袴姿の男
「んだよ、バッカ野郎」
チェシャ猫は施設の前で、悪態をついた。
鞄を肩に掛け直し、早足にその場をあとにする。先程のやりとりからして、愛莉がいるのは例の山の麓で間違いない。
愛莉という少女は実に奔放である。待ち合わせ場所からいなくなったうえに、勝手にひとりで現場まで行って、さらにこれだ。
なにがあったか具体的には分からないが、確実になにかあった。
電話の向こう側で、愛莉はなんらかを見つけた様子だった。嫌な予感がする。
しばらく、愛莉との通信は繋がったままだった。携帯は通話状態のままで鞄かポケットに突っ込まれているらしく、ガサガサと物音が届いてくる。ときどき、愛莉の「待って」という声も、遠いなりに入ってきた。
しかし電波の入りが悪いのか、通話は途切れてしまった。チェシャ猫は舌打ちして、携帯をコートのポケットに押し込む。
路端で待機しているタクシーに駆け寄った。だがチェシャ猫の気配が薄いせいで、運転手が気づかない。チェシャ猫が半ば強引に扉をこじ開けると、気の弱そうな運転手がびくっと飛び上がりながら彼を乗せた。チェシャ猫が運転手に早口に行き先を伝える。
空の色は微かに、夕焼けに侵食されている。走り出すタクシーの速度にすら、チェシャ猫はやきもきと焦燥を抱いていた。
ひとまず頭の中で、事象を整理する。
今分かっているのは、愛莉が山の麓へ行ったこと。その手段が徒歩であることから、現場は自分が巡と話していた三十分前後のうちに徒歩で到着できる程度の距離であるとも分かる。
なにかを見つけた愛莉は、「シロちゃん」と呼んだ。しかしシロは今日も店にいるはずで、仮に急用で店を閉めてここに来ているのなら、連絡を寄越す。よって愛莉が見たものは“シロによく似た別のなにか”であること。
タクシーが山に近づいてきた。付近の道路は人が少ないわりに車が多く、狭い道路は渋滞気味である。目的地はすぐそこに見えているのに、道路を抜けられない。進行の遅さにチェシャ猫の苛立ちが募っていく。
もともと険しい彼の顔が一層強ばっていき、臆病そうな運転手はびくっと縮こまった。とうとうチェシャ猫は、鞄から多めの紙幣を握り取り、運転手へ突き出した。
「助かった。ここでいい」
それだけ言って、チェシャ猫はタクシーを降りて走り出した。西の空は赤く焼けて、東は暗くなりかけている。日が落ちる早さが、チェシャ猫の焦燥を煽る。
住宅街の細い道を駆け抜け、小高い坂を上り、荒地へと飛び出す。枯れた草木の向こうに、山道へと続く割れたアスファルトが伸びている。
チェシャ猫は周囲を見渡しつつ、その道へと踏み込んだ。細いながらも伸びている木々のせいで、道が暗い。暗がりの中へと進むにつれ、胸のざわめきが騒がしくなっていく。
愛莉の姿はない。声も聞こえない。チェシャ猫は道やその脇に目を配り、愛莉の形跡を探した。
施設の窓から見た限り、山は高さはなく横にべったりと広い印象だった。大した規模ではない。だが物理的な範囲以上に、もっとチェシャ猫をざわつかせる問題があった。
霊的な力を持つと言われがちな山という立地、ことに、八年前というさほど古くない過去に、無念な死を遂げた人が埋められた場所だ。
こういう場所は、悪いものが溜まりやすい。レイシーと戦ってきた狩人の、経験による勘である。
愛莉はなにかに導かれていた。愛莉のことだから、それがレイシーであると分かっていても追いかけている。
不思議なものであっても、いや、あるからこそ、彼女はそれを追いかける。
まるで、白ウサギを追って不思議の国に迷い込むアリスのように。
やがてチェシャ猫は、アスファルトがやけに濡れて黒ずんでいる箇所を見つけた。辺りは乾いているのに、そこだけ雨上がりのように濡れているのだ。しかもよく見ると、僅かに溜まった液体がやや白ばんだ緑色をしている。
この色には、見覚えがあった。
「抹茶?」
愛莉がシロの店で好んで飲む、抹茶ラテの色に似ているのだ。
その辺りを注意深く見てみると、道から逸れた林の中に、踏みつけられた枯れ草を見つけた。周辺では低い枝が折れていて、何者かがそこへ踏み込んだのが分かる。
チェシャ猫もその跡を辿る。地面の草が枯れているせいでどこもくったりしていて分かりにくいが、たしかに、足跡らしき跡が残っている。
進んでいくにつれ、枯れ草が伸びて茂っていて、足跡が見えにくくなった。形跡を辿れない。チェシャ猫は鬱陶しげに辺りを見回し、草の中に屈んだ。目を凝らしても、やはりこれまでのように足跡を判別するのは無理がある。
ふと、彼の視界に異端なものが入った。長い草に絡まる、ストローである。
一見ただの放置されたゴミのようだが、そこに滴る淡い抹茶色の液体は、まだ乾いていない。
こっちか、とチェシャ猫はストローのある方へと足を向ける。
草の群れを掻き分けて進むと、獣道は深まっていった。枯れ木が支配する薄暗い荒れた大地が、延々と広がっていて終わりがないように見える。土が抉れている箇所を見つけて歩み寄るも、人の足跡というよりは獣か蛇か、別の生き物の形跡も混じっていると気付かされただけだった。木々の隙間から見える空は、チェシャ猫を急かすように暗くなっていく。
しかしそうして目標を捜しにくくなると、また新たな目印に遭遇する。今度は不自然に落ちている抹茶色のチョコレートだ。
チェシャ猫はその菓子を後目に、方向を決めていく。深まって暗くなっていく道を、ひたすらに進む。
空気が冷たい。冬の夕方なのだから寒いのは当然だが、この冷たさはそれだけではない。もっとなにか、悪寒のようなものだ。
チェシャ猫は二個目のチョコレートを見つけた辺りで、再び辺りを見回した。もはやどこまで来たのか分からない。方向感覚も時間感覚もない。人の気配も、どこにもない。彼は林の木々の間に、声を放った。
「愛莉!」
チェシャ猫の声は、あまり響かなかった。
空気が凍っているみたいに冷たくて、呼びかけたその声まで一緒に凍らせて沈めてしまうかのように、反響せずに消える。
耳を澄ませても、愛莉の返事は聞こえない。それでもチェシャ猫は、意地になって声を上げた。
「おい、どこにいる。愛莉!」
ぐるっと周りを見渡して、砂利の上に落ちている緑色を見つける。三つ目の抹茶チョコレートだ。チェシャ猫はそちらに駆け寄って、また名前を呼ぶ。
「愛莉!」
暗くなってくると、目印のチョコレートも見つけにくくなっていく。焦りが募って、チェシャ猫は癖の舌打ちをした。
「ふざけんなクソガキ……」
と、そのときだ。
「待って!」
遠く、微かに、声が聞こえた。途端にチェシャ猫は背筋を伸ばし、叫んだ。
「どこだ!」
全神経を研ぎ澄ませて、声を探す。風上の方から僅かに、物音がする。甲高い声は、遠くからでも届きやすい。
その声を拾うなり、チェシャ猫は弾かれたように駆け出した。かわりばえしない林の中、聞こえてくる微かな声を頼りに走り抜けていく。やがて暗がりの中に、動くものを見つけた。
「待って! どこへ行くの!」
きらりと流れる長い髪に、投げ出される白い脚、たなびくマフラー。チェシャ猫はその後ろ姿に、怒りの声を投げつけた。
「あんたがだよ!」
ようやく見つけた愛莉は、髪や服に草やら小枝やらをくっつけて、薄汚れた背中をしていた。チェシャ猫の呼びかけにちらりと振り向くも、彼女は走る足を緩めない。
「チェシャくん! 来てくれると思った!」
「てめえこのクソガキ! 甘えてんじゃねえぞバカタレが! なに追いかけて……」
罵倒しながら追うチェシャ猫は、愛莉の向かう先に目をやり、ハッと息を呑んだ。
前を行く、ゆらゆらとした白い影が見える。その後ろ頭に、ドキリとさせられる。
「シロさ……じゃねえ」
愛莉と同じことを言ってしまったチェシャ猫は、誤魔化すように口を結んだ。
しかしそう口をつくのも無理もない。日常的に会っている、あののほほんとした喫茶店の店主そっくりの背格好、風貌の、袴姿の男なのだ。
それは常に数メートル先にいて、揺らめくだけで走っているでもないのに、なぜか愛莉にもチェシャ猫にも追いつけない。
愛莉がぜいぜいと息を荒らげている。袴の男は、ふわりとふたりの方に顔を向けた。木々の隙間を漂うそれが、動くのをやめる。
そして突如、ふっと姿を消した。
「えっ!」
愛莉は目を剥くも、足を止めなかった。チェシャ猫も目を疑いつつ愛莉に続く。ふたりはそのまま林の中を進み、袴の男が消えた辺りでようやく立ち止まった。
「さっきまで消えなかったのに……ここら辺で消えたよね?」
愛莉がチェシャ猫を見上げる。チェシャ猫は目線だけ動かし、周囲を調べながら返した。
「どこかへ瞬間移動でもして、逃げたのか?」
「ううん、それはないと思う。そういう移動の仕方ができるなら、もっと早いうちにあたしから逃げてたはず」
愛莉の確信めいた発言に、チェシャ猫が不思議そうに彼女の顔を見る。愛莉は自身の胸をとんと叩いた。
「ほらあたし、レイシーから超嫌われるから。今のレイシーがあたしに怯えて逃げてたんだとしたら、瞬間移動できるならそうして逃げるでしょ」
「ああ、なるほど……」
と、納得しかけたところでチェシャ猫は愛莉の頭を引っぱたいた。
「あんた今のがレイシーだって分かってんなら深追いすんな! シロさんが心配するってあれほど言っただろ!」
「うぎゃ! だって仕方ないでしょ、あんなのほっとけないじゃん!」
愛莉は叩かれた頭に手を置いて言い返す。
「だって、どう見てもシロちゃんの叔父さんだもん。ほっとけないよ」
「そうだけど……!」
チェシャ猫は奥歯を噛み、額を押さえた。
たしかにあれは、シロの叔父だった。ただし、人間ではない。
狩人の仕事をしていて何度か見ているし、そうでない愛莉でも分かる。あんな奇妙な動きをし、霧のように消えるなど、人間の所業ではないのだ。
「あたしから逃げてただけなら、こうやって消えたら良かったの。それなのにそうしないで、ここまで姿を消さずにいたということは……」
愛莉はぺたんと、その場に座り込んだ。
「あたしをここに連れてきたかったんだよ」
冷えた指先を、地面に突き立てる。愛莉は枯れ草の地面に爪を立てて、ガリガリと引っかきはじめた。チェシャ猫は彼女の行動にぎょっとして、泥臭い仕草に鼻白んだ。
「素手で掘る気か? あんたの言うとおりなんかあるのかもしんねえが、掘るなら一旦出直してスコップとか……」
そう、チェシャ猫が言い終わる前に、愛莉はぴたりと手を止めた。
「あ」
間抜けな声がチェシャ猫の言葉を遮る。しゃがんだ格好で下を見る彼女の視線を辿り、チェシャ猫も短く呟く。
「……あ」
土の中から顔を出す、金色の粒がある。
指先に乗ってしまうほどの小さな粒だが、丁寧な彫刻が施されている。その土の詰まった窪みは、小さな数字が刻まれた、時計の形をしていた。




