませぬが」
白梅 「そうか、二人までが口をそろえて言うのであれば、何ぞあるのやもしれぬ。イノシシ、何が起こるかわかるか」
猪 「我にもしかとはわかりませぬが。近ごろ人間の世界で起きている、集中豪雨や山崩れ、がけ崩れがあるのではないでしょうか。
このあたりはちょっと掘れば下は真砂土。崩れやすうございます」
☆☆☆
白梅 「そうか。ならば我らは地を癒すために、舞を舞おうと思う。イノシシ、そなたは危険を、人間どもに告げ知らせよ」
猪 「心得ました。と申したいところですが」
白梅 「なんじゃ」
猪 「人間どもは、我が言葉を聞いてはくれませぬ」
白梅 「それはそうじゃが、何とかしてつげ知らせよ」
猪 「お言葉ですが。そもそも天の気、地の気、水の気を汚し、乱してきたのは人間たちです」
白梅 「その通りじゃ」
猪 「入ってはならぬところに入り、水を汚し、木を切り倒し、土をほじくり、電気の柵をはりめぐらし、鉄でできたわなを仕掛けて我が眷属を虜にし。
してはならないことをして、益をむさぼってきたのは人間でございます」
白梅 「はあ」
猪 「そのような人間どもを、我らが手間暇かけて、救ってやる義理があるのでしょうか? 彼らは罰を受ける。それが天然自然のことわりであり、邪魔をするのは正しくないのではないでしょうか」
白梅 「ふうむ。それがそなたの考えか」
猪 「恐れ入りましてございます」
紅梅 「二人ともちょっとお待ちなさい」
猪 「ははっ」
白梅 「なんじゃ。紅梅の」
紅梅 「我らふたりは、人間が家を建てるとき、玄関先にともに植えられたもの。
ですが、この地この里を守っていく、守りたいという心は、イノシシ殿と同じです。
この地にがけ崩れが起きれば、人間以外のたくさんの生き物も苦しむことになりましょう」
猪 「それは……その通りです」
紅梅 「もしかしたら地形が変わり、ふたたび戻ることのかなわぬものもあるやもしれませぬ」
猪 「恐れ入ります」
紅梅 「それに、人間とて命のあるもの。むやみに見殺しにするのも考えもの。
天の理地の理がどこにあるか、わらわにもわかりませぬ。
しかし、いま出ている前兆を伝えることは、無駄にはなりますまい。我らにできることは、してやりたいと考えます。
いかがですか、イノシシ殿」
猪 「恐れ入りましてございます」
紅梅 「それに、そもそもそなたがここに来てミミズを食ろうたは、心配だったからではないのですか」
猪 「そのように何もかも言い当てられては、申しようもありません。しかし、最初にもどりますが、近頃この里には我らの言葉を聞くものがいなくなりつつあります」
白梅 「そうよのう。子供の数がめっきり減った」
紅梅 「昔はわらわが花を咲かせると、紅梅の花美しい、よい香りと皆が喜んでくれたものだけど」
白梅 「わしがどっさり実をならせても、採って漬けてくれる者も少なくなった。
まあ思い出話はどうでも良い。イノシシ殿はこのことを、人間たちに告げ知らせてくりゃれ。何百人、何千人のなかには、きっと聞いてくれるものもあろう」
猪 「心得ました」
白梅 「我らは、気の乱れ水の乱れを整え鎮めるため、およばずながら舞を舞おうではないか」
紅梅 「そういたしましょう」
紅梅白梅は懐から白い扇を出し、二人で掛け合いで舞を舞う。
白梅の翁
〽「此の地には、崇山峻領、茂林脩竹有り。又、清流激湍有りて、左右に暎帯す」
紅梅の媼
〽「是の日や、天朗らかに気清く、恵風和暢す。仰いでは宇宙の大なるを観、俯しては品類の盛んなるを察す」(注1)
地謡
〽「万代に、年は来経とも、梅の花、絶ゆることなく、咲きわたるべし」(注2)
繰り返す
舞終わる。梅の木たち、ゆっくりと退場する。
その間、イノシシ、劇場のあちこちを駆け回って、大音声で呼びかける。
「もうすぐ大雨がふるやもしれぬ。山から響く音に気をつけよ。岩からにじみ出る水に気をつけよ」
「もうすぐ大雨がふるかもしれぬ。湧き水の匂いに気をつけよ。濁りに気をつけよ」
「もうすぐ大雨がふる。山から響く音に気をつけよ。岩からにじみ出る水に気をつけよ」
「もうすぐ大雨がふる。がけのひび割れに気をつけよ。立木のきしむ音に気をつけよ」
呼びかけながら、橋掛かりを走って退場。
(終)
注1;漢文「蘭亭序・王義之」部分(シリーズ書の古典7『蘭亭序二種 王義之』 天来書院)
「この地には、高い山や険しい嶺、よく茂った林や丈高き竹があり、また清らかな流れや激しい早瀬があって、あたりに照り映えている」
「この日、天空はほがらかに晴れて空気は澄みわたり、そよ風はやわらいでのどかであった。
振り仰ぐと宇宙の広々としたさまが見わたせ、俯くと萬物の盛んなさまが明らかに見てとれる」
注2;和歌「万葉集巻五・八三〇・筑前介佐氏子首」(新編日本古典文学全集7『萬葉集2』小学館)