女王は勢いで突き進む
数分前までは、愛莉はたしかにコンビニにいた。しかしチェシャ猫との通話の直後、彼女は紙パックの抹茶ミルクとチョコレート菓子を買い、店を出ていったのだった。
チェシャ猫とはここで待ち合わせの予定だったが、チェシャ猫と合流するまでの時間を有意義に使い、老婆の事件の情報収集をしようと考えたのである。この施設は、現場から近い。近隣住民に話を聞いてみるのだ。チェシャ猫と合流したときにすでに新たな情報を握っていれば、彼に褒めてもらえるかもしれない。
だが、愛莉はせっかちである。
街並みの中にもっさりと、例の山が僅かに見える。現場に近づけば近づくほど、目撃証言も増えるのではないか。
愛莉の足は、山の方向へ向かっていた。
この時点ですでに、愛莉と合流をはかってコンビニへやってくるチェシャ猫のことは、頭から抜け落ちていた。
「噂の根源……袴の人物の目撃者は、山の麓に住んでるおじいちゃんだったよね」
見ず知らずの老人の家にいきなり押しかける形になるし、まずもって道すら分からない。そもそもこの街自体に土地勘がない。
だが、連絡手段がないのだからいきなり押しかけるしかない。道は山を目指していけばいい。シロの叔父だって駅から現場まで徒歩で行ったのだから、そう遠くはないのだ。
行ける、と思ったら即行動してしまう。愛莉はそういう性分だ。
行き止まりや回り道で時間を食われながらも、愛莉は目的の山へと着実に近づいていく。そして山に向かって歩くこと三十分ほどで、ついに山の入口まで辿り着いた。
周囲は駅前のような賑わいはなく、ひっそりとした荒地だった。月綴ヶ丘の地名の由来となったその山は、枯れた草木がもっさりと蔓延り、長いこと手入れされずに放置されているのが窺える。アスファルトで舗装された道路が、枯れ木の道の中に吸い込まれている。先の方は、薄暗くて見えない。
歩き疲れた愛莉は、パックの抹茶ミルクをひと口、ストローから啜った。ここが、袴の人物――すなわち、シロの叔父が最後に目撃された場所。
しかし、近辺に建物はない。山へと入っていく人間を確認できるような家がないのだ。愛莉は周囲を見渡し、首を捻った。ここからいちばん近い民家を探してみようか。
そう考えていたところへ、声が飛んできた。
「お嬢ちゃーん、その辺は蛇が出るから危ないよ。道も悪いし、近づかない方がいいぞ」
犬を連れた中年が、道路を歩いてくる。愛莉は振り向いて、彼に問いかけた。
「ねえおじさん! この辺に、おじいちゃんがひとりで住んでる家ってありますか?」
「おじいさん? ああ、あったよ」
犬連れの男は戸惑いながらも親切に答えた。
「といっても、随分前に取り壊されたよ。住んでいたおじいさんはもう亡くなってるし」
「え。おじいちゃん死んじゃったの?」
「僕も詳しくは知らないけど、もう何年も前だよ。君はそのおじいさんの家族?」
「ううん、そうじゃないけど。会って聞いてみたいことがあったの」
「なるほど。君、さてはこの辺の子じゃないな」
男は腕を組み、声を低くした。
「あのおじいさんは地元でも有名な変人だった。彼を避けていたことに加え、さらにこの山に纏わる怖い噂のせいで、この辺りには地元民も寄り付かないんだよ」
その慎重な声色に、愛莉も釣られて返事のトーンを落とした。
「怖い噂?」
身構える愛莉に、男は大真面目な顔で言う。
「この山には、幽霊が出る」
「幽霊!?」
愛莉はぎょっと飛び退く。
考えてみたら、この山では老婆が無念の死を遂げている。老婆の怨念は、今も彷徨っているのかもしれない。
怯えさせていた男は、彼女の反応を見て、今度はコロッと可笑しそうに笑った。
「なんてね! まあ、さっきも言ったとおりこの辺は蛇がいたり道が整備されてなかったりで危ないから、子供たちが近づかないようにそう言われてるだけだろう。ともかく、それくらい危ないところだから、君も遊んじゃだめだよ」
「そっか、ありがと! お散歩中に引き止めてごめんね」
愛莉はフレンドリーにお礼を言い、男も愛想良く手を振って去っていった。再びひとりになった愛莉は、山道に目をやった。木々の奥へと伸びていく道は、たしかに薄暗くて不気味で、いかにもなにか出そうである。
幽霊と聞いてぞっとしてしまったが、改めて考えると、チェシャ猫がいつも相手にしているレイシーも似たようなものだなと気づく。亡くなった老婆の怨念なんかも、チェシャ猫やシロからすれば仕事の駆除対象の一種に過ぎないのだろう。などと妙に冷静になる。
愛莉は今度は、来た道を振り返った。
少し道を戻れば、住宅街がある。そこの民家を訪ねれば、先程の散歩の男のように、話を聞かせてくれる人がいるかもしれない。
そんなことを考えていると、はたと、鞄の中から微かな振動を感じた。中で携帯が鳴っている。手に取って見ると、画面には「愛しのチェシャくん」の文字と「着信」の表示が並んでいる。愛莉はすぐさま応答した。
「チェシャくーん! チェシャくんから電話くれて嬉し……」
「うるせえバカ。今どこにいやがる。コンビニにいろっつったろ」
いつも以上に機嫌の悪いチェシャ猫の声に、愛莉は「あっ」と短く叫んだ。
「そうだったね。先に行ってるねって伝えてなかった。こりゃ失敬失敬ー。ごめんね、あたし行動力あるからさ」
待っている予定だったコンビニから立ち去りここまで来てしまったのを、今になってようやく反省する。電話越しのチェシャ猫の大きな嘆息が聞こえる。
「先に行ってるって、どこにだよ。まさか山の麓のジジイの家か?」
「うん、でもそこね、もう取り壊されててー」
「マジで行ってんのかよ。知らねえジジイの家にいきなり押しかけるとか、あんたどんな胆力してんだ?」
チェシャ猫の驚きと呆れが入り交じった反応を、愛莉は軽やかに笑い飛ばした。
「だって先に連絡しようにもおじいちゃんの電話番号分かんないし。でも山の麓なのは分かってるんだから直接行った方が早いと思って。歩いて行ける距離だしさー」
「強引な奴だな。たしかに待たせた俺も悪いが、ひと言も言わずに勝手に行動されると困る。何回もかけた電話も無視しやがって、あんたは本当にいつもいつも……」
「怒ってるー。かわいい」
お小言モードに入ったチェシャ猫に、愛莉はえへへと笑って誤魔化す。お叱りは聞き流して、今いる場所での合流を提案しようなどと考えていると、ふいに、視界の端になにか動くものが見えた。愛莉は反射的にそちらに顔を向け、そして「えっ」と呟いた。
山道の入口に、袴姿の男の後ろ姿が立っている。
くすんだ空色とグレーの袴に、くりっとした丸っこい頭。背筋が真っ直ぐに伸びた、姿勢のいい立ち姿。
固まる愛莉の様子に気づき、電話の向こうでチェシャ猫が説教をやめた。
「あ? どうした」
愛莉は口を半開きにして、目を擦った。
袴の男はこちらに背を向けていて、顔が見えない。それでも、見覚えがある。
「シロちゃ……」
擦った目を凝らして、もう一度見る。愛莉の呼んだ名前に反応したのだろうか、後ろを向いていた男は、こちらに顔を向けていた。
愛莉はぱちぱちとまばたきをした。
「シロちゃん、じゃない」
見慣れた喫茶店の店主ではない。だがそれ以上に、もっと「いるはずのない」人間だ。
すらりと高い背に、引き締まった体格。温かな瞳。
それはダイナに連れていかれた過去の時空で目にした、あの男。
彼は愛莉と目が合うと、すっと顔を背けて仄暗い山道へと歩き出した。咄嗟に、愛莉はその背中に向かって走り出す。
「待って!」
「おいっ、どうした!」
電話の向こうでチェシャ猫が呼びかけてくる。が、愛莉は返事をせず、携帯を鞄に突っ込んで、袴の男――シロの叔父の背を追いかけた。




