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寄せ合う信頼

「ピアス、拾ってこなくて良かったの?」


 見慣れた街を歩くチェシャ猫の背中に、愛莉が問いかけた。チェシャ猫は愛莉の歩幅を無視して、すたすたと先を行く。


「現場保存、ってやつ。下手に触らない方がいいと思う。知らねえけど」


 チェシャ猫と愛莉は山を下り、駅に戻った。元の街に帰る頃には、とっぷりと日が暮れて空は真っ暗になっていた。


 愛莉は山に入る前に出会った、犬連れの男の話を思い出していた。

 あの山には幽霊が出る。それを聞いて愛莉は、埋められた老婆の霊を想像していた。しかし実際にその目で見たのは、想定とは違うもので、むしろ別の意味で衝撃的なものだった。


「あのさ、あれってやっぱりシロちゃんの叔父さんだよね?」


 チェシャ猫の背中に向かって問うと、チェシャ猫は振り向かずに返事だけした。


「姿を似せた別のレイシーじゃなければ、そうだな」


「レイシーってことは、幽霊とか、なんかそういう……」


 つまりそれは、シロの叔父がもうこの世に人間として存在していないと示唆している。

 そしてその、人でなくなった彼は、愛莉をピアスの埋まっていたあの場所へ案内した。ピアスこそ浅い位置で見つかったけれど、もっと深く掘ったら……と、愛莉は途中まで想像して、ぶんぶんと頭を振った。あまり考えたくない。

 愛莉がみなまで言う前に、チェシャ猫は彼女の濁した言葉から意図を汲み取った。


「シロさんも多分、分かってる」


「そう、かな」


「今までは決定的な確信がなかったから、期待する余地があっただけ。むしろこれで確実な事実が判明すれば、これ以上、過去に囚われずに済むんじゃねえの」


「……うん」


 愛莉はチェシャ猫の後ろ頭をじっと見つめた。表情を見なくても分かる。チェシャ猫はこんなふうに冷たく言うが、非情なわけではない。彼のことだからシロにどう伝えようか、考えている最中だろう。

 愛莉は一旦口を結び、改めて軽やかな声で切り出した。


「理性的なレイシーだったね。悪さしない、優しいレイシーって感じがした」


「どうだか。まあレイシーは目的に執着するから、特定の場所へ案内したいだけなら……」


 チェシャ猫はそう返事をしてから、急にくるっと振り向いて牙を剥き出しにした。


「つっても危ねえもんは危ねえ。レイシーには近づくなと、あ! れ! ほ! ど! 言っただろうが! ダイナで学習したんじゃねえのか、このバカ!」


「うわあ、急に怒る!」


 愛莉はぴょんと飛び上がり、肩を竦めた。チェシャ猫が人差し指を愛莉に差し向ける。


「何回やれば分かる? どう言えば分かる? どうしたらあんたは大人しくなる!?」


「ああもう、今回は仕方ないじゃん! シロちゃんの叔父さんだから、ほっとけないもん! それに、ちゃんとチェシャくんがあたしを追ってきてくれると信じて形跡を残したじゃん!」


 愛莉はそう言うと、鞄からチョコレートの空箱を摘み出した。


「分岐点になるところで抹茶ミルクを零しておいたし、そこから先もストローとかお菓子を落として目印を残したでしょ?」


「あんな分かりにくい目印じゃ見落とすかもしれねえだろ!」


「チェシャくんじゃなきゃ見落とすかもしれないけど、チェシャくんだから見落とさなかった! 絶対辿ってきてくれるって信じてた!」


 愛莉に強気に言い返され、チェシャ猫もなにか反撃しようとし、結局言葉が見つからなくてため息をついた。たしかにチェシャ猫は、愛莉の残した目印を発見し、そこから愛莉の「来てほしい」という意思表示を察知して、メッセージどおり愛莉を見つけた。買い被りだ、と思う反面、愛莉が残した痕跡が、自分と愛莉とのたしかなコミュニケーションになったと自覚している。


 口喧嘩に負けたチェシャ猫は再び愛莉に背を向け、歩き出す。愛莉も、チェシャ猫の背中についていった。


「あの山の辺りね、『幽霊が出る』って噂があったんだって。シロちゃんの叔父さん、あたし以外の人の前にも姿を見せてたんだね、きっと」


 愛莉は白い息を吐き、街灯の灯りを見上げた。光が乱反射して、空の星が霞んでいる。

 シロの叔父の幽霊は、ああして人を特定の場所へ導こうとしていた。今まで目撃されて噂話になっていたのは、姿を現して、ついてきてほしかったのだろう。


「シロちゃん自身も、叔父さんが駆除し損ねたレイシーがいた場所として、あの付近を調べてたんだよね。シロちゃんは叔父さんの幽霊に会わなかったのかな?」


「シロさんの叔父さんなら、シロさんには姿は見せねえだろ。シロさんがレイシーに近づくのを全力で阻止してた人だぞ」


「あっ、そっか」


「彼自身が狩人でありレイシーでもあるから、あの山に悪いものが溜まってるのは分かってたはずだ。シロさんに限らず、基本的には人を寄せつけないようにして、大丈夫そうな奴にだけ姿を見せてたのかもな」


 愛莉はまた、犬連れの男から聞いた話を脳裏に浮かべた。あの山は、近所の人も近づかない場所だという。人を寄せつけないのは、人間が本能的に危険を感じとるような邪悪な場所だったからなのかもしれない。

 また、幽霊の目撃証言はあったようだが、案内された先の場所には人が立ち入った形跡はなかった。恐らく、彼の案内に従ってあそこまで到達した人は過去にいない。幽霊に連れていかれそうになったら人間は逃げ出すのが自然な反応だろう。平然とついていくのは愛莉ぐらいのものだ。


「叔父さん、八年間ずっと、ああして誰かがついてきてくれるのを待ってたのかな」


 愛莉はやや感傷の入った声で言った。


「見つけてあげられて、良かった」


 チェシャ猫は数秒の無言のあと、はあ、とまたため息をつく。愛莉の行動は至って直感的だし、勢いばかりで後先を考えない。危険極まりない。だが、それによってひとりのレイシーの訴えに気づくことができた。


「今回限りだぞ。もうレイシーを追いかけるな」


「はーい」


 愛莉が生返事をする。それから、ふうと白い息を吐いた。


「そういえば、巡ちゃんの面会、あたしが行っても問題ないって言ってたよね?」


「書面上はな。あんたに会わせたくないとの判断は、上戸先生の独断っぽい」


 チェシャ猫が答えると、愛莉は不服そうに唇を尖らせた。


「でもチェシャくんが巡ちゃんと話した感じだと、巡ちゃんはあたしに会いたがってくれてたんでしょ? それじゃつまり、上戸先生の判断が間違ってたってことだよね」


「間違ってたというか……それが先生の立場からの最善の判断だったんじゃねえかな。先生は俺らとは違って、医師としての観点で基準を決めてるんだろうし」


「でも結果的に違ってたんじゃん。あたしは巡ちゃんに嫌われてるみたいに扱われて心外だったよ。チェシャくんも、巡ちゃんの気持ちを考えてないかのように言われたわけでしょ? チェシャくんは上戸先生に対して、もっと怒っていいと思うよ」


 怒りながらついてくる愛莉に、チェシャ猫はちらりと目をやって、すぐにまた前を向いた。


「まあ……散々世話になってるから」


 ばつが悪そうに濁すチェシャ猫に、愛莉は裏返った声で叫ぶ。


「散々お世話になってるから噛みつけないと!? 猛獣チェシャ猫、飼い慣らされてるね!」


「すげえ皮肉言いやがるな。別に猛獣もチェシャ猫も名乗ってねえし……」


 チェシャ猫は俯いて、アスファルトを蹴る自身の足に目を落とした。どうも愛莉は、巡と会ってはいけない、悪影響だ、と言われたことを結構根に持っているようだ。

 チェシャ猫は言い訳のように続けた。


「今までも世話になってるだけじゃなく、これからのこともあるから、あんまり事を荒立てたくない。海外での治療も、先生が窓口になってくれるから話を進められるんだから……」


「えっ、なに?」


 背後から愛莉の足音がする。チェシャ猫は続けようとして、あ、と口を半開きにした。

 愛莉の手が、がしっとチェシャ猫の腕を掴む。


「海外……って言った?」


「……あー」


 愛莉に引き止められ、チェシャ猫は立ち止まった。虚空を見上げて、失言を後悔する。そういえば、愛莉には話していないのだった。

 愛莉は背伸びをして、チェシャ猫に詰め寄った。


「巡ちゃん、海外へ行っちゃうの? いつ?」


「まだ決まってない。行くかどうすらも、まだ決めてない」


「でも、行きたそうだよね」


 愛莉がより、険しい顔をする。


「チェシャくんは?」


「そりゃ、一緒に行く」


「聞いてないよ?」


「言ってねえからな」


「なんで?」


「なんでって……」


 淡々とした問答が続く。チェシャ猫は愛莉の顔には目をやれず、冬の街並みを眺めていた。


「なんでって、言う必要ないから」


「必要あるでしょ!? あたしは巡ちゃんの友達だから知る権利あるよ!?」


 形振り構わず大声を出す愛莉に、道行く人々が怪訝な顔をする。それでも愛莉はチェシャ猫にしがみついて、キャンキャンと叫んだ。


「チェシャくん、あたしに黙っていなくなるつもりだったの!? あたしがチェシャくん大好きなの知ってるよね!?」


「だから、まだ決まってないって。決めたら言うつもりだった。多分」


「多分ってなに!? チェシャくんがあたしに塩対応なのは分かってたけど、これは違うよ。ここまで蔑ろにされてるとは思わなかったよ!」


 面倒なことになった、と、チェシャ猫は今日一大きなため息をついた。愛莉が巡の手術自体には賛成したとしても、離ればなれになるのは寂しがると分かっていた。


「そうやって騒ぐと思ったから、言いたくなかったんだよ。どうかすればあんた、ついてくるとか言い出しかねないし」


「なにそれ、プロポーズ?」


 愛莉が素っ頓狂な声を出す。チェシャ猫は耳を疑った。数秒前まで見られなかった愛莉の顔を振り向く。


「どう捉えたらそうなる?」


「いやあ、チェシャくんが『一緒に来て』って言うならあたし、学校辞めてついてっちゃうけど。どこまででも行くけど」


 愛莉はにへっと相好を崩していた。チェシャ猫はみるみる怪訝な顔になる。


「誰もそんなこと言ってない。むしろ来られると困る」


「あはは、冗談だよ」


 愛莉は楽しげに笑って、それから少し淋しげに言った。


「分かった。それで巡ちゃんの体が良くなるんなら、我慢する」


「あんた、物分かりは良いよな」


「うん、家に帰ってひとりになったら、泣いちゃうかもしれないけど。今はチェシャくんがいるから、泣かない。またブスになったとか言われたらムカつくし」


「それまだ怒ってんのかよ。悪かったよ」


 愛莉の手が離れ、チェシャ猫は再び歩き出した。愛莉も彼についていく。


「行くかどうか、まだ決まってないんだよね。でもさ、チェシャくんはこうやって、急にいなくなっちゃうかもしれないんだよね」


 シロの叔父が突然、帰ってこなくなったように。別れは唐突に訪れるかもしれない。


「あたし、チェシャくんと会う度に『大好き』って伝えてるけど、もし明日会えなくなったらと思うと、まだまだ言い足りないよ」


 冷たい空気の中に、愛莉の声が溶ける。


「大好きだよ。こんなに好きにさせてくれてありがとう。チェシャくんがあたしに黙ってどこかに行っちゃっても、ずっと大好きだよ」


「いい迷惑だ」


「もー! またそういうこと言う!」


 愛莉はまだ寂しげだったが、持ち前のポジティブのおかげで、すでに前向きに切り替わっている。


「海外の病院ってどんな感じかな? きれいなとこ?」


「あー、まあ」


 口で説明するのが面倒で、チェシャ猫は鞄の中に手を突っ込んだ。巡に教えるつもりで持ってきた、病院のパンフレットが入っている。

 ようやく、シロの店に到着する。店の扉を開ける手前で、チェシャ猫は愛莉にパンフレットを差し出した。

 受け取った途端、愛莉は高く声を上げた。


「えっ!」


「なんだ。知ってるところか?」


「ううん、そうじゃなくて、あの」


 しどろもどろの愛莉に、チェシャ猫は店の扉を開ける手を止めて振り向く。そして、絶句した。


 愛莉の手に渡ったパンフレットが、指の触れたところからぼろぼろと崩れている。


 見間違いかと、チェシャ猫はまばたきを繰り返した。夜の闇のせいで目が効かなくて、そう見えただけかもしれない。

 しかし愛莉の手にはやはり、粉々になったパンフレット、というよりその残骸が積もっている。愛莉も、指の隙間からさらさらと落ちていく粉を見つめ、呆然としていた。


「なにこれ?」


「なんだ……?」


 チェシャ猫と愛莉は数秒、シロの店の前で棒立ちになった。

 やがてチェシャ猫が我に返り、店の扉を開ける。


「明るいところで見ねえと分からんな」


「あ、そうだね。シロちゃんただいまー」


 扉が開くと、鈴がチリンと鳴った。ふわっと抹茶の香りが漂い、通い慣れた店内の空気がふたりを包み込む。


 次の瞬間、チェシャ猫と愛莉の目にその光景が飛び込んできた。

 床に転がる湯のみの破片、飛び散った抹茶。うつ伏せで倒れる上戸。

 そして、その横にしゃがむ、シロ。

 彼はゆっくり顔を上げ、チェシャ猫と愛莉と顔を合わせた。そしてにっこりと微笑む。


「いらっしゃい」


 トサ、と音がして、愛莉の手から積もっていた粉が床に落ちた。

 店内が、妙に冷たい。

 チェシャ猫と愛莉は、扉の前で立ち尽くしていた。

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