三者面談?
噴水公園のベンチに座っていた上戸は、走ってきたチェシャ猫を見るなり、慌てて立ち上がった。
「一体どうしたんだ。取り込み中だったかい?」
シックなベージュのステンカラーコートが、裾を翻す。
現れたチェシャ猫は、膝に手をついてぜいぜい息を切らしていた。上戸は彼に歩み寄り、背中を摩る。
数分前、チェシャ猫は上戸との通話中にレイシーと遭遇した。携帯を通話状態にしたままレイシーと対峙したせいで、上戸の方は突然チェシャ猫からの返事がなくなって異音が入り、かなり困惑したようである。
チェシャ猫はまだ整わない呼吸の合間で、掠れ声を絞り出した。
「なんでもないです。お待たせして、すみませんでした」
「構わないよ。こちらこそ急に呼び立ててすまなかった」
上戸はチェシャ猫をベンチへ誘い、彼の荒れた呼吸を落ち着かせる。チェシャ猫はしばらく項垂れていたが、やがてのそりと背筋を伸ばした。
「失礼しました。今日はお時間をくださりありがとうございます」
「回復が早いんだね。普段から運動慣れしてるのかな」
「まあ、ぼちぼち」
俊敏な動きを求められる狩人の仕事をしているから、とは言えないので、そこは濁しておく。
上戸はベンチにチェシャ猫と並び、彼の横顔を覗き込んだ。
「この後はもう、ホテルに帰って寝るだけなんだ。時間はたっぷりある。君さえ良ければ、じっくり話をしたい」
上戸の瞳が、チェシャ猫を真っ直ぐ射貫く。
「まず、謝りたかった。君は今、巡ちゃんのことで相当滅入ってるだろう」
はっきりと言い当てられ、チェシャ猫は肩を強ばらせた。巡が人知れず心を病み、首を吊ろうとした。チェシャ猫の頭を掻き乱しているのは、他でもない、なによりその件だった。
上戸が深く頭を下げる。
「すまない。この件を報告した際、私の言い方が悪かった。君を責めているように聞こえたかもしれないね。悩ませてしまったのではないかと、後になってから気づいて、反省している」
「はい……」
チェシャ猫はなにか言おうとしが、短い返事しかできなかった。
責める意図がないにしろ、事実は変わらない。表現が変わったところで、チェシャ猫が巡を追い詰めたことは同じなのだ。
「俺は、どうしてあげたらいいんでしょうか」
曇天の空に星はない。チェシャ猫が俯くと、長い前髪で顔が陰って上戸の位置からは表情が窺えない。
現状、資金繰りに喘いでいるのは巡にも勘づかれていて、それが巡を心苦しくさせる。自分を回復させようとするあまりに兄が苦しむのは、巡にとって本望ではないのだ。むしろ、それは巡の罪悪感を増幅させる。
今の状況でさえそうなのに、これで手術の話が出て、さらに金が必要だと巡に知られたら。
金が必要になる前に、自分がいなくなればいい。そう結論づけてしまいかねない。
手術は受けさせたい。巡も自由になりたいはずだ。だが、それを伝えるのが怖い。
「巡のため、の、つもりだったけど。俺のエゴでしかないのか」
チェシャ猫が呟く。上戸は少しの間宙を仰ぎ、それからはあ、と白い息を吐いた。
「寒いね。どこか喫茶店にでも入ろうか」
「そうですね」
「以前この街に来たときに立ち寄った店がある。一度しか行けていないが、とても気に入っていてね。付き合ってくれるか」
上戸が立ち上がり、歩き出す。チェシャ猫も彼の背中について行った。コートのポケットに手を突っ込み、マフラーに顎をうずめる。冷たい空気が、髪の先まで冷やしていく。
チェシャ猫の胸の中は、不快感がぐるぐると渦巻いていた。普段の自分はこんなにネガティブではないはずなのに、今はドツボに嵌って抜け出せない。こんなチェシャ猫を気遣い、上戸が温かい言葉をかけてくれるのに、優しくされればされるほど自己嫌悪に陥る。
お互い無言で歩くこと数分、やがて上戸が足を止めた。
「ここだ」
目の前の店を見て、チェシャ猫は思わず、え、と呟いた。彼の反応を見て、上戸が目をぱちくりさせる。
「知ってる店だったかな?」
知っているもなにも、上戸が案内したその店は、チェシャ猫の慣れ親しんだ『和心茶房ありす』だった。
「先生、ここをご存知だったんですか」
「おお、君も知っていたか。ここはいい店だね。なにより店主が面白い」
そう言って、上戸が店の扉を開ける。鈴がチリンチリンと鳴り響き、カウンターで暇そうにしていたシロが振り向く。
「いらっしゃいま……あっ」
ふたりを迎えたシロは、途中で目を大きく見開いた。
チェシャ猫はなんとなく、三者面談の直前のような気まずい気分になった。普段ひとりで来る自分が、知り合いを連れてきたみたいな雰囲気になるのではないか。
しかしシロの視線は、チェシャ猫ではなく上戸に真っ直ぐ注がれている。
「驚いた。お久しぶりです」
「もしかしてマスター、私を覚えてくださってるのですか?」
「ええ、記憶に残りやすかったもので……」
シロと上戸が話し出すのを窺いながら、チェシャ猫は上戸の横からシロに声を投げた。
「シロさん、先生を知ってたのか」
「うわっ!? チェシャくんいたの!?」
例の如く気配がなかったようで、シロに盛大に驚かれる。チェシャ猫の存在に気づいたシロは、より困惑の顔でチェシャ猫と上戸とを見比べた。
「あれ、えっ? 君たち知り合い? どういった繋がり?」
「そっちこそ。シロさんが先生を知ってるなんて聞いてねえぞ」
チェシャ猫も言い返す。ふたりの間に挟まれる上戸は、はははと愉快そうに笑った。
「私も、君とマスターが知り合いだなんて驚きだよ。こんなパズルみたいな偶然があるんだね」
それから彼は、落ち着いた仕草でチェシャ猫を手で示し、シロに向き直った。
「私は医者で、彼の妹さんの主治医をしています」
「あなたが上戸先生でしたか。話には聞いています」
シロがにこっと笑い、カウンター席の椅子を手で指し示した。上戸はコートを脱ぐと、その椅子に腰を下ろす。
「君たちの関係は? 随分親しげに見えるが」
「パ……ただのマスターと常連客です」
「パトロン」と言いかけてやめたシロは、早速和紅茶の支度を始めた。チェシャ猫は上戸の横の席に座り、カウンターの中のシロを観察した。いつもにこにこと愛想のいい男である。
上戸がメニューに目を走らせる。
「この店は、抹茶系の飲み物やスイーツが多いね」
「ええ、ここは元は抹茶の専門店でしてね。それを改装して、喫茶店にしたんです。ですので、抹茶には自信がありますよ。もちろん他のメニューも、自信を持ってご提供しております」
シロは莞爾として微笑むと、上戸はほう、と感嘆した。
「そうか、それではご自慢の抹茶をいただこうかな」
「かしこまりました」
シロが小さく一礼する。チェシャ猫は彼の一挙一動を眺めながら、真面目に接客をするシロなど久しぶりに見た、と考えていた。そんな珍しいシロを見つつも、無意識にため息が出る。この先への不安や自己嫌悪、どん詰まりの状況への苛立ちが、常に頭の大部分を占拠してしまう。
複雑な感情に俯くチェシャ猫に、見かねたように上戸が声をかけた。
「さて、今夜は話そう。君の不安も反省も、全部私が受け止める」
「あー……」
チェシャ猫は、カウンターの中のシロを目で追った。
抱えている負の感情を吐き出せる機会ではあるが、それは相手が上戸だったからであり、シロがいるとなると事情が変わる。チェシャ猫は巡の自殺未遂の件を、シロに話せていない。妹を追い詰めたことも、それをシロに言えなかった自分の弱さも、悟られたくない。
悶々と考えた結果、チェシャ猫ははたと、先日の愛莉とシロとの会話を思い出した。
「先生、月綴ヶ丘の老婆の死体遺棄事件、ご存知でしたよね」
八年前の事件当時、上戸は現場の山が近くに見える病院に勤めていた。機会があればこの話を聞こうと思っていたのだった。
上戸とシロが両方、驚いた顔でチェシャ猫を振り向いた。
「えっ、その話をするのかい。巡ちゃんのことじゃなくて」
「チェシャくん、もっと優先すべき話題があると思うよ」
「巡のことは、口にしたところで整理できねえから。それよか、どうせシロさんいるし今はこの事件について聞いておきたい」
チェシャ猫が強がり半分本音半分で言うと、シロはそっか、と納得した。上戸は少し意外そうにチェシャ猫を見つめていたが、ついっと顔の向きを変え、シロに尋ねた。
「というと、マスターはこの事件となにかご関係が?」
シロを見上げる上戸の表情は、チェシャ猫からはよく見えない。だが、対峙するシロの面持ちはよく見えた。
「いえ。全くなんの関係もありません。ただ未解決事件が身近にあると知って、興味を持っただけですよ」
現状、その事件に叔父が関わっているかどうかは定かではない。だから「なんの関係もない」のだ。
ただ、そう言い切るシロは、不自然なほど自然な微笑みを携えていた。まるで、自分と事件が関連付けられないように、ポーカーフェイスを決め込むが如く。
「そうですか」
上戸の横顔も、柔和な笑みを返す。
その妙にピリついた空気に、チェシャ猫はなんとなく、寒気を覚えていた。




