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陽だまりの温度

 その日曜日は、よく晴れて昨日より気温が高かった。冬の午後三時。仄かな陽気に満ちた駅で、チェシャ猫と愛莉は互いの顔を見合わせた。


「えーっと。目撃証言は、現場の近くの一軒家に住んでるおじいちゃんだっけか」


 愛莉が確認し、チェシャ猫が小さく頷く。


「そうだ」


 駅名は、月綴ヶ丘駅。八年前、シロの叔父がレイシーを追いかけて訪れた場所である。

 チェシャ猫は駅前の風景を見渡した。駅の付近には大きなショッピングモールがあり、東には市立病院が見える。そこそこ大きな建物があるが、それでいて自然も近い。病院と逆方向の西側には、なだらかな丘陵地がくすんだ緑を覗かせている。

 そこが、老婆が埋められていた山だ。そして、シロの叔父が最後に目撃されたとされる場所である。

 愛莉は手袋で包まれた手を真っ直ぐ伸ばし、その山の頭を指さした。


「あそこだね! それじゃ、当時目撃したっていうおじいちゃんに会いに行ってみよう」


「とはいえ当時から軽い認知症を患ってたらしいからな。覚えてるかどうか……」


 チェシャ猫が目を伏せるも、愛莉は意志を変えない。


「覚えてなかったら、そのときはそのとき! おじいちゃんから話を聞いた人を探す。上戸先生が言うには、病院で患者さん同士が話してたくらい噂になってたんだよね。それなら結構広まってたんだろうし、きっと覚えてる人いっぱいいるよ」


「それくらいしか調べようがないか」


 なにしろこれは、警察などの公的な記録ではなく、人々の間で囁かれた噂の「記憶」を集める状況だ。決まったルートも手続きもない。愛莉のいうとおり、目撃者の老人を訪ねるのがいちばん手っ取り早い。


「だがその前に、一旦、巡の面会に寄らせてくれ」


 チェシャ猫は肩に引っ掛けた鞄を、ベルトを引いて抱き寄せた。中には、上戸から受け取った海外の病院の資料が入っている。

 今日こそ、巡に海外での治療の話をする。


 巡は資金の問題は気にするだろうし、移住となれば兄と愛莉を引き離すことになる。「自分のせいで」と自らを責めて、死を選びたがるかもしれない。

 だが、このまま伝えずにいるわけにもいかない。今日こそ伝えようと決めた。巡が自分を追い詰めないように、言葉を選んで伝えて、手術に前向きにさせるのだ。

 尚、この件は愛莉にも話していない。チェシャ猫が海外へ行くと聞いたら、うるさそうだからである。


 チェシャ猫が巡の施設の方へ足を向けると、愛莉は続いて歩き出した。


「巡ちゃんと会うの、楽しみだね! ……っと、あたしはついていっちゃだめなんだった」


 途中で思いとどまり、愛莉は下を向いた。

 巡のストレスになるから、赤の他人である愛莉は面会に行かない方がいい。そう上戸から注意されたのを思い出したのだ。

 愛莉は不服げに唇を尖らせた。


「納得できないなあ。巡ちゃん、あたしとフレンドリーに話してくれるのに。あたしも話してて楽しいのにな」


「巡は気遣い屋だから。本当はあんたにストレス感じてても態度には出さないのかもな」


 チェシャ猫は上戸の言葉を頭の中で反芻した。

 巡は首を吊ろうとするほどストレスを感じている。それは兄であるチェシャ猫が愛莉という女の子を連れてきたことも関係している、と思われる。上戸の分析によればそうだ。

 愛莉はまだ不満げに頬を膨らめている。


「態度には出さないっていっても、あたしそんなに嫌われてたかな? お兄ちゃんのチェシャくんから見てどうだった? 巡ちゃん、あたしのこと嫌いだと思う?」


「正直言って、普通に仲が良いように見えてる」


 チェシャ猫はそう答え、難しそうに唸った。


「だが自信がない。俺と巡は血の繋がった兄妹だけど、なんでも見抜けるわけじゃない。俺は巡がなにを考えてるのか……」


 巡のことは、兄としてよく理解しているつもりでいた。

 だけれど、今のチェシャ猫はそう言いきれない。巡が首を吊ろうとするほど思い詰めていたと、気づけなかった。上戸の言うように巡が気を使って取り繕っているとしても、それを見破る自信がない。

 隣を歩く愛莉が、チェシャ猫の顔を見上げた。


「わー、いつも以上に険しい顔になってる」


 手袋を嵌めた手を、チェシャ猫の顔に伸ばす。人差し指の先で、彼の頬をちょんとつついた。


「あたしはその顔好きだけど、巡ちゃんは嫌がるかもよー。目に見えなくても、声のトーンとかで伝わるものだよ。それこそ不安にさせちゃうんじゃない?」


 つつかれたチェシャ猫は、気だるげに身を捩って愛莉の指を逃れる。彼は相変わらずの険しい形相で、軽く項垂れた。


「施設についたら、あんたは近くのコンビニで時間潰しててくれ」


「はーい」


 愛莉の言うとおりだ。巡と会うときは、不安を煽るような顔をしてはいけない。チェシャ猫はそう気持ちを改め、愛莉とともに病院へと向かった。


 *


 チェシャ猫と愛莉は、施設の門の前で別れた。チェシャ猫は巡の元へ向かい、愛莉はコンビニへ時間を潰しに行っている。

 チェシャ猫は巡に会う前に、数名の職員と会話を交わし、巡の様子を聞いた。その後、談話室にいるという巡に会いにいく。

 巡は椅子に腰掛け、豚のぬいぐるみを抱えて、窓の方に顔を向けていた。その後ろ頭に、チェシャ猫はそっと声をかける。


「巡。来たよ」


「お兄ちゃん!」


 声の方へ、巡が顔を動かした。ぱっと明るい声で、口角はふわりと吊り上がっている。チェシャ猫は妙に、心臓がどぎまぎしていた。朗らかに笑うこの子が、首を吊ろうとしていたと思うと、どうにも落ち着かない。

 鞄のベルトを握る手に、力が篭もる。治療の件を伝えようと心に決めたのに、この胸のざわめきが決心を揺らがせる。


「愛莉お姉ちゃんは?」


 巡が目が見えない顔でキョロキョロした。チェシャ猫は小さく深呼吸をし、答える。


「今日はいない」


 すると巡は、残念そうに俯いた。


「えー……でもそっか、愛莉お姉ちゃんも暇じゃないもんね」


 巡はそう言って、豚のぬいぐるみを抱き寄せた。

 チェシャ猫は少し、巡の顔を観察した。目の様子を見られない分表情は読みにくいが、しょんぼりと下を向く顔は本当に寂しそうに見える。

 チェシャ猫はさらに顔を近づけ、巡の横髪をそっと手の甲で持ち上げた。髪に触れられた巡は、抵抗することなく、その手に頬を寄せる。


「もちろん、お兄ちゃんだけじゃ嫌だって意味じゃないよ。ただ、愛莉お姉ちゃんは私に優しくしてくれたから、もし私に飽きちゃったんだとしたら寂しいなって思っただけ」


 巡はへへ、と照れ笑いをした。その無垢な笑顔を眺め、チェシャ猫は数秒、目を伏せた。それから巡の頬をゆっくりと撫でる。


「あいつは巡に飽きたりはしない。だけど、これからは会えなくなる」


「えっ、今日はたまたま来られなかったんじゃなくて? これからずっと来てくれないの?」


 巡が肩を強ばらせる。チェシャ猫は巡を撫でる手をそろりと引っ込めた。


「先生から、面会は俺だけにしとけって言われちゃってな。あいつも会いたがってたんだが、こればっかりはな」


「えー……そんなあ。私、愛莉お姉ちゃんともっとお喋りしたかった」


 巡はしゅんと声を萎ませ、豚のぬいぐるみに顎をうずめる。それからはっと顔を上げ、チェシャ猫に迫った。


「あっ、それじゃあお兄ちゃん、愛莉お姉ちゃんに電話して! 携帯でお喋りすればいいんじゃない?」


「ん。先生は巡を想って制限してるんだぞ」


「もう、少しくらい柔軟になってよ。お兄ちゃんって昔からそういうとこあるよね」


 巡は不満そうに言って、ぬいぐるみに頬を押しつけた。


「でも、仕方ないか。愛莉お姉ちゃんが今どこかで楽しい時間を過ごしてるなら、私はそれでいいや。もちろん会いに来てほしいけど、先生が言うんじゃ仕方ない」


 諦めたような声色で言って、巡はぬいぐるみを抱きしめた。


「私、愛莉お姉ちゃん大好き。愛莉お姉ちゃんはお兄ちゃんのことが大好きな人だもん」


 チェシャ猫は彼女の仕草を眺め、また、鞄のベルトをきゅっと握った。胸がざわつく。巡のこれは、チェシャ猫への気遣いか。もしかして、チェシャ猫に惻隠を抱かせる意図が隠れているのではないか。

 上戸の声が、頭の中に何度も蘇る。巡は自責の念で首を吊ろうとしている。それを思い出す度、巡の言葉ひとつひとつに、裏があるような気がしてしまう。


「巡」


「ん?」


 呼び掛けに、巡が甘えた声で返事をする。チェシャ猫は小さな深呼吸をした。


「巡の火傷の痕がきれいに治って、目が見えるようになるとしたら、俺はなんだってできる」


 それは半ば、誓いの言葉だった。自分自身に覚悟を決めさせるように、噛み締めるように、口にする。

 それから意を決して、鞄に手を入れた。


「あのな、巡。実は……」


 海外の病院での治療を、巡に話す。チェシャ猫は手術を受けさせたいが、巡自身が希望するか否か。彼女がどんな反応をするか、確認するときが来た。

 しかし巡は、チェシャ猫が資料を取り出す前に、半ば辟易した声で言った。


「お兄ちゃんってさ、ちょっと面倒くさいよね」


「……えっ」


 拍子抜けしたチェシャ猫が、鞄に突っ込んだ手を止める。巡は鬱陶しげにチェシャ猫に顔を向けていたかと思うと、次は耐えきれなかったように笑いだした。


「あははっ。見えないのに、どんな顔してるか分かる」


 それから巡は、ぬいぐるみを撫でて言った。


「お兄ちゃんの律儀なとこ、真面目でいいなあと思うんだけど。でもさ、だからこそ私の気持ちも知ってほしい」


 巡は、窓に顔を向けた。


「こうして窓の方を見るとね。明るさはさっぱり分からないけど、晴れてるのは分かるんだ。差し込んでくる光のあったかさが伝わってくるの」


「そうか」


「愛莉お姉ちゃんもそう。あったかいから、明るいのが分かる」


 そう言った巡の頬は、嬉しそうに吊り上がっていた。


「もちろん顔が戻って、目も見えるようになったら嬉しい。けど、私、案外このままでも充分幸せなの。目が見えてるのと同じくらい、いろんなことを感じてる。他人が思うほど、哀れじゃないの」


 窓から差し込む陽光を浴びて、巡の白い肌がほんのりと光る。その笑顔に、チェシャ猫の心臓はどくんと跳ねた。巡に手術を受けさせたいのは、ただのエゴなのか?

 ふいに、小栗の叫びが脳裏を過ぎった。


『そんなのそっち側の勝手な独善だろ!』


 自分は巡を哀れんでいたのか。これは驕りなのか。資料に触れる指先がびりびりする。

 巡の微笑みは愛しいのに、無性に息苦しい。チェシャ猫はとうとう、鞄の中で触れていた資料から指を離した。

 巡が窓明かりを浴びている。


「それよりも私が体験できないことを、代わりにお兄ちゃんにたくさん楽しんでほしいなあ。それを話しに来てほしい。できれば、愛莉お姉ちゃんと一緒に」


 自分は、巡は心の中では手術を望むが、兄を案じて拒否するだろう、と勝手に予想していた。しかし巡はそれ以前に、手術自体を望んでいないのではないか。

 兄への気遣いや愛莉の存在よりも、生活そのものがストレスで、治すより死にたいのかもしれない。

 思考がどろどろと澱んでいく。チェシャ猫は自身の額にうっすら滲む汗に気づき、は、と短く深呼吸した。


「また来るよ」


 掠れた声でそれだけ言って、チェシャ猫は談話室をあとにした。

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