和心茶房ありす
数日後。
窓から差し込む暖かい光が、喫茶店のカウンターで紅茶を注ぐシロのピアスをきらりと煌めかせる。そんなシロの横顔は、どこか晴々としていた。
窓際のテーブル席から、チェシャ猫がぼそりと言う。
「なんか、機嫌良いな」
「えへへ。実はね、今日は楽しみにしてるものが三つもあるんだ」
シロは照れ笑いで返し、無邪気に人差し指を立てた。
「まずひとつ。店を閉めたあと、新しい食器棚が届く。直そうかとも思ったけど、折角だから新品に買い換えたの」
シロの背後には、ガラスの盛大に割れた棚がどっしり佇んでいる。チェシャ猫ははあ、とつまらなそうに返事をした。
「年季入ってたしな。ちょうどいいんじゃねえの」
シロの上機嫌は、今日始まったことではない。と、チェシャ猫は知っている。先日、月綴ヶ丘の山の中、人の踏み込まない林の中で、白骨遺体が見つかったのだ。
金のピアスの傍、深い土の中に埋められていたそれは、現在DNA鑑定にかけられている。まだ結果は出ていない。それでも、シロにとっては充分だった。
肉親の死を確信したのに上機嫌というのも、おかしな話かもしれない。だが、僅かながらゼロではない生存の可能性にかけ、諦めているのに捜す日々から、彼はようやく開放されたのだ。ようやく、前を向ける。
八年前に止まったシロの時計が、やっと動き出した。
「ふたつめ! 中の食器もかなり割れたから、それも新調したんだ。羽鳥くんに教えて貰った新しいシリーズでね、洋柄の湯のみと和柄のティーカップがあるんだよ。もう少ししたら羽鳥くんが持ってきてくれるんだ」
シロは楽しそうにピースサインをして、盆に紅茶を載せた。それから、そうそう、と付け足す。
「さっき深月くんが来て、これを置いていったんだった。チェシャくんも見ておいてね」
彼はカウンターを出て、チェシャ猫のいるテーブルに和紅茶を置いた。そしてその横に、封筒を添える。山根から届いた、レイシーの灰の分析結果である。
喫茶店の棚や食器が入れ替わるというのんびりした話題の途中で、突然仕事の話を放り込まれた。チェシャ猫は無言でその封筒を開き、細かい文字が並ぶ紙面と向き合う。分析結果を見つめるチェシャ猫は、窓から差す日差しで髪がほんのり煌めいている。シロは眩しげに目を細め、壁に凭れた。
「上戸和寿自体は人間“だった”みたいだね。ただ彼は、寄生型のレイシーに取り憑かれて、人間じゃなくなってしまったんだ」
寄生型。実体は黒い液晶状のレイシーで、思考や意思は持たない。例えるなら、菌のようなものである。
実体を空気の中に溶かして、人の体に取り憑き、器にした人間の生気をじっくりと時間をかけて吸う。且つ、器を取り巻く周囲の人間に負の感情を起こさせ、その不安感や焦燥感を喰っている。
取り憑かれた人間は性格や記憶を残したまま、自我を失う。故に、傍から見ればいつから取り憑かれていたか分からないという。
そして、器から生気を吸い尽くしたら、別の器へと移動する。捨てられた古い器は、レイシーに全身を支配され尽くされて、もはや人間の肉体ではなくなり、灰と化す。
チェシャ猫はシロの店で倒れていた上戸の体を思い浮かべた。あのあと、振り向くといつの間にか上戸の遺体はなくなっていた。彼のいた場所には、ぺしゃんこに潰れたコートや衣類が灰まみれで残っているだけとなっていたのだ。
現在、世間では上戸和寿は行方不明となっている。
ただのレイシーと違って人間として生まれ、生活していた彼は、戸籍も住所も家族も職もある。それがひとり忽然と消えたのだから、当然騒ぎになった。妻子は泣いているという。
だが真相は警察に伝えられているので、そのうち捜査も行われなくなる。
チェシャ猫はまた、書類に目線を戻した。寄生型は器を取り巻く周囲の人間に負の感情を起こさせ、その不安感や焦燥感を喰っている、とある。
思えば幾度となく、上戸と話していて不安を煽り立てられていた気がする。無性に暗い気分にさせられ、考えても仕方のないことで酷く落ち込んだ。あれは上戸を媒介して、チェシャ猫の生気を喰われていたのである。
そのあと愛莉と話すと、一気に気持ちが好転した。以前シロが話していたとおり、愛莉の明るさはレイシーに限らず人間にも効く。レイシーに毒されたチェシャ猫は、愛莉と接することで回復させられていたのだ。
「どうなってんだよ、あいつ」
チェシャ猫は呟いて、それから和紅茶をひと口、口の中に流し込んだ。飲み慣れた柔らかな風味が、ふんわりと鼻を抜ける。
此度の寄生型レイシーの習性を知った上で上戸の言動を振り返ると、様々な心当たりがある。
上戸が巡から愛莉を遠ざけようとしていたのは、レイシーである彼にとって、愛莉が邪魔だったからだ。巡が愛莉を拒絶しているというのはもちろん、思い詰めて首を括っていたなどという発言も、虚言だろう。施設の職員が誰も知らなかった時点で、妙だとは思っていた。
あれは愛莉を巡に近づけさせないついでにチェシャ猫を追い詰める、一石二鳥の作り話だったわけだ。
巡の海外治療の件も、嘘だ。
チェシャ猫と巡が渡航を決意した途端に頓挫させるなどして、ふたりを絶望させるための布石だ。その証拠に、上戸から渡されたパンフレットは、愛莉が触れた途端に灰になった。あのパンフレット自体、上戸、否、寄生型レイシーが自身の欠片から作り出した物体だったのである。尚、レイシーを跳ね除ける愛莉の性質が、このパンフレットを消し飛ばした。
「先生だけでも、俺だけでもなく、巡まで利用されてたんだな」
巡に治療の件を切り出さないチェシャ猫に、上戸はさぞやきもきさせられただろう。そう思うと、決断を急かされたのにも納得がいく。
シロが天井を仰ぐ。
「八年前の事件さ、山の麓の住民の目撃証言は、本当だったんだね。山に入っていったふたつの人影は、叔父と、叔父が追いかけてたトレンチコートのレイシーだったんだ」
信憑性を怪しまれていた、あの証言だ。
「山へ入ってきた叔父に、上戸先生は、老婆の遺体を埋めているのを目撃されてしまった。自分の罪が公になるといけない。先生は咄嗟に、目撃者を殺そうとした」
見てきたかのように話すシロに、チェシャ猫は一旦書類から目を上げた。シロは空中の一点を見つめ、記憶を手探りするような難しい顔で続ける。
「目撃者である叔父も対レイシー用にナイフを持っていたし、威嚇もしたけれど、反撃はしなかった。たとえ正当防衛でも、人間にナイフを向けるのは憚られたのかな。けど上戸先生の方は躊躇がなかったから、叔父を容赦なく刺し殺した」
ナイフはあくまでレイシー用であり、人間を傷つけるためのものではない。チェシャ猫は無言で聞きながら、自分も生身の人間には銃は撃てないかもしれない、などと考えていた。
「刺された直後、叔父は上戸先生に言った。『俺が死んだとしても、俺はここにいる。俺の意思が残り、訴え続ける限り、必ず誰かが真相を暴く』……」
シロはふむ、と顎を撫でた。
「だから先生は、人ならざるものが残る可能性と、そこへ辿り着こうとする存在が気がかりだったんだ。それで初対面の僕に、あんな不思議な質問をしたんだね」
「なんか、随分詳しいな。上戸先生はそこまで自白したのか?」
チェシャ猫が怪訝な顔で問うと、シロは首を横に振った。
「ううん? あれ、言ってなかったっけ。寄生型が僕の中に入ってきたとき、上戸先生の記憶とか感情とか、そういうものが共有されたんだよ」
「え、キモいなそれ」
チェシャ猫が顔を顰めると、シロは彼のストレートな物言いにくすっと笑う。
「気持ち悪いよね。なんていうか、彼の過去を新しく知ったというより、前から知っていたみたいな感覚になった。もうかなり薄れてきてるから、それも気のせいだった気がしてるけど……本来の彼は、とても真面目な性格だった」
シロは目を薄く閉じて、消えかけている記憶を辿った。
「曽祖父の代から医者で、医師の業界ではそこそこな権力を持っていて……上戸先生が勤務していた病院でも、彼が新人の頃から、実家の権力に恐縮して、周囲が上戸先生の顔色を窺ってた」
ような覚えがある、と、シロは小声で付け足す。
「でも、それを望まなかった上戸先生にとっては、居心地が悪かった。そうして悩んで弱っていたところを、レイシーに付け込まれたのかもね」
「そんでその、自我のないただの菌みたいなレイシーにじっくり蝕まれて、空っぽになったら捨てられたと」
チェシャ猫がこれまたストレートに言うと、シロは閉じていた目を開いた。
「そう思うと、気の毒だよね。彼自身はなにも……」
そしてまた、その瞳を伏せる。
「おかしいよね。たしかに上戸先生は上戸先生の手で、僕の叔父を殺した。殺した彼の記憶が、リアルな手応えまでもが自分の中に入ってきて、まるで自分が殺したような感覚すらある。でも、先生自身が自分をコントロールできてなかったのも分かるから、純粋に憎めないんだ」
シロの消え入りそうな声に、チェシャ猫はなにか言おうとして、やはりなにも言えず舌打ちだけした。
シロは上戸に、大切な家族を殺された。シロ自身も、次の器にされかけた。それでも彼は仕方がなかったと受け入れて、怒りより同情の方が上回っているのだ。
チェシャ猫も改めて振り返る。医師としての上戸を信頼していた。彼に従えば、巡が回復するのだと信じていた。しかしそれは偽りで、自分だけでなく、なにも知らずに健気に生きる妹までもを騙していた。
でも上戸はなにも悪くない。むしろ被害者である。寄生型に意思はないから、悪意もない。
ならばこのやり場のない虚しさは、どこへぶつけたらいいのか。
複雑そうに不機嫌な顔をしているチェシャ猫に目をやり、シロはふふっと微笑んだ。
「改めてチェシャくん、ありがとう。僕がレイシーに支配される前に止めてくれて。危うく僕も上戸先生と同じ過ちを犯すところだった」
「はあ、そうなったとしてもシロさんの過ちじゃねえだろ」
そう言ってから、チェシャ猫はああ、こういうことかと口の中で呟いた。上戸もまた、上戸の過ちではなかった。
まだ自分の中で処理しきれないが、少しずつ納得していくしかない。
「で。シロさんはいつ頃から、先生にレイシーが憑いてるって気づいたんだ?」
「最後まで全く気づかなかったよ! 先生自身をレイシーかもしれないなとは疑ったけどね。有栖川瑠衣の前例があるから、役職を持って人間に擬態してるレイシーもいるのかもって」
シロは力なく苦笑いした。
「あの日はさ。外が暖かくてお店の中もほかほかしてたのに、上戸先生が来た途端急激に寒くなったんだ。悪寒、っていうのかな。来店してきた時点ですでに本気モードだったんだと思う」
「それを察してたのに、あんたは先生とのんびりお喋りしてたのか?」
「話しながら彼の正体を探ろうとしたの。想定より早く向こうが手の内を見せてきて……結果的には、情けないことに襲われちゃった」
「そういう駆け引きをするのは、俺がいるときにしてくれ。あんたはレイシーに近寄るのすら危険なレベルで、向いてないんだから」
チェシャ猫が紅茶を口元へ運ぶ。シロは拗ねた子供みたいな顔で、チェシャ猫を眺めた。
「向いてないとはいえ、一応狩人だから……いや、取り憑かれたあとに言ったところで説得力がないか。はい、チェシャくんの仰るとおりだよ」
さくっと降参するシロを、チェシャ猫はしばらく睨んでいた。
シロはこう言っているしチェシャ猫もフォローするつもりはないが、レイシーが上戸に憑いたままだったら、チェシャ猫はレイシーに気づかなかった。信頼している上戸がレイシーかもしれないなどと、疑いもしなかったのだ。
レイシーがシロに移ったから、駆除できた。シロだったからこそだ。
上戸以上に信頼しているから、普段のシロなら言わない台詞に違和感を覚えた。そして彼を知っているから、体そのものはシロのものだとも分かった。彼を操るレイシーが、寄生型だと気づけたのだ。
だがそれを口にするのは癪なので、胸の内に留めておく。
シロが話題を変えた。
「それで。巡ちゃんの今後はどうなりそう?」
「ひとまず、施設には新しい担当医がついた。その新しい先生に、一応、上戸先生が言ってたように整形手術で目が治ったりしないか、聞いてみた」
チェシャ猫はぱたんと、分析結果の書類を折り畳んだ。
「巡の状態は結構深刻で、現在の医療技術じゃ難しいってさ」
「そっか……」
海外だろうとどこだろうと、行ってやろうと思っていた。そのためならいくらでも働いて、資金を工面するつもりだった。
だが、そもそもそんな現実はなかった。結局巡は、このまま現状維持なのだ。覚悟諸共希望を打ち砕かれて、中途半端な虚無感が居心地悪く残っている。
チェシャ猫は頬杖をついて、窓の外の街並みを睨んだ。
「腹立つが、幸い巡にはまだ話す前だった。だからそれは、まあいい」
巡にありもしない希望を与えてしまわずに済んだのは、不幸中の幸いである。
「それに巡は、顔や目を元に戻すより、今の自分の現状と上手く付き合ってく方を大事にしたいらしい。できることを増やしたいと言って、自立訓練を頑張ってる」
『私、案外このままでも充分幸せなの。目が見えてるのと同じくらい、いろんなことを感じてる。他人が思うほど、哀れじゃないの』
上戸に弱らされていたチェシャ猫には受け止めきれない言葉だったが、これは、巡の率直な意志だった。彼女は兄が思っている以上に、強く逞しい。
チェシャ猫が紅茶を口に近づける。
「ありもしない手術の話のおかげで、巡の希望を聞くきっかけができた。そんで、巡が現状維持なら俺も現状維持だ。これからも変わらず、あんたのもとで仕事を続けられる」
心残りだったそれが杞憂で終わったのは、どこかほっとしている。
「シロさんは俺がいないと、やすやすと寄生型に取り憑かれるみたいだからな。やっぱあんたを置いては行けねえわ」
外の景色を見つめているチェシャ猫に、視線が刺さる。振り向くと、シロが意外そうにチェシャ猫を凝視していた。
「なんだよ」
「上戸先生に騙されてたの、もっと怒ってるかと思ったから、驚いた。案外すんなり受け止めてるんだね」
「これだけ最悪なことが重なったんだ。どこかしら褒めるポイント見つけねえとやってらんねえよ」
「そういうところが意外なんだよ。ラッキーだったと言えるところを、探してる君がさ」
シロは感慨深そうに言ったあと、ニヤッと意地悪く口角を吊り上げた。
「前向きになったね。誰かさんに似てきたんじゃない?」
「……ああ?」
喧嘩を買ったヤンキーの如く、チェシャ猫の顔が険しくなる。シロはわざとらしく視線を背け、カウンターへと戻っていった。
「さーてと。そろそろかな」
「なにがだよ」
「あのねチェシャくん、僕は最初に、楽しみが『三つ』あると話したでしょ」
シロはいたずらっぽく目を細め、指を三本立てた。
「三つめ。当店『和心茶房ありす』、今日からバイトを雇いました」
「はあ? ……おい、まさか」
直感的に、チェシャ猫は肩を強ばらせた。シロがうきうきと抹茶ラテを作りはじめる。
「僕から提案したんだ。なにせ彼女は、いてくれるだけで心強いからね。チェシャくんが寄生型を駆除するのに僕ごと撃たなくて済んだのは、あの子のおかげだもの」
ハートの女王は絶対的な権力を持つ。
気に入らない者は首を刎ねる。「刎ねよ」と命令するだけで自らが手を下しはしない。それでも不思議の国の住民たちが、女王の一喜一憂に翻弄されることに変わりはない。
彼女の力は、確実に必要だ。
リリンと、扉の鈴が大きく揺れた。
扉が全部開くのを待たずに飛び込んでくる、さらさらの長い髪に、チェックのスカート。片手を大きく振り上げたその少女の声が、店にこだまする。
「やっほー! 来たよシロちゃーん! 今日からよろしくお願いしまーす!」
そしてすぐに、窓際のテーブル席へと目を移す。気配を消している彼を即座に見つけて、瞬発的に飛びかかっていく。
「チェシャくーん! いらっしゃいませー!」
チェシャ猫が椅子から降りて逃げ出す暇も与えず、彼女は全身でしがみついてチェシャ猫の動きを拘束した。
「今日からバイトに入りました、姫野愛莉でーす! 以後お見知り置きを!」
「うるせえ離れろ知ってる」
窓から麗らかな陽気が差し込む中、彼女の頭を押さえつけて引き剥がそうとするチェシャ猫と、それに動じず一歩も譲らない愛莉との、激しい攻防が繰り広げられている。
それをカウンター越しに眺めるシロは、できたての抹茶ラテを盆に置いた。
チェシャ猫と愛莉の掴み合いは激しさを増していく。愛莉はいくら拒まれても、めげずにぺらぺら喋り続けた。
「このお店めちゃくちゃ給料良いから、ファミレスのバイト辞めちゃった!」
「聞いてねえよ、離れろ」
「今までシロちゃんがひとりで回してたくらい、お客さんいなくて暇なのにね!」
「んんっ!」
突然、チェシャ猫が勢いよく顔を背け、片手を自身の口に押し当てた。途端にカウンターの向こうのシロが振り向き、愛莉もハッと顔を上げる。
「今、笑った!?」
「……ってねえよ」
そう言うチェシャ猫は愛莉の方に顔を向けないし、肩は小刻みに震えている。愛莉の歓声はより大きくなった。
「笑ってるー! 見てシロちゃん、チェシャくんが笑ってるよ、すごく失礼なところにツボって笑ってるよ!」
晴れた陽の光が、店の小物を眩しく照らす。
春はもう、すぐそこまで来ているようだ。




