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黒幕

「大丈夫、ふたりとも落ち着いて。コーヒーでもどう?」


 床にしゃがんでいたシロが、腰を上げる。


「寒いから扉を閉めてくれるかな」


「あっ……う、うん」


 シロに促され、固まっていた愛莉はようやく我に返り、開きっぱなしだった扉を閉じた。シロは割れた湯のみも零れた茶も、倒れた上戸も放置して、カウンターへと入っていく。

 チェシャ猫と愛莉は互いにちらりと目配せし、床を踏み込んだ。倒れている上戸に近寄り、傍に座る。


 改めて観察しても、そこに寝そべる体はたしかに上戸だった。

 知性のある顔つきに、大人の渋さを感じさせる小さな皺、質の良さそうなコートまで、間違いなく上戸のものである。ただ、その体は抜け殻のようにくったりと潰れていて、口の開いた顔からは生気が抜けている。


 チェシャ猫は無表情でそれを見つめていた。これは妹の主治医を務めた男だ。それは分かっているのに、衝撃のあまりに感情が追いつかず言葉も表情もない。


 無言のチェシャ猫を横目に、愛莉はおずおずと、上戸の背中に手を伸ばした。


「お、おーい。先生?」


 しかし愛莉のその指が触れる直前で、シロの声が咎めた。


「触らないで。死んでる。なにをしてももう無駄だよ」


「死……!?」


「うん。死んでる。僕が殺した」


 呆然とする愛莉に、シロがカウンターから声を投げた。


「驚くのも無理もない。でも説明を聞けば納得すると思うから、とりあえず座ってよ」


 目の前に死体が転がっているというのに、シロはふわふわと微笑んでいる。このコントラストはどうにも不気味で、チェシャ猫は肩を強ばらせた。

 ひとつ小さな深呼吸をして、チェシャ猫は立ち上がった。


「コーヒーを」


 彼に続いて、愛莉も恐る恐る床から立つ。


「あたしは……どうしようかな。もう少し悩む」


「かしこまりました」


 シロはにこりと柔和に承った。

 彼と向かい合うカウンター席の椅子に、チェシャ猫が腰掛ける。愛莉はその隣に座った。彼女の着席を見届けてから、チェシャ猫が切り出す。


「説明を聞けば納得するとのことだったな。納得させてくれるか」


「びっくりさせてごめんね。ご覧のとおり、僕は上戸先生を殺した」


 シロはコーヒーポットを手に語りはじめた。


「これは復讐だよ。僕の叔父を殺したのは、この男……上戸だったんだ」


「上戸先生が、叔父さんを……?」


 愛莉が息を呑む。シロはこくんと頷いた。


「彼はとある身寄りのない老婆を、医療ミスで死なせた。手術の際に、体の中に器具を残してしまったんだ。ミスの証拠隠滅のために老婆の胸部の器具をナイフで取り除き、その遺体を山の中に遺棄した」


 彼は淡々と、出来事を語っていく。


「しかし遺体を埋めているところを僕の叔父に見られた。だから、口封じのために殺すしかなかった」


 ふう、と、シロはひと息ついた。


「それから八年。風の噂でこの店の存在を知った。殺した男そっくりな風貌の僕が店主をしていると分かり、ここへ訪ねてきたんだよ。殺した男と僕はどう見ても他人じゃない。その僕が、叔父の事件の真相に近づいたらまずいとでも考えたんだろうね」


「叔父さんを殺したのは……上戸先生」


 愛莉が茫然自失の顔で呟く。


「だから、先生を殺したの?」


「そうだよ。これじゃ理由が不充分かい?」


 シロはあっさりと頷く。愛莉はまだ、口をぽかんとさせていた。首を僅かに捻って、床に突っ伏す男の背中に目をやる。ぴくりとも動かないその背から、愛莉はまた目を背けた。

 黙って聞いていたチェシャ猫が、口を開く。


「ふうん……なるほどな。復讐なら仕方ねえか」


「あれ。案外簡単に受け入れた」


 シロが意外そうに言うと、チェシャ猫はまあ、と続けた。


「俺はそういうのは、理解がある方だ」


「ありがたいけど、もう少しショック受けてほしかったな。君たちが懐いてくれたシロちゃんが、人を殺したんだよ?」


 はははと笑うシロに、チェシャ猫はまたふうんと鼻を鳴らした。


「まあ、他人に拳銃握らせるような人だし」


「いやいや納得するなって。してほしいとは言ったけど、ここまですんなりだとつまらないよ」


 シロは眉間に皺を寄せ、改めてチェシャ猫と愛莉に向き直った。


「上戸先生を、どうやって殺したと思う?」


 シロに問われ、愛莉は無言で目を逸らし、チェシャ猫は振り返って上戸の周辺を観察した。

 死体に傷はない。血の跡もなく、眠っているだけにすら見える。ただ、床には湯のみと抹茶が飛散しているだけだ。

 状況から見るに、彼は湯のみを手に持っていた。茶をひと口かふた口は飲んで、それから倒れたのだと考えられる。

 チェシャ猫は姿勢を戻して、シロに正面を向ける。


「分かんねえ。人は殺したことないんでな」


「分かんないか」


 シロは苦笑すると、トン、とチェシャ猫の前に湯のみを置いた。中の黒い水面が、きらきら光ながら湯気を上げる。シロが穏やかな声を添えた。


「はい、コーヒー。召し上がれ」


 チェシャ猫がちらと愛莉の顔を窺い、愛莉も真顔でチェシャ猫に視線を返す。ふたりの様子を見て、シロが首を傾げる。


「なんだかふたりとも、思ったより冷静だね」


 チェシャ猫は腕を組み、カウンターに乗せた。


「いや、こっちも思ったよりつまんねえから唖然としてた。もっと丁寧に仕上げてくると期待してたんだよ」


「つまり?」


「同期四十五パーセント、くらいか。行けるな」


 チェシャ猫はそう言うと、愛莉に目配せをした。

 途端に、愛莉が椅子から立ち上がり、カウンターに足を踏み込んだ。そして勢いよく、シロの頬に平手打ちを叩き込む。


「シロちゃんから出てけー!」


 甲高い声が、キンッと響いた。

 あまりの声量に、チェシャ猫は反射的に目を瞑る。カウンターの向こう側では、シロが愕然としている。

 愛莉はカウンターに片足を乗せて、高い目線からシロを指さした。


「あたしとチェシャくんが見抜けないとでも思った!? なにか取り憑いてるんでしょ! シロちゃんはただでさえレイシーに弱いの! 早くシロちゃんから出ていってよ!」


 愛莉の脚の真横で、チェシャ猫は耳を押さえて眉間に皺を刻んでいた。耳の奥がキーンとする。しかし、シロの背に見えた、どろりとした黒い靄は見逃さなかった。平手打ちと、店の外まで響き渡りそうな声量に押し出されたかのように、シロのうなじからずるりと、黒い塊が零れ出ている。


 チェシャ猫はコートの中から拳銃を取り、素早く構えて、ろくに狙いもせず発砲した。銀の弾丸はシロ本人の横顔を掠め、黒い靄の中を貫き、背後の棚とその中の湯のみを直撃する。ガラス戸と湯のみが割れるパリンという音と共に、破片が飛び散った。


 弾丸に引きずり出され、泥のような靄が溢れ出てくる。それはやがて黒い雨のように床に落ちていき、べったりとした水溜まりになった。


 シロの体は、まるで軸を失ったかのようにふらっとよろめいた。棚に背中をぶつけ、割れたガラスのヒビを広げ、破片とともに床へと崩れ落ちていく。


「シロちゃん!」


 愛莉がカウンターを飛び越えようとする。だが、それはチェシャ猫が手のひらで制止した。それからカウンターの向こうの黒い水溜まりに向けて、拳銃を突き出す。


「惜しかったな。納得はしたが、あんたには死んでもらう」


 黒い水溜まりが、ぷくぷくと泡を浮かべている。

 チェシャ猫の横で、愛莉は汗を滲ませていた。心臓が早鐘を打っている。胸の音が聞こえそうなほど、動悸が激しくなっている。

 彼女はチェシャ猫の横顔を眺めながら、いつかのシロの言葉を思い出していた。


『瑠衣先生のように、人を喰うために人間に擬態していたり、初めから化け物の姿で暗闇に住み着いていたり、本体にはなんの力もないけど、人間の体に寄生することで力を持ったり。パターンはまちまち』


「寄生するタイプのレイシー、存在は知ってたが、見たのはあんたが初めてだ」


 チェシャ猫が、語りかけるというよりひとり言のように呟く。


「上戸先生からシロさんへ引っ越した、その判断は間違いじゃない。レイシーに好かれやすいシロさんの体は、さぞ馴染みが良かっただろう。話し方も、表情の作り方も、完璧にシロさんだった」


 あと少し、チェシャ猫と愛莉の到着が遅かったら、上戸のように完全に乗っ取られていたかもしれない。


「でも幸い、まだ完全じゃなかった」


 チェシャ猫がカチッと、引き金を引く。


「シロさんは俺がコーヒー飲めないのくらい、とっくに知ってる」


 パシュッと、弾丸が空気を切り裂いた。黒い水溜まりに銀の弾がめり込み、どろどろの液体が跳ね上がる。

 弾丸の沈む水溜まりは、波紋の中心からじわじわ、灰へと化していった。

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