衝撃の通告
つきとじ寮福祉部の談話室に、愛莉の明るい声が踊る。
「巡ちゃん! 会いに来たよ」
「その声、愛莉お姉ちゃん! また来てくれたんだ。ありがとう」
椅子に腰掛ける巡が、声の方向に顔を向ける。顔は相変わらず包帯で覆われていたが、露出している口元の端がぱあっと吊り上がり、彼女の嬉しそうな表情は充分に見て取れた。その横では、チェシャ猫が買い出してきた荷物を運んでいる。
「巡。なにか欲しいものあるか。足りないものは?」
「お兄ちゃんも、いつも気にかけてくれてありがと。大丈夫だよ」
この日は、巡の面会に来たチェシャ猫に、愛莉が同行していた。愛莉がこの施設へ訪れるのは、これが三回目である。
椅子に座る巡は、大事そうに胸に子豚を抱えている。愛莉が二度目にこの施設へ訪れた際にプレゼントした、手触りのいいぬいぐるみだ。
「この子ね、『ペッパー』って名前にしたの」
自慢げにぬいぐるみを抱き寄せる巡に、愛莉は椅子の横にしゃがんで笑いかけた。
「センスいいね! 大事にしててくれて嬉しいな」
巡が小さな手を広げ、ぬいぐるみの顔を触る。
「ここにつやつやした目があって、ここが耳で、これが鼻。見えなくても、どんな顔をしてるか分かる。ペッパーはとってもかわいい」
ぬいぐるみのプレゼントは、チェシャ猫が想像していた以上に巡に喜ばれた。目が見えない巡にぬいぐるみを渡すなどという発想は彼にはなく、それを思いついて行動に移した愛莉には内心感謝している。
そこへ、廊下から足音が響いてきた。
「お兄さん、お待たせしたね」
白衣に長身の、凛とした紳士。巡の主治医の上戸である。今日、彼はここへ診察に来るついでに、チェシャ猫に連絡を入れていた。
上戸が談話室の入口に立ち止まって、にこりと微笑んでチェシャ猫に手招きをする。腕には資料を挟んだクリアファイルを抱えている。彼に呼ばれたチェシャ猫は、離れる前に巡にひと言声をかけた。
「先生と話してくる」
「うん。行ってらっしゃい。愛莉お姉ちゃんとお喋りして待ってるね」
巡が言うと、上戸は少し、困り顔で微笑んだ。
「仲良しなのはいいけれど、静かにね。他の子もいるから」
それを受け、愛莉が自身の口を塞ぐ。
「あっ、うるさかった? ごめんなさい」
愛莉と巡を残し、チェシャ猫は談話室を出た。上戸について、廊下を行く。上戸は大きな歩幅で、悠々と歩いていた。
「あのお嬢さんは、君の彼女さんかい?」
「まさか。知人……の、知人です」
自分にとって愛莉がなにに当たるのか分からず、チェシャ猫はひとまず、知人シロの知人ということにした。上戸は踏み込んでは来ず、そうか、と軽く返事をする。
「できれば、あまりこういった施設へ呼ぶべきではないね」
「ん。だめだったんですか」
「推奨はできないな。巡ちゃんは顔にコンプレックスを抱えている。心を許したお兄さん以外には、あまり見られたくないだろう。彼女のストレスになるから、できるだけ他人は施設へに入れない方がいい」
「はあ、そうなんですか」
チェシャ猫は返事をしつつも、頭に疑問符を浮かべていた。愛莉は面会の受付でなにも言われず通過しているので、問題ないと思っていた。だがもしかしたら、チェシャ猫が忘れていただけで本来は面会が許される範囲は家族のみだったのかもしれない。巡がここへ入所した当初の、焦燥していた自分なら、聞き洩らしていてもおかしくない。となると、これまでに二回も愛莉が面会に来れたのは、本来は追い出されるはずだったのに、施設側が特別に許可してくれたのだろうか。
そんなことを考えているうちに、上戸は廊下の奥の扉の前で立ち止まった。「応接室」のプレートが掲げられたその部屋は、八畳ほどのスペースにテーブルがひとつ、あとは六つの椅子がある小部屋だった。
この部屋は、チェシャ猫も何度か使っている。巡を入所させるときに施設の責任者と面接をしたり、その他大事な話があるとき、ここを利用している。施設を出入りする上戸も、入所する子供の健康面に関して保護者に話をするとき、この部屋へ呼んでいた。
チェシャ猫に着席を促し、上戸も彼の正面の椅子に腰を下ろした。向かい合うなり、上戸は早速、クリアファイルから資料を取り出した。
「いつもばたばたしてすまないね。あまり時間がないから、単刀直入に聞くよ。巡ちゃんの海外での治療の件は、考えてくれたかい?」
火傷で変形した巡の顔を、元どおりに整形する手術。失明した目も、最先端医療で回復する。
しかしそのためには、海外の病院への入院が必要で、費用も莫大にかかる。
「巡の体が自由になる可能性が少しでもあるなら、俺はその手術を受けさせたい、です」
「そうだよね」
「でもまだ、巡には言えていません」
チェシャ猫は目を伏せ、テーブルの小さな傷を睨んだ。
「巡のことだから、多分、拒否する。金の心配をして受けたがらないと思うんです」
「そうか」
上戸はテーブルに肘を乗せ、手指を組んでその上に顎を置いた。
巡は遠慮がちで気遣い屋な少女である。手術を受ければそれなりの費用がかかり、自分のために兄が苦しむのまで想像が及ぶ。自分の体のために兄にそこまでさせられないと、手術を拒むだろう。
「気持ちは分かる。だが、あまりじっくり悩んでる時間はなさそうだ」
上戸が重々しく口を開く。
「施設の職員から報告があったんだ。先日巡ちゃんが、自分の首を括っていた、と」
「……は?」
チェシャ猫は肩を強ばらせた。普段の堂々とした姿勢は消え、彼には珍しいほどはっきりと動揺した。
「巡が、首を?」
「ある職員が夜に見回りをしていたら、巡ちゃんが赤いリボンを首に巻き付けて、締め付けていたそうなんだ。職員が入ってきたのに気づいて、すぐに解いたけれど。なにをしていたのか聞いても、とぼけて答えてくれない。念の為、リボンは取り上げておいた」
赤いリボンと聞いて、チェシャ猫の脳裏に豚のぬいぐるみが浮かんだ。愛莉が手渡したぬいぐるみは、不織布の袋でラッピングされており、その袋の口は赤いリボンで縛られていた。巡はそのリボンで、自身の喉を絞めようとしたというのか。
「あいつ、そこまで思い詰めて……」
チェシャ猫が掠れた声を洩らす。上戸はますます暗い顔で俯いた。
「巡ちゃんと接していると、彼女は表面に見える以上に、深い闇の中に沈んでいると感じるときがある。いつもにこにこしているが、表に出さないだけでかなり参っているよ、あの子」
上戸のしっとりとした低い声が、重量感をもってチェシャ猫に言い聞かせる。
「腫れ物に触るように接されることや、顔を不気味がられる悲しさはもちろん、自分のために身を粉にする兄への申し訳なさ、自由に動けない自分への苛立ち、将来への不安、シンプルな退屈。いろんなものが彼女を追い詰めて、精神を蝕んでいる」
チェシャ猫は黙って聞いていた。上戸がチェシャ猫の瞳を、じっと真剣に覗く。
「それに加えて、あの女の子……愛莉ちゃんといったかな。あの子の存在が良くない」
そう言われてチェシャ猫が怪訝な顔で見つめ返すと、上戸は丁寧に付け足した。
「巡ちゃんはしっかりした子だけれど、まだ中学生だ。唯一の肉親のお兄さんが、彼女……らしき人を連れてきた。複雑だと思うよ」
「彼女じゃないですし、巡にもそう伝えてます」
チェシャ猫が言うも、上戸は難しい顔で首を振る。
「実際どうかはさておき、巡ちゃんにとっては、お兄さんに妹の自分より大切な人ができたように見える。お兄さんの幸せは嬉しい反面、自分への愛情は減ってしまうのではと不安になる。それに自分がお兄さんの幸せの足枷になっているのではと、心苦しくなる……。巡ちゃんは思春期だからね。お兄さんが感じる以上に、愛莉ちゃんが脅威なんだよ」
チェシャ猫は無言で俯いた。
そこまで考えが及ばなかった。自分が愛莉を引き寄せてしまったことが、巡にとってそんなに負担になっていたのか。自分を邪魔だと感じて、自ら命を絶とうとするほどに。
「私たちが思う以上に時間がない、かもしれない。決断は急いだ方がいい。君にとってなにが最優先か……それだけだよ」
クリアファイルから手渡された資料は、手術の概要や病院のパンフレットなど、様々だ。チェシャ猫は資料を手に呆然としていた。思考が止まってしまって、文字を見ても頭に入ってこない。
上戸が椅子から立ち上がる。
「さて、慌ただしくて申し訳ない。診察の時間が押してるから、そろそろ行くね」
「あ、はい。お忙しい中、ありがとうございました」
チェシャ猫はぼんやりした頭でそれだけ言い、上戸に続いて椅子を立った。
*
談話室へ戻ると、愛莉が窓の外に顔を向けていた。
「えーっとねえ。今日は天気が良くて、空がすごく青いよ。そんでね、飛行機雲がこう、ぴゅーっと長く真っ直ぐ伸びてて……あっ、あれは駅前のビルかな? なんか工事してるよ」
「へえ。なにかできるのかな?」
「うん、屋上になんか作ってる。なんだろ。面白い施設が入ったら一緒に行こう。巡ちゃんも行けるよ、きっと」
なにやら愛莉が巡の目の代わりになって、窓の外を教えているようだ。控えめなトーンながらも楽しげなふたりの会話に、チェシャ猫の落ち着かない心情が少しだけ解される。
愛莉が窓の向こうに目を凝らす。
「それでね、結構近くに山が見えるんだけど、そのてっぺんが雪で白くなってるよ」
「山?」
「うん、山、というか丘? みたいな、あんまり高くないけど……山、でいいのかな」
愛莉が表現に迷っていると、談話室の入口に立っていた上戸が助け舟を出した。
「小さいけれど、一応メディアでは山として扱われるね。とはいえ明確な名前はないし、標高が低いから昔から地元でも山とか丘とか好きに呼ばれていたみたいだよ」
「へえー! 先生詳しいね」
愛莉が上戸を振り向く。上戸はにこっと微笑んだ。
「数年前、自分のクリニックを持つまで、あの辺りの病院に勤めていたからね。一説には、あの辺一帯、『月綴ヶ丘』の地名の由来にもなったと言われてるんだ」
その名を聞いて、チェシャ猫は目を上げた。
「月綴ヶ丘……それって、老婆殺しの……」
途中まで言いかけたチェシャ猫は、ぱたりと口を閉じた。死を考えている巡の前で、「殺し」などと過激な言葉は使わない方がいいかと、気遣ったのである。上戸はへえ、と目を細めた。
「よく知ってるね。随分前の事件なのに」
「老婆? なになに、なにかあったの?」
シロの叔父の行方不明までは知っていても、老婆殺しの現場と近いというのは聞いていなかった愛莉は、話題についていけずに首を傾げている。彼女は窓を離れ、入口で立ち止まるチェシャ猫と上戸に歩み寄った。
「あの山でミステリー? サスペンス?」
「あのなあ。実際に起こった事件なんだから、そういう言い方すんなよ」
チェシャ猫が呆れ目を向ける。上戸は苦笑いすると、戸の向こうへと引き下がった。
「まあまあ、これくらいの歳の子なら、好奇心旺盛なのは仕方ないさ。私もあの事件の当時、ちょうどあの近くの病院に勤めていたから分かる。皆、好奇心で好き勝手にいろんな噂をしていたものだ」
そうして彼は、白衣の襟を引いて身嗜みを整えると、ひらりと手を振った。
「では、私はこれで。ごゆっくり」
上戸の背中が早足に遠ざかる。チェシャ猫はそれを見送りながら、彼が次の診察の時間が押していると言って慌てていたのを思い出した。部屋の奥では、巡が愛莉を呼んでいる。
「愛莉お姉ちゃん。外の景色、他になにが見える?」
「はーい、すぐ行く」
巡の元へと戻っていく愛莉と、彼女に甘える巡のやりとりが聞こえる。チェシャ猫はその声を聞き、床に目を落とした。
こんなに健気で懸命に生きている妹が、誰の目にも触れないところで、自身の首を括ろうとしていた。
その報告が、胸を押し潰して息が詰まりそうだった。