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チェシャ猫の混乱

 それから四日後の、とある昼下がり。


「でね。このコンビニで捕まったその万引き常習犯は、毎日必ず同じ時間に同じルートで店の中を歩き、同じものを盗む。コンビニの店員さんたちも、顔を覚えていた。警察が撮った顔写真はあるんだけど、聴取が始まる寸前に忽然と姿を消してる」


 テーブル席のチェシャ猫に、シロは紅茶と共に仕事の資料を渡していた。


「不自然に同じ動きを繰り返すルーティン行動、突然消えるという不可解な現象。レイシーで間違いないって、役所から依頼書が……」


 と、途中ではたとチェシャ猫の顔を窺う。チェシャ猫は普段と変わらない無表情で資料を見つめていたが、シロはなんとはなしに尋ねた。


「聞いてる?」


「えっ、あ」


 珍しく、チェシャ猫が驚いた顔をした。聞いていなかったな、とシロは呆れ目をする。


「上の空だね。お仕事、大丈夫?」


「分かりきったこと聞いてんじゃねえよ。ミスなんかするわけねえだろ」


 チェシャ猫は不機嫌顔で言い切ると、改めて資料を手に取った。


「なんだこいつ。コンビニ側に顔を覚えられてるうえに、一度警察に渡ってるから顔写真もあるのか。余裕じゃねえか」


「だからそう説明してたんだけど。本当に聞いてなかったね」


 シロは頭を抱え、チェシャ猫に渡した資料の白い背面を眺めた。


「そのレイシーの要素から鑑みるに、多分、行動パターンはかなり限定的。だから動きを読みやすいし、なんかぼけっとしてるから大した攻撃手段も持たないはず。……なんだけど」


 ここでシロは一旦呼吸を置き、チェシャ猫の顔を一瞥した。


「今のチェシャくんは隙だらけだから、若干心配かな……」


 巡の面会に行ったあとから、チェシャ猫はぼうっとしていることが多くなった。元より無表情でなにを考えているのか分かりにくい男だが、近頃のそれは普段のものとは違う。いつもの彼は黙っていても人の話は聞いているが、今のチェシャ猫はどこかに意識を飛ばして、違うことを考えている。


「こいつ、行動パターンが限定的なやつだろ。繰り返してるだけだから、動きは読みやすいな」


「だから、今そう言ったんだけど。全然聞いてないな」


 一年半共に過したシロも見たことがないような状態のチェシャ猫に、シロは一抹の不安を抱えていた。


 *


 その夜、チェシャ猫は指定されたコンビニの前を訪れていた。空は重く曇っており、星は見えない。マフラーの内側から洩れる息は、白くくすんでいた。


 ターゲットは、毎晩八時頃に必ずやってくる、ホームレスらしき風貌の男。見た目年齢は七十代程、禿げ上がった頭にキャップ帽で、毎日同じおにぎりを盗む。そこまで分かっていたのになかなか捕まえられなかったのは、店を出た直後には霧のように消えてしまうから。一度捕まって警察へ突き出されたが、やはり一瞬のうちに消えていなくなったという。

 とはいえ行動パターンは決まりきっているし、顔写真もある。確認を取る手間がない分、狩人初心者向けのような容易な案件である。

 しかし出かける前、シロに念を押された。


「本当に大丈夫? 今日じゃなくてもいいんだよ?」


 ここ数日ぼんやりしている今のチェシャ猫では、相手が弱いレイシーでも危険かもしれない。シロとしては、チェシャ猫には本調子になるまで危ない仕事はさせたくない。しかしチェシャ猫は、拳銃のメンテナンスをしていた。


「相手は毎日万引きしてんだろ。だったら早く終わらせた方が被害が少なくて済む」


「そうだけどさ。だったらチェシャくん、その上の空を治してよ」


「上の空? 俺が?」


「とぼけない。自覚あるでしょ。なにか気になってるんなら、相談に乗るよ?」


 自分の方に顔を向けさえしないチェシャ猫に、シロが問い詰める。チェシャ猫はしばらく無言で銃の手入れをしていたが、やがて作業を完了させて、シロに返事をした。


「問題ない。仕事には集中できる」


 そう言って、数時間後。現在、チェシャ猫はシロの心配を押し切って、現場のコンビニ前にいる。


 シロの言うとおり、上の空である自覚はあった。

 日常生活の中で、食事をしていても眠りにつく前も、気がつくと巡のことを考えている。思考を振り払って気を紛らわせてみても、いつの間にか何度でも不安が戻ってくる。仕事をしている今も、例外ではない。

 これもまたシロの言うとおり、気が散るなら相談すべきだったかもしれない。ひとりで抱えるには重すぎる問題も、人に話せば楽になる。シロは事情を知っているし、親身になって聞いてくれただろう。


 だが、妹が首を吊ろうとしていたとは、自分の口からは言えなかった。

 それも責任の一端は兄である自分にある。巡のために頑張ってきたつもりだったが、疲れが声色に出ていたのか、巡に気負わせてしまった。愛莉を連れていったことで、巡をより不安にさせた。巡の繊細な感情に、気づけなかった。

 そんな自分が悔しくて、相手がシロでも、言えなかったのだ。


 コンビニの前で待機していたチェシャ猫は、腕時計に目をやった。ターゲットのレイシーが現れるまで、あと五分程度である。

 人影は、疎らであるがなくはない。拳銃を取り出せば騒ぎになるが、この時間のこの場所以外の目撃情報がない以上、ここで待機するしかない。入店の直前に、コートの影から撃って灰を回収し、即座に立ち去るしかないだろう。普通なら注目を集めてしまうが、気配のないチェシャ猫なら、人目を盗むのは得意だ。


 と、そのとき、コートのポケットの中で携帯が震えだした。チェシャ猫は顔を顰めた。あと五分でターゲットが現れるというのに、タイミングが悪い。チェシャ猫にかかってくる電話といえば、シロや深月、山根からのターゲットに関する新情報か、或いは羽鳥による武器の取扱の注意事項である。

 急ぎでなければ後回しだ、と、チェシャ猫はポケットの中の携帯を取り出した。しかし画面を確認した瞬間、ぴたりと体が強ばる。

 表示されていたのは、「上戸先生」の文字だった。


 仕事モードに入っていたチェシャ猫だったが、その名前を見た途端、一気にスイッチが切り替わった。

 医者から直接電話が来るなど、只ごとではない。頭の中を嫌な予感が駆け巡る。

 応答するのに躊躇はなかった。


「はい」


 緊張気味の声で応じた彼に、電話の向こうの上戸は、おお、と少し驚いていた。


「すぐに繋がって良かった。突然電話してすまないね。今、大丈夫かい?」


「巡になにかあったんですか」


 尋ねる声が、少しだけ震える。上戸は穏やかに返した。


「いや、施設からそういった報告はない。消耗は進んでいるようだがね」


 優しい声が、チェシャ猫に丁寧に語りかける。


「電話したのはね、今日は学会で都内に出ていて、ちょうど今いる場所が君の住所に近かったのを思い出したからだよ。今なら仕事に急かされずゆっくりと相談に乗れるから、直接会って話せないかなと思ってね」


「あっ……そう、ですか」


 巡に急変があったのではなくて、そこはひと安心した。上戸はゆっくりと、低い声で続ける。


「君と巡ちゃんは、私にとって特別なんだ。まだ若い君がひとりで妹さんを養っているのは、気がかりで仕方なくてね。私は医者としてはもちろん、ひとりの大人として、君にもっと甘えてほしい……なんて言ったら、押し付けがましいかな」


 救いの手のようだ、と、チェシャ猫は思った。

 家族を失っても嘆く暇も心の傷を癒す暇もなく、ただがむしゃらに、妹のために心血を注いできた。そんな彼に寄り添い続けたのが、上戸という医者だった。巡が施設へ入所した当初から、ずっとチェシャ猫と巡を見てきた人物なのだ。

 上戸には、強がりは通用しない。


「相談、というか。自分でもなにに迷ってるのか、分かんないんすけど」


「それでいいよ。君がひとりで抱えてる不安を、私に吐き出してくれ。それで君の心が少しでも軽くなるなら」


 上戸の優しい声に、胸が詰まる。

 はい、と、返事をしようとしたときだった。


 目の前のコンビニの、自動ドアが開いた。中からキャップ帽を被った、皺だらけの男が出てくる。その灰色がかった不健康な肌の色と、ほんのり漂う腐敗臭、見覚えのある顔を見て、チェシャ猫は咄嗟に拳銃を構えた。

 間違いない、ターゲットのレイシーである。あまりに突然の出現に、チェシャ猫の手元に焦りが生じた。


 いつ入店したのか。突然姿を消すというから、入店時は見えなかったのか。それとも、電話に気を取られて見ていなかったのか。時間は正確だ。見張っているべきときに、目を離していたのか。

 狩人の自分が、ターゲットを見落とした?


 一瞬のうちにそんな思考が駆け巡り、冷静さを欠く。片手に持った携帯からは、上戸の遠い声が洩れている。

 通行人がきゃっと悲鳴を上げた。拳銃を突き出すチェシャ猫に、周囲がざわつきはじめる。しまった、とチェシャ猫はより焦りを滲ませた。コートを影にしてそっと始末するつもりが、咄嗟のことで混乱して、予定と違う動きをした。拳銃を向けられたレイシーが、どろりとした目でチェシャ猫を振り向く。作戦が次々と崩れていく。

 相手は姿を消さずにまだここにいる。すぐにでも撃ち殺すべきか、否、ここは保身を優先して一旦引くべきか。しかしレイシーには顔を見られた。敵意も感じ取られている。

 迷いで頭が真っ白になった彼の耳に、明るい声が飛び込んできた。


「あっ! チェシャくーん! いたいた、間に合ったー!」


 真正面から、愛莉が手を振って走ってくるではないか。


「シロちゃんがね、今日のチェシャくん心配って言ってたから応援に来ちゃった!」


 彼女の声が響くなり、周囲の視線はそちらに誘われ、レイシーはびくんと怯んだ。

 人の視線が誘導されたその一瞬の隙に、チェシャ猫は拳銃の引き金を引いた。老人のレイシーの胸に銀の弾が命中し、その傷から灰が吹き出す。チェシャ猫は試験管に灰を回収するのは諦め、すぐさま後ろを向いて駆け出した。

 愛莉の声が背中に届いてくる。


「って、あれ? 終わった? え、チェシャくーん!?」


 不本意ながら、愛莉には助けられた。チェシャ猫は全速力でその場を離れつつ、愛莉には今度、抹茶ラテでもご馳走しようと決めた。

 追いかける愛莉がレイシーだった灰の横を駆け抜けると、同時に灰は浄化されて消えていった。

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