スラムダンク
どいつもこいつもバカばかりだ、と僕――通称ビンは思った。
参考書をめくる手が止まる。2-1の教室は年中無休で盛り上がっていて、読書をするには適さない環境だった。造詣を深めるのは将来への投資だ。今こうして、何でもないような休み時間をどう過ごすかというだけで、十年後は全く違ってくるはずだ。僕は本気でそう自負していた。
数分後、担任の小川が建付けの悪い引き戸を開け、小走りで教壇まで歩いてきた。何人かの生徒が不思議そうに小川の顔を覗く。小川は国語の教科担当で、次の授業は数学であった。
「せんせー、どうしたんすかー」体を捻り、本来の椅子の使い方とは大きくかけ離れた座り方をしている生徒が軽い調子でそう尋ねる。
「えー、休み時間中悪いが、先生ちょっと、先生やめることにした」
「はあ?」どっと笑いが起きた。
「ちょっと前から迷ってたんだ。先生結婚もしないでこの歳まで来ちゃったし、両親ももういないしなあ。それで今朝起きて、カップの味噌汁にお湯注いでた時に思ったんだ。俺、もういいんじゃないかって」
淡々と続ける小川。その致命的な空気感の違いに、生徒たちも段々と気づき始めていた。
「だからな、先生『ファイル』に行くことにしたから。五限の国語は自習。じゃあ、元気で」
僕は途端にうんざりした。この世界は、みんなバカばかりだ。その中でも、自分から『ファイル』に行くやつが一等バカだ。
小川は足早に教室を去っていった。入れ違いで、数学の授業を担当する荒牧が教室に入ってきて、何事もなかったかのように授業が始まった。
――――
帰り道。僕は好ましくない模試の結果の紙を握りつぶしながら歩いていた。悪くなってるわけではない。だが、このペースでは目標の大学には届かないだろう。
勉強の時間を増やさないと……そう考えていると、急に後方から肩を叩かれた。
「ビン先輩、お久しぶりです」
「神田……」
整った顔を見せつけるように、前髪を七三に分け、スポーティな感がある好青年。通学バッグにつけたいくつものキーホルダーがじゃらじゃらとうるさい。僕と同じバスケットボール部の後輩、神田だ。と言っても、僕はもう部活に顔を出していない。僕のポジションは、神田に奪われてしまったからだ。
「勉強の調子はどうですか」
「あ、ああ。悪くはないよ」
「まあ、そのために部活来なくなったんですもんね」
生意気な奴だ。しかし確かに、僕は勉強を理由にして部活に行かなくなった。ポジションをとられてやる気がなくなったなんて、誰に言えるだろう。
「あ、神田、確か向こうの駅だろ。僕寄るところあるから、ここでお別れだ」
寄るところなんてない。
「待ってくださいよ、逃げるんすか?」
「は?」
胸中を見透かされたような気がした。
「いや、ほんっと、心苦しいんすですけどね。ちょっとお願いがあって」
「お、お願い?」
「正直な話、部活やめてくれないっすか?俺、今スタメンですけど、一応先輩の補欠ってことになってるらしいんですよ。」
「別に、試合に出られるんならいいじゃないか……」
「いや、嫌ですよ。だって正直、逆じゃないですか?俺の方が上手いし」
言い返そうとしたが、言葉が引っかかってこない。神田が言っていることは事実だ。
「お前……僕は先輩だぞ」苦しい反論を返す。
「なんですかそれ。顧問と同じこと言ってますよ、年功序列~とか考えてるんですか?」
「そういうわけじゃないけど……」
「じゃあなんですか?俺の言ってること間違ってますかね?いいじゃないですか、どうせ来るつもりもないんでしょ」
まさか僕が反論するとは思わなかったようで、神田の表情には少し怒りが見えた。
「ぶっちゃけどうなんですか?勉強のために部活来なくなったわけじゃないでしょ」
「は、はあ?」
「何回やっても俺に勝てないからやる気なくしちゃったんじゃないですか?」
「違う……僕は……」
「なんにせよもう来ないんでしょ?」
僕は何も言えない。
どんな言葉も、僕の口から出た途端に説得力を失ってしまうようで、結局僕は部活をやめることを口約束してしまった。不甲斐なさが僕を支配した。
神田と別れると、もう学習塾の時間には間に合わない頃だった。今日は休むという旨を伝えると、講師は不機嫌そうに電話を切った。なんだか、全てが嫌になってきた。
「くそ……神田の、バカやろうが……」
なぜだか無性に神田が憎くなった。僕は間違いなく神田に舐められている。神田は交友の広い奴だから、きっと部全体で僕を軽んじる雰囲気ができているのだろう。
世の中バカばかりだ。そして、バカに関わった人間はもれなく不幸になる。
両親は僕が物心つく前に『ファイル』へ行った。聞くと、僕を置いて自ら……らしい。
もうわかってると思うが、『ファイル』に行くってのはつまり、死ぬことの方便だ。何時のころからか、「死ぬと『ファイル』という異世界に行けるらしい」という迷信が生まれ、それが世論となり、最近では事実として認定された。
だが、両親の骨はしっかりと墓の下に埋まっている。小川も多分、明日には「発見」されるだろう。
つまり『ファイル』なんてのは、迷信で止まっておくべきだったんだ。『ファイル』から戻ってきたとうそぶく奴が出てきたり、それを怪奇的な現象と結び付けたり、面白半分で火を大きくして行った結果、ほんの少しだけ死にやすい社会になってしまった。
子を捨てるバカも、絶えないってのに。
「危ないっ!!!」
……僕に言っているのか?ふと顔をあげると、大口を開けた男が向かいの道路に見えた。
突如、視界が廻った。掻いたようなブレーキ音が閑静な住宅街に響き渡る。
全身が熱い。声だけが朧げに聞こえる中、僕の意識は消えていった。
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