誘導
「お帰り。巡ちゃんはどうだった?」
『和心茶房ありす』では、シロが暇そうに新聞を読んでいた。愛莉がコートを脱ぎつつ返す。
「元気そうだったよ! 豚のぬいぐるみに名前を付けてくれてね、それでね、外を見たいって言うから今日はあたしが目の代わりになって見たものを言葉で教えてあげたんだ。天気良かったけど山の方はちょっとだけ雪が積もっててね、それからね……」
愛莉がマシンガンのように喋る横で、チェシャ猫は黙ってコートを腕に抱えて目を伏せていた。シロはそれを窺いみると、そっとカウンター席に手を差し出す。
「チェシャくん、今日は席を指定します。ここ座って」
「ん?」
チェシャ猫が少しだけ目を上げる。シロはじっと、その目を見つめ返した。
「なんだかいつも以上に目が死んでる。だから向かい合ってきちんと表情の変化を読み解きたいな、と思ってね」
チェシャ猫はぴくっと眉を寄せた。ポーカーフェイスのつもりでも、シロには見透かされる。彼の苛立った顔を見て、シロは誤魔化すように笑った。
「なんてね。テーブル席までドリンク運ぶの面倒だから、近いところに座って」
「分かった」
チェシャ猫は気だるい顔で、しかし素直にシロに従った。なんでもお見とおしのシロがなんとなく癪に障るので、却って気丈に振る舞ってやろうと堂々と正面に座る。
愛莉が晴れやかなテンションで、チェシャ猫の指定席の隣に腰を下ろした。
「じゃ、あたしはその隣ー!」
座ってすぐにメニューを眺め、愛莉は歌うように声を弾ませる。
「豚のぬいぐるみ……ペッパー、気に入ってもらえて嬉しいなあ。ぬいぐるみはやっぱり正解だったなあ。またなにか新しいの買おうっと」
元気な愛莉を鬱陶しげに横目で見て、チェシャ猫はピシャリと言った。
「いや、もういい。というか、あんたはもう巡の施設に来ないでくれ」
「へ!?」
愛莉がぶんとチェシャ猫を振り向く。手に持ったメニューを折り曲げそうな勢いだった。
「なんで!? あたし、巡ちゃんと仲良いよね!?」
「知らん。とにかくもう来るな」
「だからなんで!? そんなふうに言われたって納得できなければ何度でも行くよ!」
「来るな。上戸先生があんたはだめだっつってんだよ」
突き放すチェシャ猫に、愛莉はますますヒートアップしていく。
「なにそれ! あたしがなにしたっていうの? 他の子の迷惑にならないように、施設ではちゃんと静かにしてるよ! 巡ちゃんと話してはいるけど、声の大きさは気にかけてるもん」
愛莉がキッと目を吊り上げた。
「なにをしたってわけでもないのに嫌われるとか、意味分かんない。あたしを本能的に避けてるレイシーと一緒じゃん。上戸先生ってレイシーなんじゃないの!?」
「おい。失礼だぞ、撤回しろ」
「先に失礼したの上戸先生だもん!」
「こらこらこら。今のはチェシャくんが悪い」
ふたりの掛け合いに割って入ったシロが、チェシャ猫の前に和紅茶を置いた。
「先生が人間かレイシーかはさておき。どうして急に、愛莉ちゃんは面会に行っちゃだめになったの?」
丁寧に問いかけられ、チェシャ猫は決まり悪そうに下を向いた。愛莉もむっすりした顔でチェシャ猫を覗き込み、彼の回答を待っている。
チェシャ猫は少し間を置いて、答えた。
「上戸先生が、巡にとって良くないと言うから」
「そうなの? 僕はその場にいたわけじゃないから分からないけど、愛莉ちゃんと巡ちゃんの関係は良さそうだと思ってるよ。チェシャくんだって、珍しく素直に愛莉ちゃんを認めてたよね?」
シロが重ねて問う。チェシャ猫はより不服げに、紅茶の水面を注視した。
「こいつの存在は、巡にとっても悪くない刺激だと思う。実際、俺しか面会に来なかった頃より格段に明るくなった。でも、上戸先生がそうじゃないと言う」
黙って聞いているシロと愛莉に、チェシャ猫は目を合わせずに続けた。
「巡は多感な歳頃だから……いろいろ思い詰めてるらしい。俺がこいつを連れてくるのも、巡からすれば不安要素なんだと」
「そんな……巡ちゃん、仲良くしてくれるよ?」
愛莉が寂しそうに眉を八の字に下げる。チェシャ猫は指を組み、額を乗せた。
「それも俺に気を遣ってるつもりかもしれない。ともかく巡は、こっちが感じる以上に気負ってる」
「そっかあ。仲良くなれたと思ってたんだけど、巡ちゃんにはストレスになってたんだね」
大人しく受け入れる愛莉に、チェシャ猫もしゅんとする。自分も、愛莉と巡は良い関係だと思っていた。むしろ愛莉の明るさが巡を元気付けているようにすら見えていた。巡が無理をしていたと気づけなかった自分が、無性に情けない。
愛莉がつまらなそうにメニューを眺める。
「あーあ。巡ちゃんに悪いことしちゃったなあ。シロちゃん、はちみつ柚子レモンホットでお願いしまーす」
「はーい。なんだか複雑だねえ。巡ちゃんは優しい子だから、考えすぎちゃうのかもね。僕も近いうちに会いに行こうと思ってたんだけど、やめた方がいいかな」
傷ついている愛莉をフォローしつつ、シロはちらりとチェシャ猫の面持ちを窺った。チェシャ猫は表情の変化が乏しいが、なんとなく、まだもやもやしているのが見て取れる。
「他にもなにか、気がかりがある?」
シロが尋ねると、チェシャ猫はなにか言いかけて呑み込んだ。代わりにやや目を泳がせてから、改めてシロを見上げる。
「巡の件じゃねえけど、施設の窓から月綴ヶ丘の老婆殺しの現場の山が見えた。事件の当時、上戸先生はあの近くの病院に勤めてたらしい」
「へえ」
「あの人は当時の現場付近を知ってる。いろんな噂があったと言ってたし、シロさんの叔父さんについて、なにか聞いてるかもしれない」
上戸なら、事件を調べている警察とは違い、確定している事実以外も話してくれるかもしれない。公的な記録に残らないような、関連性の曖昧な、噂程度の話を引き出せる。
シロははちみつ柚子レモンを作りつつ、ふうん、と興味を覗かせた。
「なるほどねえ。まあ僕なんて後回しでいいんだけど、もし気になる話を聞けたら教えてね」
「そうする。先生はいつ見ても忙しそうだから、巡の件以外でじっくり話す機会はないかもしれないが」
そんなやりとりをするチェシャ猫とシロとを、愛莉が見比べる。
「ねえねえ、その老婆殺し? ってなんなの?」
「ああ、愛莉ちゃんには話してなかったか。八年前、老婆の遺体が山の中に埋められていた事件でね。事件現場とうちの叔父が消えた場所が近くて、なにか関係あるかもしれないんだよ」
シロがはちみつ柚子レモンを愛莉の前に置き、簡単に説明する。途端に、愛莉は勢いよく食いついた。
「そうなの!? じゃあ叔父さんは……えっと、現場が近いとなんなの?」
食いついたものの自分の中で結び付けられず、愛莉は途中で首を傾げた。チェシャ猫が愛莉を鼻白む。
「分かんねえのかよ。現場が近いなら、叔父さんは事件に巻き込まれたかもしれないってこと。事件に関与していたとしたら、その後の足取りが掴めるかもしんねえだろ」
「巻き込まれたってどういうこと?」
愛莉がはちみつ柚子レモンを口元に運び、とぼけた声で聞く。チェシャ猫は辟易気味に、だが見捨てずに返す。
「だから……その老婆を埋めてるところを見たかもしれないとか。殺される瞬間を見たかもとか……」
答えるチェシャ猫に、シロがにこりと笑って付け足した。
「或いは、叔父がその老婆殺しの犯人、とかね?」
ぴたっと、チェシャ猫と愛莉は凍りついた。
絶句するふたりの反応を楽しむかのように、シロはくすくすと笑う。
「この老婆殺しの事件は、犯人がまだ捕まってないんだよ。叔父の行方不明も、人を殺して逃げていると考えると辻褄が合……なんてね」
「シロさんて時々、冗談の趣味が悪いよな」
チェシャ猫が血の気の引いた顔で気色ばむと、シロはまた、からからと可笑しそうに笑った。